ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 【解説】

前書き

ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」にはリビジョンが異なる「EVANGELION : 1.01」と「EVANGELION : 1.11」とがあるのですが、記事を書くに当たっては「EVANGELION : 1.01」を基とし、「EVANGELION : 1.11」をそれへの追記で補う形にしました。これは、「EVANGELION : 1.11」を見る前に既に「EVANGELION : 1.01」を見ての草稿を書き終えていた事と、「EVANGELION : 1.11」の内容が「EVANGELION : 1.01」への追記で対応出来るものであった事とによります。リヴィジョンが上の「EVANGELION : 1.11」の方が「正統」として扱われるべきものであると思われる事から言えば、そちらで書き進めて行くべきところであるとは思うのですが...それに合わせて草稿を修正するにも、何分、手間であり...結局、追記で済むのであれば追記で済まそうと言う事になりました...。

以降、「EVANGELION : 1.11」との記述が無い限り、「EVANGELION : 1.01」を基にした内容になっています。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序

ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」の第壱話「使徒、襲来」から第六話「決戦、第3新東京市」までを基本にして纏めた内容になっています。単に纏めただけで無く、新劇場版「」なりの変更もあり、場面の追加、省略、入れ替え、描画の描き足し、描き直しなどが施されている他、キャラクターの心理やそれに伴う行動や台詞にも変化が加えられていました。

違う未来(結末)へと進む可能性を含んだ物語?

ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」に見られるTV版「新世紀エヴァンゲリオン」との違いの中には、未来の変化に繫がるような要素があったり、違う未来への道がある事を思わせるような雰囲気が感じられるところがあったりと、この先()、「TV」とは別の未来(結末)へと進んで行く可能性もあるのでは無いかと思えるところがありました。

(ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」は続編を前提とした作品になっています。)

勿論、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」から先もTV版「新世紀エヴァンゲリオン」を基本にして進んで行くと言う事は十分に考えられますが、「エヴァンゲリオン」は、元々、未来は開かれている(選択によっては他の未来も有り得る)と言う事を伝えていたお話でしたし、この先、他の道を進むお話に変化したとしても何ら可笑しな事では無いと思います。例えば、キャラクターの心理や行動の変化が(それが小さな変化であっても)異なる未来を齎すと言った事も考えられますし、新劇場版「」と「TV」とでは環境(世界の状態)が幾分か異なっているようなので、その影響により、「TV」で起こった出来事そのものが違って来ると言う可能性もあるかと思います。

サードインパクトを経て回帰した世界?

ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」を辿り直したような物語でありながら、海の色がサードインパクトの後の世界のように赤く染まっていたり、月面の一部が赤くなっていたり()、最後に登場する渚カヲルが碇シンジの事を既に知っているようであったりと、それ(物語)が旧劇場版で迎えた「一つの終わり」の続き、旧劇場版を経て(その影響を残したまま)始まりへと回帰した新たな物語であるかのように感じられる部分が所々に見られました。この新劇場版「」だけではまだ何とも言えませんが、物語の舞台は一周目を経験した上での(その経験が変化を生む)二周目の世界であるのかも知れません。(もし、そうであるなら、「TV」の単なる焼き直し、「改変を加えての再映像化作品」では無く、「TV」~旧劇場版「Air/まごころを、君に」を経ての「続編」、似てはいるが異なる「新たな物語」と言う事になりますが...。)

(エヴァンゲリオン劇場版(旧劇場版)「Air/まごころを、君に」の「まごころを、君に」編でリリスの首から噴出した血が月面に付着していましたが、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」ではそのリリスの血の跡のようなものが月面に見られます。)

赤い海

本編開始後、最初に赤い波が打ち寄せる海岸が映し出されていました。

ここではエヴァンゲリオン劇場版(旧劇場版)「Air/まごころを、君に」でのリリス崩壊後のラストシーンで映し出された波打ち際の映像が思い起こされます。それは(旧劇場版のラストシーンを思わせる海岸の映像を物語の最初に入れた事は)これから始まる物語が旧劇場版の後の物語である事、旧劇場版で迎えた「一つの終わり」からの続きである事を表しているようにも感じられます。(この段階ではまだ何も分かりませんし、考え過ぎかも知れませんが...。)

赤い波が打ち寄せる海岸 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

赤い波が打ち寄せる海岸。エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを君に」のラストシーンとの繫がりが感じられる。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

赤い波が打ち寄せる海岸 : エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを君に」

エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」より。赤い波が打ち寄せる海岸。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では海の色はセカンドインパクトのあった南極以外は青色でしたが、この「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では劇中で映し出される海は、どれも、セカンドインパクト後の南極の海やサードインパクト後の世界の海のように赤く染まった状態になっていました。

海の水の色が赤い : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

UNの戦車が並ぶ前の海。赤く染まっている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

海の水の色が青い : 新世紀エヴァンゲリオン 第壱話「使徒、襲来」

新世紀エヴァンゲリオン「使徒、襲来」(第壱話)より。「TV版」での同場面。海の水は青色。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

赤い海 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

UNの戦車が砲撃を行った場面。視界に入る海面が全て赤く染まっている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

青い海 : 新世紀エヴァンゲリオン 第壱話「使徒、襲来」

新世紀エヴァンゲリオン「使徒、襲来」(第壱話)より。「TV版」での同場面。こちらも海の水は青色。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

海の水の色が赤い : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

海の向こうまで水の色が赤色になっている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

海の水の色が青い : 新世紀エヴァンゲリオン 第壱話「使徒、襲来」

新世紀エヴァンゲリオン「使徒、襲来」(第壱話)より。「TV版」での同場面。海の水は青色。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

荒れた街

赤い海の後には荒れた街が映し出されていました。映ったのは二箇所。一つは電車の車両のようなものが縦になった状態で放置されていました。もう一つは地面に人型のようなものがあり、そことその周辺が赤く染まっていました。共に、(南極で起こったセカンドインパクトの影響と言うよりは)そこで何か特別な事が起こった事によりそうなったかのように見えます。

電車の車両が縦になっている : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

荒れた街。電車の車両と思えるものが縦になった状態で放置されている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

地面に人型がある : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

荒れた街。地面には人型のようなものが描かれ、周辺まで赤く染まっている。ここで何かがあった跡のように見える。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

水に浸かった街 : 新世紀エヴァンゲリオン 第壱話「使徒、襲来」

新世紀エヴァンゲリオン「使徒、襲来」(第壱話)より。新劇場版序」の冒頭で映し出されいた街と同じ街かどうかは分からないが、「TV版」の冒頭では水に浸かった街が映し出されている。これは南極で起こったセカンドインパクトの影響(海面の上昇)によるもと思われる。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

碇シンジ、登場

碇シンジは公衆電話で電話を掛けていましたが、連絡を取れずに受話器を置いていました。葛城ミサトに連絡を取ろうとしていたようです。

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では黄緑色だった公衆電話がここではオレンジ色になっていました。

碇シンジの持っていた「葛城ミサトの写真」はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」でのそれとは幾分か異なるものになっていました。また、写真だけで無く、写真の上に書かれた文字の筆跡にも違いが見られました。

人が常に同じような筆跡で文字を書くとは限りませんが(持たせる特徴を使い分ける事もありますので)、この写真の文字は一見別人が書いた文字のであるかのように見えてしまうほど筆跡が違うように見えます...。

葛城ミサトの写真 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

葛城ミサトの写真。「TV版」での同写真と比べると色々と違いが見られる。筆跡の違いも見られ、別人が書いたかのような文字になっている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

葛城ミサトの写真 : 新世紀エヴァンゲリオン 第壱話「使徒、襲来」

新世紀エヴァンゲリオン「使徒、襲来」(第壱話)より。「TV版」での葛城ミサトの写真。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

受話器を置き、「葛城ミサトの写真」を目にした後、碇シンジが何かに気が付いたように道路の方へと目を向けるけると、そこには綾波レイの姿がありました。そして、白い鳩が飛び去り、碇シンジがそれに気を取られていると、綾波レイはその間に姿を消していました。

この場面での街はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」と比較すると並んでいる建物や設置物などに違いが見られる他、全体的に廃れていて、荒れままの状態になっていました。何年も放置されているように見えます。

碇シンジがいる公衆電話の周辺 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

碇シンジがいる公衆電話の周辺。荒れたまま放置されている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

碇シンジがいる公衆電話の周辺 : 新世紀エヴァンゲリオン 第壱話「使徒、襲来」

新世紀エヴァンゲリオン「使徒、襲来」(第壱話)より。「TV版」での同場面。新劇場版序」とは異なり、街は綺麗な状態になっている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

街の通り : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

街の通り。樹も草も生え放題になっている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

街の通り : 新世紀エヴァンゲリオン 第壱話「使徒、襲来」

新世紀エヴァンゲリオン「使徒、襲来」(第壱話)より。「TV版」での同場面。新劇場版序」とは異なり、綺麗な状態になっている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

第四使徒サキエルの襲来

サキエルが姿を現し、UN軍との戦闘になっていました。

碇シンジはサキエルとUN軍との戦闘に遭遇し、巻き込まれかけますが、そこに車でやって来た葛城ミサトによって、無事、保護され、避難していました。

サキエルに対してはUN軍の通常兵器は効果が無く、そこでUN軍は切り札のN2地雷を使います。しかし、それも足止めにしかならず、結局、サキエルを倒すには至らずに終わりました。

ネルフ本部

保護された碇シンジは葛城ミサトの車でネルフ本部へと運ばれます。途中、爆風(N2地雷による爆風)によって葛城ミサトの車はベッコベコになっていましたが、無事にジオフロントへの車両用の入口(車両搬入専用口)へと辿り着いていました。

ジオフロントへの車両用の入口(車両搬入専用口)の扉に付いている「ネルフのエンブレム」が「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では新しいデザインのものに変更されていました。この新しいデザインのエンブレムは他の箇所にも出て来ます。一方、これまでのエンブレムも劇中に見られる事から、新劇場版「」になり「新しいデザインに変更された」のでは無く、「新しいデザインのものが増えただけ」と言えそうです。

司令部ではUN指揮官がUN軍では使徒に太刀打ち出来ない事をが認め、その指揮権をネルフへと譲っていました。

ネルフの新しいエンブレム : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

ネルフのエンブレム。「TV版」のものからデザインが変えられている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

ネルフのエンブレム : 新世紀エヴァンゲリオン 第壱話「使徒、襲来」

新世紀エヴァンゲリオン「使徒、襲来」(第壱話)より。「TV版」での同場面。新劇場版序」では新しいデザインのものに加え、こちらのデザインのエンブレムも登場する。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

「EVANGELION : 1.11」での追加場面

「EVANGELION : 1.01」では葛城ミサトの車がN2地雷の爆風によってベッコベコになった後、直ぐにジオフロントへの車両用の入口からの場面に移っていたのですが、「EVANGELION : 1.11」ではその前に二つの場面が追加されていました。

一つは、ジオフロントへの車両用の入口へと向かって車で移動する場面です。これはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」にもあった場面ですが、車内での二人の会話は「TV」とは異なり、「何故、碇シンジが先ほど目にした巨大生命体(使徒)や今の事態に就いて何も尋いて来ないのか」と言う葛城ミサトの疑問に対する遣り取りになっていました。

また、会話の内容だけで無く、碇シンジの会話に対する態度もTV版「新世紀エヴァンゲリオン」とは異なるものになっていました。「TV」での碇シンジには積極さと遠慮の無さとが見られました。自分から葛城ミサトに話し掛けていましたし、言葉の遣り取りも難無く行い、時には皮肉を返しています。その姿には人見知りは感じられず、それどころか、出会ったばかりの人間、親しくも無い人間を相手に自分の言いたい事をそのまま口に出している(出せている)ように見えました。それが「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」(EVANGELION : 1.11)になると...自分から話し掛ける事は無く、相手の言葉に顔を顰める事があっても言いたい事は我慢し、尋かれた事に対して素直に答えるだけの会話で済ませるようになっていました...。碇シンジが「TV」のままであれば、もう少し言葉の遣り取りに積極的であったり、顔を顰めた際に皮肉を返したりしているところだと思うのですが...。「TV」と比べると性格が変わってしまっているように見えました...。

追加された場面のもう一つは、ネルフ本部発令所で碇ゲンドウと冬月コウゾウとがモニターに映る第4使徒サキエル(N2地雷で受けた損傷を回復中)に就いて話している場面です。これもTV版「新世紀エヴァンゲリオン」にあった場面ですが、会話の内容は「TV」とは異なるものになっていました。会話の内容は以下のようになっています。

冬月コウゾウ :「第4の使徒。大した自己復元能力だな」

碇ゲンドウ :「単独で完結している純完全生物だ、当然だよ」

冬月コウゾウ :「生命の実を食べた者達か」

碇ゲンドウ :「あぁ、知恵の実を食べた我々を滅ぼすための存在だ」

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」-旧劇場版「Air/まごころを、君に」では終盤にならないと出て来なかった「生命の実」と「知恵の実」と言う言葉が、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」(EVANGELION : 1.11)では序盤であるこの段階で出て来ています。

先の事を書くと、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では、これ以外にも、セントラルドグマの巨人が出て来ていたり、それが最初からリリスである事が判明していたり、渚カヲルが出て来ていたりしています。TV版「新世紀エヴァンゲリオン」-旧劇場版「Air/まごころを、君に」では物語上の都合から後に置いてあったと思われる要素を新劇場版「」では早々と出して来ていると言えます。この辺りは、「新劇場版」になって物語上の都合が変わったのか、今度はそう言った要素を先に出しておかなければならなくなったと言う事なのかも知れません...。

因みに、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では同場面は次のような台詞になっていました。

冬月コウゾウ :「予想通り、自己修復中か」

碇ゲンドウ :「そうでなければ単独兵器として役に立たんよ」

冬月コウゾウ :(第3使徒サキエルがネルフによる監視映像を妨害した事に対して)「ほぅ、大したものだ。機能増幅まで可能なのか」

碇ゲンドウ :「おまけに知恵も付いたようだ」

冬月コウゾウ :「再度進攻は時間の問題だな」

使徒の性質や凄さを口にしているだけであり、人間の秘密や使徒の秘密に触れる言葉は見られません。

父親に捨てられた子供

葛城ミサトと碇シンジとがジオフロント内へと移動している途中、会話が碇ゲンドウの話になったところで碇シンジの頭の中に過去の記憶(父親に捨てられた記憶)が過ぎる場面...これはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」にも「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」にも見られる場面ですが、「TV」では碇シンジの記憶の映像が「カバン」と「泣いている幼い頃の碇シンジ」との二つだったのに対し、新劇場版「」ではその二つの間に「携帯音楽プレイヤー(SDAT)」の映像が入り、三つに増えていました。この「携帯音楽プレイヤー(SDAT)」は碇シンジが現在使用しているそれその物かどうかは分かりませんが、少なくとも同じ製品ではありそうです。

ここ(「碇ゲンドウ」の話から起こった連想の中)に「携帯音楽プレイヤー(SDAT)」の絵が新たに差し込まれたと言う事は、この「携帯音楽プレイヤー(SDAT)」と「(碇シンジを捨てた)碇ゲンドウ」との間、或いは、「携帯音楽プレイヤー(SDAT)」と「碇シンジが碇ゲンドウに捨てられた事」との間にTV版「新世紀エヴァンゲリオン」には無かった何らかの関係が新たに加えられた()と考えて良いのでしょうか...。劇中ではこの場面以外に判断材料となるもの(関係を思わせる話や暗示)は何も無く、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」を見ただけでは確かな事は何も分からないのですが...それ故に続編でその辺りが描かれるかどうかが気になるところです...。(描かれなければ単なる思い過ごしかと。)他には、単に「碇ゲンドウ」が碇シンジに齎した「孤独」、「碇ゲンドウに捨てられた」事によって始まった「孤独」の象徴(※※)としてそこに差し込まれたと言う事も考えられそうです。

(TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では特に関係は描かれていませ。関連があるとするなら(「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」になって新たに絵が差し込まれたように)新劇場版「」になって新たに与えられたと言う事になります。)

(※※TV版「新世紀エヴァンゲリオン」でも「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」でも「形態音楽プレイヤー(SDAT)」は碇シンジが自身の孤独を紛らわせるための道具として、そして外界を遮断して孤独を作り出すための道具として描かれています。)

カバン : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

碇シンジの頭の中に過ぎった過去の記憶。最初に「カバン」が映し出され...。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

携帯音楽プレイヤー(SDAT) : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

次に「携帯音楽プレイヤー(SDAT)」が映る。この携帯音楽プレイヤー(SDAT)の絵は「TV版」には見られなかった。この段階では何とも言えないが、父親に捨てられた過去の記憶の中に態々追加したと言う事は、その過去と何かしらの係わりがあるのでは無いかと思われる。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

泣いている幼い頃の碇シンジ : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

最後に「泣いている幼い頃の碇シンジ」が映る。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

ゲンドウから送られたIDカード

葛城ミサトと碇シンジとがジオフロント内へと移動している途中、碇シンジが碇ゲンドウから送られたと言うIDカードを葛城ミサトに見せる場面がありますが、そのIDカードと一緒になっている紙に書かれた文字(碇ゲンドウのものと思われる文字)はきちんとTV版「新世紀エヴァンゲリオン」と同じ筆跡になっていました。筆跡が同じなのは当然と言えば当然なのですが、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」になって葛城ミサトの筆跡が「TV」とはどれも()異なると言う事から、何故、碇ゲンドウに就いては変わらないのかと、本来は気にしなくても良いところが気になってしまいました...。

(ここまでで確認出来るのは碇シンジの持っていた「葛城ミサトの写真」にある文字だけですが、後の場面では「碇シンジの部屋の戸に張ってある紙」や「碇シンジの部屋の戸に掛けてあるプレート」でもその文字を確認する事が出来ます。それらも、「葛城ミサトの写真」にある文字と同じく、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」とは異なる筆跡になっています。)

碇ゲンドウの文字 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

碇ゲンドウから送られたID。葛城ミサトの筆跡が「TV版」から変わっていたのに対し、碇ゲンドウの筆跡は「TV版」から変わっていない。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

碇ゲンドウの文字 : 新世紀エヴァンゲリオン 第壱話「使徒、襲来」

新世紀エヴァンゲリオン「使徒、襲来」(第壱話)より。「TV版」での同場面。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

碇ゲンドウとの対面

ネルフ本部へと入った碇シンジは第7ケイジへと連れて行かれ、そこで碇ゲンドウと対面します。碇ゲンドウはやって来たばかりの、それも三年ぶりに顔を合わせた息子である碇シンジに対し、エヴァンゲリオン初号機での出撃を命令していました。

碇シンジは碇ゲンドウの命令に応じずエヴァンゲリオン初号機に乗る事を拒否します。

碇シンジが使えないとなると碇ゲンドウはパイロットを綾波レイへと変更していました。

碇シンジ :「やっぱり僕は...いらない人間なんだ」

碇ゲンドウがパイロットとして碇シンジを使う事を諦めた後、碇シンジが(心の中で)言った台詞です。この場面では碇シンジは少なくともパイロット(道具)としては必要とされていましたし、それは他人に自分の価値を(例え道具としてでも)示せるかも知れない機会、「いらない人間」から「他人に必要とされる人間」になれるかも知れない機会の一つであった事は確かなのですが、それを自らの選択によって捨てておきながら「やっぱり()」と言っている辺りはどう言う事なのかと思ってしまいます。突然の事であり、不安や恐怖もあったと思われる事を考えると、断った事自体は理解出来ますが...。

(もし、碇シンジが自身に道具としての価値が無い状態、何もせずにそこにいるだけの状態で他者から一人の人間として必要とされたいと思っていたのだとするなら、そして、この台詞が、そう思っていたのに道具としてしか必要とされず、道具としての価値が無いと誰からも見向きもされないと言う事に対して言った台詞だったとするなら、それは「やっぱり僕は...何もしない状態では他者にとってはいらない人間なんだ」と言う意味だったと言う事になりそうです。また、他者の中でも特に碇ゲンドウへの思いが強く、碇ゲンドウからは息子として(息子なのだから道具としての価値が無くとも、当然、無条件で)必要とされたいと思っていたのだとすると、同じ台詞でも「やっぱり僕は...父さんにとっては息子としてはいらない人間なんだ」と言う意味合いが強くなりそうです。どちらにしても、これならば碇シンジがここで「やっぱり」と言う言葉を使った事の説明(他者から必要とされていながら、それを自らが断り、その上で「やっぱり」と言い出した事の説明)が付きそうです。...と言うよりも他に解釈が浮かびません...。)

(この場面、もし、これが、同じように道具としてしか必要とされない事であっても、もっと気軽に引き受けられる事だったとしたなら、碇シンジ(何もせずに(自身の価値を示そうとする事も、他人に必要とされようとする事もせずに)他者から一人の人間として、父親から息子として必要とされたいと思っているだろう碇シンジ)はどうしていたのか...気になるところです。断るのか、それとも引き受けるのか。断ったとして、そこでまた同じ事を言うのか...。引き受けたとして、道具としてしか必要とされない事に満足出来るのか...(※※)。自分が求めていたものとは違うと感じ、結局は同じ事を言い出すのでは無いか...。色々と考えてしまいます...。)

(※※TV版「新世紀エヴァンゲリオン」における碇シンジは、後に、パイロットとして(即ち、道具としてであっても)他人から、何よりも碇ゲンドウから認められる事で自身の価値(他者から与えられた自分の価値)を感じるようになり、そこに喜びと自信とを覚えるようになります。ここでは「道具としてしか必要とされない事に満足出来るのか...」と書きましたが、「TV」から言えば、碇シンジは道具としてであっても他人に必要とされればそれなりの満足感を(それは仮初めのものであり、真の満足とは言えず、いずれ不満を感じるものかも知れませんが)得られる性質ではあると思います。(それはそれで構わないと思うのですが、他人から与えられた価値以外に何も持たず、それに縋ろうとするのは、やはり、どうかと思います...。))

代替のパイロットとしてケイジへと運ばれて来た綾波レイは身体に大きな怪我を負ってベッドに寝ている状態でした。操縦をまともに行える状態ではありません。

サキエルの地上での攻撃によってネルフ本部施設が衝撃を受けます。その衝撃によって施設が揺れ、綾波レイはベッドから落下。それを見た碇シンジは綾波レイに駆け寄り、苦しみ悶える綾波レイを抱え、「逃げちゃ駄目だ...」と繰り返した後、エヴァンゲリオン初号機に乗る事を決断していました。

この場面ではTV版「新世紀エヴァンゲリオン」にはあった「落下物から碇シンジを守るためにエヴァンゲリオン初号機が勝手に動く」が無くなっていました。

綾波レイのプラグスーツの胸の間のパーツがTV版「新世紀エヴァンゲリオン」では黒い状態だったのに対し、この「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では赤い色になっていました。

綾波レイのプラグスーツ : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

綾波レイのプラグスーツの胸の間にあるパーツが、血が通っているかのような赤い色をしている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

綾波レイのプラグスーツ : 新世紀エヴァンゲリオン 第壱話「使徒、襲来」

新世紀エヴァンゲリオン「使徒、襲来」(第壱話)より。「TV版」での同場面。綾波レイのプラグスーツの胸の間のパーツは、新劇場版序」でのそれとは異なり、黒い色をしている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

エヴァンゲリオン初号機の発進

碇シンジはエヴァンゲリオン初号機に搭乗。エヴァンゲリオン初号機は無事に起動し、出撃していました。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」でのエヴァンゲリオン初号機はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」とは外観が多少異なっていました。また、緑色の部分やオレンジ色の部分が暗闇でより強く光るようになっていました。緑色とオレンジ色とは蛍光性が強まっているようです。一方、紫色の部分は暗闇では色が全く目立たないようになっていました。

ここまでがTV版「新世紀エヴァンゲリオン」での「使徒、襲来」(第壱話)に当たるエピソードになっています。全体的に端折られていて物語の進行が速くなっていますし、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」ならではの変化が加えられている箇所もありますが、概ね「TV」と同じ流れだと言えます。

発進前のエヴァンゲリオン初号機 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

エヴァンゲリオン初号機。「TV版」とは、幾分、デザインが異なる。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

発進前のエヴァンゲリオン初号機 : 新世紀エヴァンゲリオン 第壱話「使徒、襲来」

新世紀エヴァンゲリオン「使徒、襲来」(第壱話)より。「TV版」でのエヴァンゲリオン初号機。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

発進後のエヴァンゲリオン初号機 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

エヴァンゲリオン初号機。緑色とオレンジ色とが光り、暗闇に浮かんでいる。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

発進後のエヴァンゲリオン初号機 : 新世紀エヴァンゲリオン 第壱話「使徒、襲来」

新世紀エヴァンゲリオン「使徒、襲来」(第壱話)より。「TV版」での同場面におけるエヴァンゲリオン初号機。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

サキエル戦

見知らぬ、天井」(第弐話)に該当するパートです。

エヴァンゲリオン初号機で出撃した碇シンジでしたが、エヴァンゲリオン初号機を歩かせるのが精一杯で、戦うと言うよりはサキエルの攻撃を一方的に受けるだけでした。

サキエルからの頭部への攻撃を受けたところで碇シンジの反応は消え、エヴァンゲリオン初号機は沈黙していました。しかし、その後、沈黙したエヴァンゲリオン初号機は再起動し、暴走。圧倒的な戦闘力でサキエルを自爆へと追い込んでいました。

サキエル戦ではエヴァンゲリオンがサキエルの腕を握り潰して引き千切る場面やサキエルの肋骨のようなものを破壊する場面でサキエルの体液が確認出来るのですが、このサキエルの体液がTV版「新世紀エヴァンゲリオン」では青色だったのに対し、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では赤色に変わっていました。

また、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」ではサキエルの自爆時にサキエルの体液が大量に飛び散る描写が加えられているのですが、そこでの体液も赤い色でした。

第4使徒サキエルの腕を握り潰すエヴァンゲリオン初号機 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

第4使徒サキエルの腕を握り潰すエヴァンゲリオン初号機。暗くて分かり難いが、飛び散った体液は赤い色をしている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

第3使徒サキエルの腕を握り潰すエヴァンゲリオン初号機 : 新世紀エヴァンゲリオン 第弐話「見知らぬ、天井」

新世紀エヴァンゲリオン「見知らぬ、天井」(第弐話)より。「TV版」での同場面。飛び散った体液は青い色をしている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

自爆した第4使徒サキエル : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

第4使徒サキエルの自爆時に周囲に飛び散った液体。やはり、赤い色をしている。(「TV版」には見られない場面。)

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

第4使徒サキエルが自爆した場所には、光の十字架が立ち、虹が出現していました。サキエルの自爆後に光の十字架が立つのはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」と変わらないのですが、その後に虹が出現するのは「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」になっての事です。(先の事を書くと、新劇場版「」では第5使徒シャムシエル殲滅時にも虹が出現します。また、「EVANGELION : 1.11」では第6使徒ラミエル殲滅時にも虹が出現します(この虹は「EVANGELION : 1.01」では出現しません)。これらの虹も「TV」には見られなかったものです。)

第4使徒サキエルの自爆後に出現した光の十字架と虹 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

第4使徒サキエル自爆後。新劇場版序」では、「TVTV版」と同様に光の十字架が立った後、「TV版」には無かった虹が出現している。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」とは異なり、サキエル戦がそのまま終了まで(場面が飛ぶ事も時系列が前後する事も無く)描かれていました。(「TV」では、エヴァンゲリオン初号機部がサキエルの攻撃によって頭部を損傷し、エントリープラグ内の碇シンジの反応が消えたところで、一旦、場面が戦闘後まで飛びます。そして、戦闘後の話が進んでから「碇シンジの記憶が蘇る」と言う形でサキエル戦の残りに就いてが描かれています。)

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」にあった「サキエル戦の後にエヴァンゲリオン初号機の頭部が落下する場面」は「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では無くなっていました。

サキエル戦の後、碇シンジは病院のベッドで意識を回復します。それまでの間、碇シンジは「碇ゲンドウと碇ユイとが生まれて来る子供の名前を決める話をしている」と言う内容の夢を見ていました。この夢の場面はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」では無かったところです。

碇シンジの夢の中に出て来た風景は「誰も乗っていない電車の車内」でした。この「電車の車内」を使った心的世界の描写はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」にもあったものです。しかし、「TV」ではそれが出て来るようになったのはもっと後の事であり、「新劇場版」ではかなり早い段階から出て来たと言えます。

碇シンジの夢は最後は(碇シンジの意識が回復する寸前では)綾波レイへと繫がっていました。

ゼーレ

サキエル戦の後、碇ゲンドウはゼーレの集まりに出席していました。

碇ゲンドウを除いたゼーレのメンバーは「SOUND ONLY」の状態になっていました。TV版「新世紀エヴァンゲリオン」ではゼーレのメンバーはこの段階ではまだ人型だったのですが。

ゼーレではサキエルの事を「第四の使徒」と言っていました。TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では「第三の使徒」となっていたので、「TV」からは番号が一つ上がった事になります。これは、サキエルの前に使徒が一体増えたと言う事なのでしょうか。そうだとするなら、どのような使徒が増えたのか、どう言う理由があって増えたのか...色々と気になるところです。

ゼーレのメンバー(06) :「使徒殲滅はリリスとの契約の極一部に過ぎぬ」

ゼーレのメンバー(01) :「人類補完計画...その遂行こそが我々の究極の願いだ」

ゼーレの会話内にリリスの名前が出て来ていました。TV版「新世紀エヴァンゲリオン」と比べるとかなり早い段階での登場だと言えます。

また、会話内では使徒殲滅が「リリスとの契約」であり、それが極一部に過ぎないと言う事が明かされていました。これはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」では触れられていない部分です。使徒殲滅が契約の極一部と言う事はまだまだ多くの部分が残されていると言う事になりますが...他にどのような事があるのかが気になるところです。(「TV」や旧劇場版から考えると「ロンギヌスの槍の回収」や「エヴァシリーズの建造」もその一つになるのでしょうか。)

ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」でのゼーレの石碑には、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」とは違い、「ゼーレのエンブレム」が描かれていました。

また、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」での「ゼーレのエンブレム」はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」のそれとは異なるデザインになっていました。

ゼーレの会合 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

ゼーレの会合。碇ゲンドウ以外は石碑での出席になっている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

ゼーレの会合 : 新世紀エヴァンゲリオン 第弐話「見知らぬ、天井」

新世紀エヴァンゲリオン「見知らぬ、天井」(第弐話)より。「TV版」ではゼーレのメンバーはこの頃はまだ人間の姿で会合に出席していた。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

ゼーレの石碑とエンブレム : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

ゼーレの石碑。石碑には「七つの目」と「林檎」と「蛇」が確認出来る。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

ゼーレと碇ゲンドウとの会話の途中に映し出された「人類補完計画中間報告書」は、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」の同場面でのそれは第17次中間報告書だったのですが、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」ではそれが第27次中間報告書となっていました。この差が何による差なのかは今のところは分かりません。(仮に2周目の世界であるとするなら、2周目であるため1周目よりも数が増えていると言う事なのでしょうか。)

人類補完計画 第27次中間報告書 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

人類補完計画中間報告書。「TV版」とは異なり、第27次中間報告書となっている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

人類補完計画 第17次中間報告書 : 新世紀エヴァンゲリオン 第弐話「見知らぬ、天井」

新世紀エヴァンゲリオン「見知らぬ、天井」(第弐話)より。「TV版」では第17次中間報告書となっている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

ゼーレのエンブレムの意匠

ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」での「ゼーレのエンブレム」は、七つの目、逆三角形に縦線を組み合わせた図形、林檎、蛇を組み合わせたデザインになっています。図形の中心には「SEELE」の文字が、そして、その下にはドイツ語による文字列(これに就いては後述します)が書かれています。

七つの目、逆三角形に縦線の組み合わせはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」にあったアダム(実際にはリリス)の仮面と同じです。アダム(の仮面)、林檎(「知恵の木の実」は林檎だったとも言われている)、蛇が揃ったこの図からは聖書(キリスト教徒が言うところで言えば旧約聖書)にあるエデンの園の話(楽園追放)が思い出されます。

ゼーレのエンブレム : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

ゼーレのエンブレム。七つの目、林檎、蛇、縦線の入った逆三角形を組み合わせたものになっている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

これは他の解釈も行えそうです。以下、その解釈になります。

七つの目

「七つの目」。TV版「新世紀エヴァンゲリオン」での「アダム(実際にはリリス)の仮面」にあった事からも、これは新約聖書の一書「ヨハネの黙示録」に出て来る「(七つの角と)七つの目を持つ子羊」、即ち、「キリスト(救世主)」であると解釈して構わないと思います。

林檎

「林檎」。「知恵の樹の実」だったともされている果物です。それは人に知恵を獲得させた「知恵」の象徴であり、人の負った「原罪」の象徴であり、人の負った「死」の象徴でもあります。しかし、その一方で「林檎」は「キリスト」の象徴として用いられる事もあります。また、アダムでは無く、第二のアダム、新しいアダムである「キリスト」が「林檎」を手にした場合、それは「林檎」が齎した原罪や死からのキリスト(無原罪、死して復活した者(死に対する勝利)、救済者)による「救済()」の象徴ともなります。ここでは「七つの目(キリスト)」と「林檎」とが重なっていますが、その重なりはこの「キリスト」による「救済」を思わせるところがあります。

ここでの「林檎」はその形が「心臓」のようにも見えます(そう見えなくもありません)。(「林檎」そのものもそうですが、逆三角形の一部と「林檎」との組み合わせによってハート型(心臓)を形成しているようにも見えます。)これは、意図的に「林檎」を「心臓」に似せたのだとすると、「林檎」によって「キリスト」を表しながら、更にそれを「心臓」に似せる事によって「キリスト」の太陽的性質を強調していると言う事も考えられそうです。考え過ぎかも知れませんが...。

「蛇」。人を誘惑し、堕落させた「サタン」ともされますが、グノーシス的な見方で言えば、人の内なる「神性」をデミウルゴスの世界から「認識」によって「救済」に至らしめようと、人にそのための「(天上/神/神性と地上/人間/魂とを仲介する)知恵」を与えた者であり、(それ自身が)「神との仲介者(人の「知恵」であり、「ソフィア(知恵)」であったが、後にキリストが担う事となった)」であり、「救世主(キリスト)」であると言えます。即ち、これも(グノーシス的な解釈を持ち出しましたが、その中で言えば)「キリスト(神と人間の仲介者/救世主)」として解釈する事が出来ます。

纏め

これらの事から考えると、この図は「キリスト(七つの目(救世主(キリスト))/林檎(キリストの象徴)/蛇(グノーシス的救世主(キリスト))」による「救済(七つの目(救世主(キリスト)=救済の象徴)/林檎(キリストが手にする救済の象徴)/蛇(グノーシス的救世主(キリスト)=救済の象徴)」と人の獲得した「知恵(七つの目(キリスト=天上と地上の仲介者(知恵))/林檎(知恵の木の実)/蛇(デミウルゴスの世界からの救済のために人に知恵を齎した者)」とが一体となった図であると言え、人類に対する「救済(者)」を表している図であると(一つの解釈として)解釈出来ます()。また、ゼーレが人類の由来を知る者であり、人類に対する「救済」を(普通は神が行うのを待つところを)自らによって行おうとしている事から言えば、「我らゼーレこそ、人類の由来を知る者であり、人類を救済する救済者である」と主張している図であるようにも見えます。

(こう解釈するとグノーシス的な思想を含んだ図と言えそうですが、ゼーレの人類補完計画(物質に囚われた「魂」を解放し、物質に囚われる以前にいた故郷へと帰還させる事が「救済」であり、全ての「魂」を「救済」する事よって人類全体で「魂」の充足を目指す)がグノーシス的救済(物質に囚われた「神性」を解放し、物質に囚われる以前にいた故郷へと帰還させる事が「救済」であり、全ての「神性」を「救済」する事によって故郷の充足を目指す))に通じるところがあった事を考えると(※※)、ゼーレのエンブレムがグノーシス的なものであっても何ら可笑しな事では無いように思います。)

(※※しかし、通じるところがあると言っても、グノーシス的「救済」はプレーローマの性質を持った「神性」を物質世界から解放し、全ての「神性」をその故郷であるプレーローマへと帰還させる事、それによるプレーローマの完成が「救済」の最終形であり、ゼーレによる人類の「救済」、即ち、人類の「魂」をその故郷である太母「リリス」に帰還させ、人類の「魂」を満ち足りた状態にする事を以て「救済」とするそれとは異なると言えます。グノーシス的「救済」では人の内にある「神性」はプレーローマに迎え入れられますが、「魂」はプレーローマには至れません。デミウルゴスの領域(天球)を脱する事は出来ますが、プレーローマが故郷では無い人類の「魂」は(デミウルゴスと共に)第八天(恒星天)までの上昇となります。「神性」とは異なり、天使との結婚も起こりません。グノーシス主義で人が「認識」によって目指す「救済」は、人の魂の救済、人類の魂が満ち足りる事では無く、物質界からの「神性」の救出であり、人がソフィア(知恵)の過失による損失を補填し、プレーローマを満足させる(充満させ、均衡の取れたあるべき姿に戻す)事だと言えます。(グノーシスに就いて書かれたものの中には「救済」に関し、「魂」が浄化され、神性を帯び、プレーローマへと至るとされているものも見られます。これをそのまま捉えると恰も「人の魂(プレーローマを故郷としていない、即ち、十全だった頃のプレーローマには無く、プレーローマが十全を取り戻すために必要としていない)」がプレーローマへと至る事が出来るかのように受け取る事が出来るのですが、しかし、これは英訳の際に「プシュケー」の訳語に「soul」を用いた事によるものであるように思います。即ち、「神性」が翻訳によって「人の魂」であるかのように表現されてしまっているだけのものでは無いかと...。)カバラ的に言えば、グノーシス的「救済」で人の「魂」が行き着く先は「コクマー(知恵)」であり、それは「エデンの園」であり、「アダム・カドモン」だと言えます。これに対し、人類補完計画が目指すのは全と個の区別が無い状態、即ち、「ケテル(王冠)」であると言えます。(但し、これは、劇中(人類の補完が行われた新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」の「まごころを、君に」編)では描写的には「コクマー(知恵)」と「ビナー(理解)」との中間くらいに見えます...。)また、ゼーレが行う「救済」は、人の主導で全人類を強制的に「救済」するもの、即ち、人が神に代わって人類を「救済」するものであって、個々による「認識」は必要としていないと言う点もグノーシスの「救済」とは異なります。ゼーレによる「救済」にはグノーシス的な面があますが、(そのため、グノーシス的解釈が利きそうな箇所では解釈を進めるためにそれを都合良く使いもするのですが、)グノーシス的「救済」そのままでは無いと言えます。)

魔術的解釈による纏め - 蛇を纏いし心臓

以下、魔術的解釈を用いた余談になります。

エンブレムにある「蛇」は「林檎」に巻き付いているように見えます。更に、その「林檎」は「心臓」に見えなくも無いと言う事から、このエンブレム内の「蛇」と「林檎(心臓)」とが重なっている部分は「蛇を纏いし心臓」を表しているとも見て取れます。しかし、これは、物事を直ぐに自分の範疇にあるもの()と重ねて見てしまう癖が出たがために勝手にそのように見えているだけかも知れません...。全くの見当違いと言う事も十分にあるかと思います...。

(魔術では本儀式に入る前に儀式を行うに相応しい心的状態を作り出すところから始めるのですが、その際に用いる儀礼の一つに「蛇を纏いし心臓(the Heart Girt with a Serpent)の召喚」と言うものがあります。これは「生まれ無き者の儀礼(the Bornless Ritual)」とも呼ばれます。通常は「五芒星の小追儺儀礼(LRP)」の後に(場合によっては「六芒星の小追儺儀礼LRH」を入れた後に)行います。(最初に「物見の塔の儀礼(the Watchtower Ceremony)」を選択する場合もあります。その場合は行いません。因みに、姫の場合はこの「蛇を纏いし心臓の召喚(生まれ無き者の儀礼)」で心的状態を作り出す事が殆どとなっています。))

ゼーレのエンブレム(再掲) - 蛇を纏いし心臓 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

ゼーレのエンブレム(再掲)。蛇が林檎に巻き付いている。この蛇と林檎との組み合わせは蛇を纏った心臓を表しているようにも思われる。林檎は、林檎そのものを心臓として見る事も出来るが、逆三角形の一部と林檎との組み合わせによってハート型(心臓)を形成していると言う見方も出来る。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

ゼーレのエンブレムの文字列

「SEELE」の下方にある文字列は「Überm Sternenzelt richtet Gott, wie wir gerichtet.」と読み取る事が出来ます。ドイツ語のようです。意味は分かりません。そこで辞書を片手に翻訳に挑戦してみました。ドイツ語に触れるのは久しぶりだったため自信はありませんが、これは次のような意味になるかと思います。

星々が輝く天空の遥か彼方で神が裁く、私達が裁いたように

「星々が輝く天空」と訳した部分は、昔の人々の宇宙観で言えば(惑星が支配する七層の天の外にある)「第八天/恒星天()」に当たるかと思います。そのため、ここは「星々の領域」、「星々が輝く天球(スフィア)」、「星々の天幕/天蓋」辺りの訳でも良いと思います。

(「第八天/恒星天」。他にも黄道帯(獣帯)/星天/固定天(蒼穹)などの呼び方があります。昔の人々の宇宙観では、七惑星が支配する天球領域(第一天から第七天)の向こうにあると考えられていた「星々が固定され輝いている天球領域」です。至高神と創造神(デミウルゴス)とを分けて考える場合、ここに創造神(デミウルゴス)が当てられる事があります。また、グノーシスの派によっては、プレーローマの下の中間界(天上界)とされ、救済が起こる前の「下なるソフィア」の天球や、救済が起こった後に創造神(デミウルゴス)と「人の魂」とが昇る天球に当てられる事があります。(この場合、救済が起こる前の創造神(デミウルゴス)の天球は「第七天」に当てられます。))

「星々が輝く天空の遥か彼方」の「遥か彼方」と訳した部分は、「そこを離れた更に上の方」と言う意味でこの言葉を選びました。「星々が輝く天空」よりも更に遠く、更に高く、更に上位の天球と言う事です。「星々が輝く天空(黄道帯/恒星天)」から離れて更に上の方と言う事は、これは昔の人々の宇宙観で言えば「第九天/原動天(※※)」を越えた「第十天/至高天」を表しているものと思われます。

(※※「第九天/原動天」。昔の人々の宇宙観で「第八天/恒星天」の向こうにあると考えられていた天球です。(「恒星天」の上に「水晶天」を置く形では、その「水晶天」の上が「原動天」になります。その場合、「水晶天」が「第九天」、「原動天」が「第十天」となります。)「原動天」の上に「至高天」を設けない場合、この「原動天」が神(一者/不動の一者/不動の動者/第一動者など表現は様々)の天球になります。「至高天」を設けた場合、そこが至高神の座になります。)

ゼーレの石碑の裏側

ゼーレの石碑の裏側にも図が描かれていました。

中央には「目」があり、その上と左下と右下には「ヘブライ語アルファベット(を左右反転させたもの)」が見えます。

描かれている「ヘブライ語アルファベット」に就いては手元で使用している映像が鮮明では無いので断言は出来ませんが、上が「V(ヴァウ)」、左下が「H(ヘー)」、右下が「I(ヨッド)」、「H(ヘー)」、「V(ヴァウ)」を縦に並べたもの()のように見えます。

(テトラグラマトン「IHVH(ヨッド/ヘー/ヴァウ/ヘー)」を使って表したアダム・カドモン(※※)から最後の「H」を取り除いた形になっています。)

テトラグラマトン(IHVH)によるアダム・カドモン

テトラグラマトン(IHVH)によるアダム・カドモン。「I」、「H」、「V」、「H」を縦に並べ重ねて作った人型で、「I」が頭、「H」が両腕両手、「V」が生殖器、最後の「H」が両脚両足に当たる。石碑の裏側の右下に描かれているものはこの形から最後の「H」を除いた形になっている(ように見える)。

(※※アダム・カドモンは天上のアダム、アダムの原型、アダムのイデア、マクロコスム的アダム、第一のアダム(※※※)、原初のアダム、救世主...などと言われ、神が地上に肉体を持ったアダムを作る前に原型としたものであり、地上のアダムとは別とされています(同じとしている考えも見られます)。このアダム・カドモンは、アダム(人間)が本来あるべき形とされ、(グノーシス的に言えば)人に知恵を齎した蛇や、キリスト(救世主)とされる事や、デミウルゴス(物質界の創造主)の役目を持たされる事もあります。)

(※※※前述の文中では地上のアダム、物質的アダムを「第一のアダム」として、その後に天上から来るアダム、霊的アダム、即ち、キリスト(イエス)を「第二のアダム」と表現している箇所がありますが、この第一、第二と言う呼び方は何を基準にするかによって変わって来るところとなります。例えば、ここでのようにアダム・カドモン(天上のアダム)とアダム(地上のアダム)とを分けて考えた場合、アダム・カドモンが「第一のアダム」、地上のアダムが「第二のアダム」となります。(更にそこにはキリスト(イエス)を「第一のアダム」とする解釈(アダム・カドモンをキリスト(救世主)とし、「イエス=受肉したアダム・カドモン」とする考え)も出て来ます。)また、グノーシス的に霊/魂(心魂)/物質(肉体)の三つに分けた場合、天上の霊的アダムが「第一のアダム」、中間界の心魂的アダムが「第二のアダム」、地上の物質的アダムが「第三のアダム」となります。更にはカバラの四世界のそれぞれにアダムを考えた場合、「アツィルト界」のアダムが「第一のアダム」、「ブリアー界」のアダムが「第二のアダム」、「イェツィラー界」のアダムが「第三のアダム」、「アッシャー界」のアダムが「第四のアダム」となります。この辺りは色々あるところだと言えます。)

ゼーレの石碑の裏 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

ゼーレの石碑の裏。中央には目が描かれ、その上、右下、左下にはヘブライ語のアルファベットが描かれている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

戦闘後の街

サキエル(使徒)殲滅後の街は赤い血の海のようになっていました。

赤木リツコ :「ATフィールドを失った使徒の崩壊...予想以上の状況ね」

伊吹マヤ :「まさに血の池地獄。何だかセカンドインパクトみたいで嫌な感じですね」

赤木リツコの話からすると街が赤い海と化したのは先の戦闘によってサキエルが崩壊した事によるもののようです。TV版「新世紀エヴァンゲリオン」でのサキエル戦の後にはこのような事は無く、これは劇場版独自の現象です。

葛城ミサトの家での共同生活

最初は一人で暮らす事になっていた碇シンジでしたが、葛城ミサトの意向によって葛城ミサトのマンションで葛城ミサトと一緒に暮らす事になっていました。

葛城ミサトのマンションではペンペンが登場。相変わらず人間らしさがありました。葛城ミサトの話によると15年前にはいっぱいいたそうです。

お風呂場で洗濯物が映った場面では洗濯物を干している道具が、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」の3点吊りのものから、2点吊りのものに変わっていました。2点吊りですが不思議な事に均衡は取れているようです。

葛城ミサトの下着 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

葛城ミサトの下着が干してある。二点、それも手前側だけで吊るしてある。しかし、傾いているようには見えない。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

葛城ミサトの下着 : 新世紀エヴァンゲリオン 第弐話「見知らぬ、天井」

新世紀エヴァンゲリオン「見知らぬ、天井」(第弐話)より。「TV版」では三点で吊るしている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では青い色をしてたお風呂の水(お湯)が、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では赤みを帯びたものに変わっていました。

赤い水のお風呂 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

お風呂。「TV版」とは異なり、水(お湯)が赤みを帯びている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

青い水のお風呂 : 新世紀エヴァンゲリオン 第弐話「見知らぬ、天井」

新世紀エヴァンゲリオン「見知らぬ、天井」(第弐話)より。「TV版」では水(お湯)は青い色をしている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

凍結中のエヴァンゲリオン零号機

凍結中のエヴァンゲリオン零号機の前での碇ゲンドウと赤木リツコとの会話はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」とは違う内容のものになっていましたが、その会話からは碇ゲンドウが「TV」の時よりも碇シンジに対して冷たくなっているような感じを受けました。

赤木リツコの台詞からすると葛城ミサトの階級は二佐のようです。TV版「新世紀エヴァンゲリオン」での葛城ミサトはこの段階では一尉でした。

碇シンジの部屋

碇シンジの部屋の張り紙は葛城ミサトが書いたものかと思われますが、「葛城ミサトの写真」にあった葛城ミサトのものと思われる文字に続き、この張り紙の文字もTV版「新世紀エヴァンゲリオン」のそれとは異なる筆跡のものになっていました。TV版「新世紀エヴァンゲリオン」と比べると別人が書いた文字のように見えます。

碇シンジの部屋の張り紙(シンちゃんのお部屋) : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

碇シンジの部屋の張り紙。「TV版」とは異なる文字列が見られる。文字は葛城ミサトのものと思われるが、「TV版」とは筆跡が異なる。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

碇シンジの部屋の張り紙(シンちゃんのヘヤ) : 新世紀エヴァンゲリオン 第弐話「見知らぬ、天井」

新世紀エヴァンゲリオン「見知らぬ、天井」(第弐話)より。「TV版」での張り紙。葛城ミサトの文字かと思われる。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

ベッドの上で横になている碇シンジの頭の中では先のサキエルとの戦闘の記憶が蘇っているようでした。(TV版「新世紀エヴァンゲリオン」であれば、この記憶の蘇りと共にサキエル戦の後半が描かれるところです。)

ここまでが「見知らぬ、天井」(第弐話)に該当するパートになります。サキエル戦の後半を後に回さずにそのまま話が進められていた事が大きな違いだと言えます。他には、碇シンジが病院で意識を取り戻すまでの間に夢を見ている場面が追加されていた事、サキエル戦の後に街が赤い海になっていた事、ゼーレの集まりの中でリリスの名前が出されていた事、葛城ミサトが事の運びに疑問を抱いていた事など...変更点や描き足しは色々とありましたが、概ねTV版「新世紀エヴァンゲリオン」と変わらないと言って良いと思います。

学校

鳴らない、電話」(第参話)に該当するパートです。

学校の場面は碇シンジが鈴原トウジに殴られる場面から始まっていました。(学校での授業風景であったり、碇シンジが他の生徒達にエヴァンゲリオンのパイロットである事を知られる経緯であったりは省略されていました。)

鈴原トウジに2度殴られるまでの流れはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」と同じですが、2度殴られた後に「TV」には無い「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」独自の台詞が追加されていました。

碇シンジ :「どこが人に褒められる事なんだろう。エヴァに乗ってたって言うだけで何で殴られるんだろう」

これはサキエル戦の後に葛城ミサトに言われた「あなたは人に褒められる立派な事をしたのよ。胸を張っていいわ」があっての台詞です。自分がエヴァンゲリオンのパイロットとして戦わなければいけない理由をはっきりとは持たず、人類のために戦おうと言う意志や決意や使命感と言ったものも持っていない碇シンジからすると、(1度目に殴られた後に言った言葉、「僕だって好きで乗っている訳じゃないのに」もそうですが、)これは当然と言える素直な気持ちだと思います。周りの人間の都合でただ戦いに送り出されただけの碇シンジには自覚を持てと言う方が難しく、同じ立場にあったなら(この段階では)姫でも(やるかやらないかは別にして)そう思うかも知れません。

戦闘シミュレーション

この戦闘シミュレーションの場面はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」では碇シンジが学校で鈴原トウジに殴られる場面よりも前(「鳴らない、電話」(第参話))にありましたが、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」ではその場面よりも後に回されていました。

碇シンジのプラグスーツの胸の間にあるパーツが、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では黒色でしたが、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」ではそれが赤色になっていました。これはこの後も赤色なので、「TV」からの変更があったのだと思います。

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」ではエヴァンゲリオン初号機を使って戦闘シミュレーションを行っていましたが、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では専用のシミュレーターを使っていました。

碇シンジのプラグスーツ : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

碇シンジのプラグスーツ。胸の間にあるパーツが、「TV版」の時とは異なり、赤色になっている。(「TV版」では黒色。)

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

戦闘シミュレーター : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

シミュレーター。新劇場版序」では、「TV版」とは異なり、専用のシミュレーターを使っている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

戦闘シミュレーション中のエヴァンゲリオン初号機 : 新世紀エヴァンゲリオン 第参話 「鳴らない、電話」

新世紀エヴァンゲリオン「鳴らない、電話」(第参話)より。「TV版」での同場面。エヴァンゲリオン初号機を使って戦闘シミュレーションを行っている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

非常召集

戦闘シミュレーションや「ヤマアラシのジレンマ」の話があった後、再び学校の場面となります。

碇シンジが学校の屋上で空を眺めながらSDATで音楽を聴いていたところ、そこに綾波レイがやって来て「非常召集」を伝えていました。

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では「鈴原トウジが碇シンジを殴り、去って行った」直ぐ後にその場に「綾波レイがやって来て非常召集を伝える」のですが、この「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」ではそれらは切り離されて一連では無い場面として描かれていました。

第5使徒シャムシエル、襲来

第5使徒シャムシエル、襲来。第3新東京市まで進攻したシャムシエルに対し、ネルフはエヴァンゲリオン初号機を出撃させます。

第5使徒シャムシエルは海の向こうからやって来ていましたが、そこでも海は赤色でした。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」での第5使徒シャムシエルはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」とは幾分異なる形象になっていました。

第5使徒シャムシエル襲来 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

第5使徒シャムシエル襲来。海は、やはり、赤色をしている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

第4使徒シャムシエル襲来 : 新世紀エヴァンゲリオン 第参話 「鳴らない、電話」

新世紀エヴァンゲリオン「鳴らない、電話」(第参話)より。「TV版」での同場面。海は青い状態。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

シャムシエル : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

第5使徒シャムシエル。新劇場版序」では「TV版」とは、幾分、異なる形象をしている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

第4使徒シャムシエル : 新世紀エヴァンゲリオン 第参話 「鳴らない、電話」

新世紀エヴァンゲリオン「鳴らない、電話」(第参話)より。「TV版」での第4使徒シャムシエル。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

シャムシエル戦は、エヴァンゲリオン初号機の使用武器がパレットガンからガトリングガンに変わってはいましたが、それ以外はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」と変わらずに進行していました。

エヴァンゲリオン初号機が第5使徒シャムシエルの光の触手によって山へと投げ飛ばされた後、そこにいた相田ケンスケと鈴原トウジをエントリープラグへと非難させる場面...ここではTV版「新世紀エヴァンゲリオン」にあった赤木リツコの反対は無く、相田ケンスケも鈴原トウジもすんなりとエントリープラグへと招き入れられていました。(「TV」では2人をエントリープラグに乗せるように指示した葛城ミサトに対して赤木リツコが強く反対する場面がありました。)

相田ケンスケと鈴原トウジとがエントリープラグへと入る前に、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」には無かった「エントリープラグからハシゴが下ろされる」と言う描写がありました。これを見ると確かにハシゴが無ければどのようにしてエントリープラグ内に入ったのかと不思議に思うところなのですが、「TV」を見ていた際にはその事には全く気が付かず、気にもせずにいました...。「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」でのこの描写が無ければ未だに...そうであったと思います。

エントリープラグからのハシゴ : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

エヴァンゲリオン初号機のエントリープラグからハシゴが下ろされている。この描写は「TV版」には無かった。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

相田ケンスケと鈴原トウジとをエントリープラグに回収した後、碇シンジは葛城ミサトの撤退命令を聞かずに独断でシャムシエルとの戦闘を継続し、シャムシエルを沈黙へと至らせます。TV版「新世紀エヴァンゲリオン」と同様にシャムシエルのコアにプログレッシブナイフを突き立ててコアを破壊し、シャムシエルを沈黙させたのですが、その際、「TV」とは異なり、シャムシエルのコアからは「赤色の体液」が噴出していました。(「TV」の同場面では単にコアが色を失うだけでした。)

青葉シゲル :「目標は完全に形象崩壊」

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」ではシャムシエルはコアを破壊されて活動を停止した後も骸をそのまま残し、ネルフにとっての「理想的なサンプル」となっていたのですが、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では形象崩壊を起こし、その姿を完全に失っていました。

この第5使徒シャムシエルの殲滅時にも第4使徒サキエルの自爆時と同様に「虹」が出現してました。第4使徒サキエルの自爆時の「虹」も、ここでの「虹」も、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」には見られなかったものです。

第5使徒シャムシエル戦の後 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

エヴァンゲリオン初号機にコアを破壊された第5使徒シャムシエルは形象崩壊を起こし、姿を失う。その場にはエヴァンゲリオン初号機と触手だけが残り、第4使徒サキエルの自爆時と同様に、「TV版」には無かった「虹」が出現する。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

第4使徒シャムシエル戦の後 : 新世紀エヴァンゲリオン 第参話「鳴らない、電話」

新世紀エヴァンゲリオン「鳴らない、電話」(第参話)より。「TV版」での同場面。エヴァンゲリオン初号機の前にはコアを破壊されて活動停止に至った第4使徒シャムシエルの骸が残されている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

ここまでが「鳴らない、電話」(第参話)に該当するパートです。電話云々の話は省かれていました。他にも追加、省略、話の組み換えが幾分かありましたが、全体的にはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」の通りだと言えます。

家出

雨、逃げ出した後」(第四話)に該当するパートです。

シャムシエル戦の後、葛城ミサトは責任者としての立場から碇シンジに対してシャムシエル戦での独断を叱り、碇シンジを諭します。しかし、碇シンジには反省の素振りは無く、それどころか、いじけた態度を見せ、見苦しい言葉を並べ、葛城ミサトを怒らせていました。

碇シンジの態度に苛立ち、碇シンジを叱った葛城ミサトでしたが、碇シンジを部屋から出て行かせた後、自分で自分の頬を叩き、自らを責めていました。碇シンジとの遣り取りの中には碇シンジの態度へのもどかしさだけで無く、そのもどかしい碇シンジに上手く接する事の出来ない(碇シンジの気持ちを察しながらも、それに構わず、突き放すような態度しか取れない)自分自身へのもどかしさもあり、それが自分で自分を責めると言う態度になったのでは無いかと思います。(この葛城ミサトの自らを咎めるかのような行動はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」には無かったものです。「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」ではキャラクターの心情を説明した台詞やキャラクターの感情を見て取れる態度が「TV」よりも増やされていて、キャラクターの心の内が読み易いように図られているのですが、これもその一つになっています。)

葛城ミサトに叱られた後、碇シンジは家出をします。そして、街や山を徘徊した後、ネルフの手の者によって身柄を回収されていました。「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では碇シンジは、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」とは違い、自分がネルフの監視下にあり、ネルフがその気になればいつでも自分の身柄を押さえられると言う事に気が付いているようでした。

家出の話では、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」にはあった相田ケンスケの野営にお世話になる話が無くなっていました。

ネルフに連れ戻された碇シンジは再び葛城ミサトと対面し、そこで今後もエヴァンゲリオンに乗る事を葛城ミサトに伝えます。しかし、それは、積極的なものでは無く、自らに主体的に振舞う自由が無い事を理由にしたものであり、覚悟や決意のようなものは全く無いものでした。

ここでの(家出後の)碇シンジはいじけた状態のままであり、葛城ミサトに対してエヴァンゲリオンに乗る事を伝えながらも、その中で(相手の反応を見ようとしているのか、理解して慰めて欲しいのか...)自暴自棄である様を(隠そうとはせずに、寧ろ積極的に)見せ付けていました。

この場面は碇シンジの持ち前の卑怯さが存分に発揮されている場面だと言えます。自暴自棄の姿をわざわざ見せ付け、それだけでも十分に卑怯だと言えるのですが(暗に助けを求めているのだとしても卑怯な振る舞いである事には変わりありません)、それだけに留まらず、卑怯な言い回しや卑怯な口振り(自分には選択の自由が無く、向いてもいないとした上で、自分がやらなければ他の人が困るだろうからと言う言い回しや、面と向かって話すのでは無く独り言を言っているかのように話す口振り)までをも合わせて使っています。ここまで卑怯を重ねる事は中々出来る事では無いように思えます。褒める訳ではありませんが、「流石は碇シンジ」と思ってしまいました...。

「本当は嫌だが自分には主体的に振舞う自由が無いようなので、ここは抵抗せず、だからと言って決して積極的では無く、已むを得ず、エヴァンゲリオンに乗る事を承知しよう」、「自分に向いていない事は分かっているが、自分がエヴァンゲリオンに乗らなければ他の人が困るだろうから、嫌々ではあるがやってやろう」と言う態度を見せる碇シンジに対し、葛城ミサトは「碇シンジには自分の行動(エヴァンゲリオンのパイロットを続けるかどうか)を自分の意思で選択出来る自由がある」と言う事を告げていました。

ネルフ本部執務室

冬月コウゾウ :「結局、お前の息子は予定通りの行動をとったな」

碇ゲンドウ :「あぁ。次はもう少しレイに接近させる。計画に変更は無い」

冬月コウゾウ :「14年前からのシナリオ。運命を仕組まれた子供達か...。過酷過ぎるな」

執務室での碇ゲンドウと冬月コウゾウとの会話です。これはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」には無い内容のものです。

この会話からは、碇シンジの行動が予定通りである事(今回の碇シンジの行動のどこまでを指して「予定通り」と言っているのかは、言葉が少ないため、分かりませんが...)、碇シンジの綾波レイへの接近が計画に含まれている事、エヴァンゲリオンのパイロット達の運命が14年前のシナリオによって仕組まれているものである事が分かります。

ここで出て来た「14年前からのシナリオ」に関しては、それがどの程度の事まで決められているものなのかが気になりました。劇中では詳しい事は語られていませんが、そこには14年後の人間の行動の予測や、人と人との距離をどうするかと言う事までが含まれているのでしょうか...。もし、そうだとすると...恐るべき「シナリオ」だと言えます...。

学校

結局、碇シンジは今の場所に残る事を決めたようです。学校に通っていました。

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では碇シンジが元の生活へと戻る(ネルフに残る事を選び、葛城ミサトとの共同生活に戻る)前に新箱根湯本駅での場面...碇シンジが鈴原トウジ(相田ケンスケと一緒に見送りにやって来た)に言われて鈴原トウジの事を殴り、それによって碇シンジと鈴原トウジとが和解する場面、碇シンジが電車を待っている間に葛城ミサトの「がんばってね」の言葉を思い出し、出て行くのを思い留まる場面、電車に乗らずに駅に残った碇シンジと、駅に駆け付けた葛城ミサトとの間に「た、ただいま」、「おかえりなさい」の遣り取りがあり、二人の蟠りが解消される場面...が置かれていたのですが、この「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」ではその新箱根湯本駅の場面が丸々無くなっていました(※※)。

(※※その代わり、碇シンジと鈴原トウジとの和解に就いては学校での事としてこの後の場面で描かれていますし、碇シンジがネルフを出て行く事を思い止まった経緯に就いては(思い止まった理由はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」とは異なるものになっていますが(※※※))後のラウンジでの葛城ミサトと赤木リツコとの会話によって補われています。(その一方で葛城ミサトとの蟠りの解消に就いては代わりとなるものが用意されていません。「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では、碇シンジがネルフを去る事を思い留まった理由が「TV」から変えられている事もあり(※※※)、この段階での碇シンジと葛城ミサトとの関係の改善は(それが描かれていないと蟠りが解消していない中で二人が共同生活に戻っている事にはなりますが、それでも)物語を進める上での重要な要素では無くなっている(無くても構わない事、或いは無い方が都合の良い事となっている)のかも知れません。))

(※※※碇シンジがネルフを去る事を思い留まった理由はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」では「葛城ミサトの声が心に引っ掛かったため」でしたが、この「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では(後の場面を見ると)「碇ゲンドウの事(存在)が引っ掛かったため」となっています。)

学校 - 校舎の外

鈴原トウジ :「手抜きはなしや。えぇから、はよせえ。せやないと、ワシの気持ちも治まらん」

相田ケンスケ :「まっ、こう言う実直な奴だからさ。頼むよ」

鈴原トウジ :(碇シンジに殴られた後)「これで貸し借りちゃらや。殴ってすまんかったな、碇」

鈴原トウジは、先のシャムシエル戦での碇シンジの姿、エヴァンゲリオンに乗って戦っている碇シンジの姿を見てから、以前、一方的に碇シンジの事を殴った事を気にしていたようであり、それを自分を殴らせると言う形で償っていました。

この碇シンジと鈴原トウジとの和解の場面はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」では新箱根湯本駅での事でしたが、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では学校での事となっています。

また、場所だけで無く、和解するまでの遣り取りにもTV版「新世紀エヴァンゲリオン」からの改変が見られます。「TV」では以下のような遣り取りになっていました。

鈴原トウジ :「碇、二発もどついたりして悪かった。ワシの事もどついてくれ」

鈴原トウジ :「頼む。せやないとワシの気がすまん」

相田ケンスケ :「こう言う恥ずかしい奴なんだよ。まっ、それで丸く収まるんなら、殴ったら」

碇シンジ :「じゃ、一発だけ」(この後、鈴原トウジを殴る)

これを見ると、改変前も改変後も、鈴原トウジが自分の事を碇シンジに殴らせ、その後、二人が和解しているところや、過去に碇シンジの事を二発殴った事への謝罪でありながら、結局、「一発だけ」で和解に至っているところは変わりが無いと言えます。

ただ、和解に至るまでの殴る発数が誰によって「一発だけ」になったのかに就いては双方で違いが見られます。

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では、碇シンジが鈴原トウジの事を殴る前に「一発だけ」と遠慮した事によって殴る発数が「一発だけ」になっています。(鈴原トウジは何も言わずにそれを受け入れていますので、恐らく、「碇シンジがそれで構わないなら」と納得したものと思われます。「TV」での「一発だけ」は事前に双方の合意があってのものだったと考えて良いのでは無いかと思います。)それに対し、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では、鈴原トウジが碇シンジに殴られたところで、鈴原トウジの方からその「一発」を以て「貸し借り無し()」とした事によって殴る発数が「一発だけ」になっています。(その後、碇シンジはそれを受け入れたようですが、これは、事前に双方の合意があって「一発だけ」になった(と思われる)「TV」とは対照的に、鈴原トウジが事後に(その)「一発だけ」で碇シンジを合意させたと言う事になるかと思います。)こちらは謝罪する者の態度としては適切では無いように思います...(※※)。

(ここでは「ちゃら」の意味が分からずに辞書で調べました。どうやら「帳消しにする事」のようです。)

(※※謝罪において大切なのは「ワシの気持ち」が治まったか如何かよりも相手の気持ちが治まったか如何かでは無いかと思います。しかし、ここでの鈴原トウジは、「ワシの気持ち」が治まった(※※※)となると、その後は、相手の気持ちが治まったか如何かを確認する事も無く、自分勝手な判断によって一方的に事を終わらせようとしています。幾ら、「ワシの気持ち」が治まらないと言って始めた事だと言っても、それが謝罪である事を考えると、「ワシの気持ち」が治まったらそれで終わりと言うのは如何なものかと思います。これでは、自分の中で勝手に始まって勝手に終わる感情、自分の都合に相手を付き合わせているだけのように見えてしまいますので...。結果的には碇シンジが意義を口にする事も無く受け入れた事によって淀みも無く和解となっているようではありますが、それが本当に相手の事を考えての謝罪だと言うのであれば、鈴原トウジ(過去に碇シンジを二発殴っている)の方から碇シンジに対し、「これで貸し借り無し」として良いか如何か(碇シンジの気持ちが治まったか如何か)を確認するか、もう一発殴るように言い出すかしなければならないところであったように思います...。謝罪するからには、やはり、(相手の気持ちに関係無く自分勝手に治まる「ワシの気持ち」では無く、)相手の気持ちが治まった事を以て初めて治まる「ワシの気持ち」を持っていて欲しいところです...。

(※※※「ワシの気持ち」が治まらないと言って始めた事を自分から終わらせていると言う事は、(自分が過去に碇シンジを二発殴っていると言う事を忘れているのか、憶えていながら一発で十分だと思ったのか、それとも、元々、相手の気持ちが治まったか如何かまでは気にしていないのか、気にはしているが相手ももう気が済んだ事だろうと勝手に思ったのか...その辺りは分かりませんが、何れにしても、兎に角、)碇シンジに一発殴られた(殴らせた)事によってそれが治まったと言う事なのだろうと思います。)

鈴原トウジが以前に碇シンジを殴ったのも、ここで碇シンジに謝罪したのも、その理由は、そうしなければ自分の気持ちが治まらないと言うものであり、どちらもその時々の自分の気持ちに正直になった結果だと言えます。但し、前者は相手の事情を全く気にしないで自分の都合のみで行った横暴でしか無いのに対し、後者は相手の事情を(積極的にでは無く、成り行きではありますが、それを)知り、多少は相手の事も考えるようになった上でのものとなっています。そこには、同じ自分本位と言える行動であっても、相手の事情への意識の有り無しの違いがあると言えます。そう言う点では、ここでの鈴原トウジは、未だに自分本位ではあるものの、多少の心的成長を経て幾分かは増しになっていると言えるかと思います。(短い期間で本来の性質が一変してしまっているよりは、この程度の変化の方が自然であるように思います。)

この和解の場面を見ると「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」の鈴原トウジの方がTV版「新世紀エヴァンゲリオン」の鈴原トウジよりも(こちらも自分本位な部分が見られますが、それよりも)自分本位の度合いが高いように見えます。しかし、これは、「新劇場版」になって鈴原トウジの自分本位の度合いが上がったと言う事では無いように思います。自分本位の度合いが上がったと感じられるのはこの場面だけであり、他の場面も含めて全体的に判断するならば鈴原トウジのそのものは「TV」から変わっていないように見えますので。この場面での鈴原トウジが「TV」よりも自分本位度が高いように見えるのは単に展開の違いによるものなのでは無いかと思います。「TV」の和解の場面では碇シンジの遠慮があったためにたまたま鈴原トウジの自分本位な部分が表面化しなかっただけなのでは無いかと...。

ここまでが「雨、逃げ出した後」(第四話)に当たる部分ですが、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」にはあった「碇シンジが家出中に相田ケンスケの野営にお世話になる話」や「新箱根湯本駅の場面」が丸々無く、全体的に非常に短く纏められていました。

エヴァンゲリオン零号機の起動実験

レイ、心のむこうに」(第伍話)に該当するパートです。

中学校での体育の授業(男の生徒はグラウンドでの授業、女の生徒はプールでの授業)の場面があった後、ネルフ本部実験場でのエヴァンゲリオン零号機(先の起動実験中に暴走事故を起こし、特殊ベークライトで固められたままになっている)の復旧作業中の様子が映り、そこから、先に行われた「エヴァンゲリオン零号機の機動実験」の回想が始まっていました。

起動実験の回想が始まる前の場面...体育の授業の最後の方(碇シンジがグラウンドから眺めていた、プールサイドの綾波レイの姿が映ったところ)から、起動実験の事故後のエヴァンゲリオン零号機が映った場面の最後までの間には、赤木リツコと碇シンジとによる以下の会話が重ねられていました。

赤木リツコ :「綾波レイ、十四歳。マルドゥックの報告書によって選ばれた最初の適格者。第一の少女。即ち、エヴァンゲリオン試作零号機専属操縦者。過去の経緯は白紙。全て抹消済み」

碇シンジ :「そんな綾波を助けるために...父さんが...」

ここでの碇シンジの台詞は、先のエヴァンゲリオン零号機の起動実験での暴走事故の際に、碇ゲンドウが高熱になったエントリープラグから綾波レイを助け出した事に就いて言ったものです。TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では、碇シンジはこれを、エヴァンゲリオン零号機の起動実験の回想が終った後の「シャムシエル建屋内の場面」で赤木リツコから聞かされて知る事となるのですが、この「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」にはシャムシエル建屋内の場面が無く、()、その事から回想前の時点で既に聞かされている事になっているのだと思います。

(ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では「TV」と異なり、第5使徒シャムシエルが形象崩壊を起こしているため、「TV」にあった「シャムシエル建屋での『コア以外を残した理想的なサンプル』の回収場面」は無く、その場面にあった「碇シンジが碇ゲンドウの手のやけどに気が付く場面」や、「起動実験の事故で碇ゲンドウが綾波レイを救った話を碇シンジが赤木リツコから聞かされて知る場面」も一緒に無くなっています。)

この碇シンジの台詞では「そんな綾波」と言う部分が気になりました。これは、難しい事を考えずに素直に解釈するならば...十四歳であり、マルドゥックの報告書によって選ばれた最初の適格者、第一の少女であり、エヴァンゲリオン試作零号機専属操縦者であり、過去の経緯は白紙、全て抹消済みである綾波レイ...そんな綾波を助けるために碇ゲンドウが(掌に火傷まで負って)...と言う事になるのかと思います。碇ゲンドウが綾波レイを助けた事と赤木リツコが綾波レイに就いて言った内容とに関連があるかのような言い回しになるのですが...それが何であるのかが汲み取り難いと少なくとも姫には、それを汲み取る事が出来なかったのですが...。分かり難い言い回しだと思いました...。

エヴァンゲリオン零号機の起動実験(回想)。エヴァンゲリオン零号機の起動実験中にエヴァンゲリオン零号機が暴走を起こしていました。暴走したエヴァンゲリオン初号機は実験場の壁(実験を執り行っている人間達(碇ゲンドウ他)がいる部屋の窓)を何度も殴り付けた後、側壁に何度も頭突きを行い、最後は予備電源が切れて活動を停止していました。

エヴァンゲリオン零号機の暴走後にエヴァンゲリオン零号機から自動射出されたエントリープラグは射出の勢いで実験場の壁に擦り付けられた後、床に落ちていました。碇ゲンドウはエヴァンゲリオン零号機の活動停止後、直ぐにエントリープラグに駆け寄り、エントリープラグ(実験室の壁に擦り付けられた事により高温になっていた)のハッチを、自身の手に火傷を負うのも構わずに開け、まだ中にいた綾波レイを助け出していました。

起動実験中の暴走事故の場面でのエヴァンゲリオン零号機による壁への頭突きは「新世紀エヴァンゲリオン(T版V)」には無く、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」になって追加されたものです。(「TV」でもエヴァンゲリオン零号機が暴走して実験室の壁に頭突きをする場面はありますが、それは「ゼーレ、魂の座」(第拾四話)での「第一回機体相互互換試験」での事となっています。)

起動実験の回想が終った後、復旧作業を終えたエヴァンゲリオン零号機や、エントリープラグの中には碇ゲンドウの眼鏡を持ち込んだ綾波レイの姿が映し出されていました。再起動実験の場面のようです。そこには赤木リツコと葛城ミサトの会話が重ねられていました。その会話によると、エヴァンゲリオン零号機は凍結解除、綾波レイによる再起動実験は既に検証済み、エヴァンゲリオン零号機本体にも問題は無く、神経接続の調整が済めば、即、再配備が可能な状況となっているようです。

(TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では、エヴァンゲリオン零号機の再起動実験と、その実験で再起動が成功するところとがきちんと描かれていたのですが、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」ではそれが無くなり、ここでの「映像と会話とで纏めたもの」になっていました。また、「TV」ではエヴァンゲリオン零号機の再起動実験の場面はラミエル襲来の場面の直前に置かれていたのですが、新劇場版「」では「TV」よりも早い段階(暴走事故の回想の直後)でエヴァンゲリオン零号機の再起動実験が検証済みとなっていると言えます。)

壁に頭突きをするエヴァンゲリオン零号機 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

起動実験中に暴走を起こし、壁に頭突きを行うエヴァンゲリオン零号機初号機。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

壁に頭突きをするエヴァンゲリオン零号機  : 新世紀エヴァンゲリオン 第拾四話「ゼーレ、魂の座」

新世紀エヴァンゲリオン「ゼーレ、魂の座」(第拾四話)より。「TV版」では、エヴァンゲリオン零号機が実験室の壁に頭突きを行うのは「ゼーレ、魂の座」(第拾六話)での「第一回機体相互互換試験」の中での事となっている。こちらは碇シンジがパイロットとして搭乗している。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

定時シンクロテスト

碇シンジ :「綾波、どうして何時も一人なんだろう...」

定時シンクロテスト第508プログラム終了時、碇シンジはエヴァンゲリオン初号機のエントリープラグの中でそう(心の中で)呟くと、正面にあるエヴァンゲリオン零号機の前にいた綾波レイの姿をエヴァンゲリオン初号機のカメラを使って観察(?)し始めます。そして、綾波レイと、そこにやって来た碇ゲンドウとが親しげに言葉を交わし、お互いに優しい表情を見せている姿を目にし、驚いていました。

この場面はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」にもあった場面ですが、碇シンジの「綾波、どうして何時も一人なんだろう...」の台詞は「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」になって付け足されたものです。「TV」での体育の授業の場面にあった鈴原トウジ、相田ケンスケとの会話での台詞をここに持って来たものだと思われます。(新劇場版「」でもその体育の授業の場面はありましたが、そこでは「TV」にあったその会話は無くなっていました。)

ラウンジ

葛城ミサトと赤城リツコはラウンジでお酒を楽しんでいました。(TV版「新世紀エヴァンゲリオン」には無い場面であり、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」で加えられた場面です。)

葛城ミサトは、碇シンジは葛城ミサトがいるからネルフに残ったのでは無いかと言う赤木リツコに対し、次のように返していました。

葛城ミサト :「多分、お父さんがいるからよ。お父さんに自分を見て、知って、触れて...一言でいい、褒めて欲しいのよ。孤独を感じさせない愛情が欲しいだけだと思う」

碇シンジの心情に就いて分かり易く解説されていると言えると思います。TV版「新世紀エヴァンゲリオン」ではこの辺りは特に触れられていなかったところですので、視聴者にとっては親切だと言えます。(「TV」よりもキャラクターの心情が分かり易くなる演出が使われていたり、分かり易くするための説明が加えられていたりするのが「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」の特徴の一つであり、(その分、想像する楽しみが損なわれるのですが、)ここもそれに当たります。)

ただ、ここでは碇シンジがネルフに残った理由が分かり易く語られてはいますが、それが「新世紀エヴァンゲリオンTV版」と「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」とで同じだとは限らないように思います。「TV」では新湯本箱根駅での場面(碇シンジが葛城ミサトの言葉を思い出し、電車に乗るのを思い留まり、碇シンジを迎えに来た葛城ミサトと「ただいま」、「お帰り」の遣り取りを行う一連の場面)がありました。そのまま考えれば「TV」では葛城ミサトがいた事が碇シンジが残った理由だったと言えると思います。(碇ゲンドウの存在もあったのかもしれませんが、家出から新湯本箱根駅までの流れから言えばそうなのだろうと思います。)それが、新劇場版「」では碇ゲンドウの存在があったためと言う事に変わり、それに伴い新湯本箱根駅での場面が削られたのでは無いかと...。(新湯本箱根駅の場面が無い状態で葛城ミサトを理由としても不自然ですし、新湯本箱根駅の場面を描いておきながら碇ゲンドウの存在を理由とするのも不自然だと言えます。新湯本箱根駅での場面が削られた事と碇ゲンドウの存在が理由となった事とは一纏まりの事であるように思います。)そして、そのままでは碇シンジが残った理由が「碇ゲンドウの存在」に変わっている事が分からないため、この台詞をここに入れたのでは無いかと思います。(「TV」では新湯本箱根駅の場面があった事により碇シンジが残った理由が(言葉による説明が無くとも)見えるようになっていたのに対し、この新劇場版「」では、その理由を「葛城ミサト(他人)との接点」から「碇ゲンドウの存在」へと変えておきながら、その事が読み取れる場面は特に置かれていません。これでは碇シンジが残った理由が「碇ゲンドウの存在」になっていると言う事に気が付かれないだけで無く...(新湯本箱根駅の場面が無くなっているので素直には納得は出来ないが、)「TV」がそうだったので新劇場版「」でも同じように葛城ミサトなのだろう...と思われてしまうかも知れません。そこでこの台詞の出番となったのでは無いかと思います。「碇シンジが残った理由が読み取れる場面」を新たに用意せずに済ませようとした結果の台詞にも見えますが...。)

赤木リツコ :「父親との確執、ミサトと同じね」

葛城ミサトが最初から碇シンジに対しての理解が高かった理由は自分もそうであった(父親を憎む一方で父親に見て欲しいと言う思いがあった)からなのですが、これはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」ではこの段階では分からない事であり、後に分かる事となっています。ここ(この早い段階)での赤木リツコのこの一言は、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では、今後、葛城ミサトに就いて話を掘り下げる予定は無いと言う事を暗に示しているように感じます。葛城ミサトが父親に持つ感情の話はこれで済ませておこうとしているのでは無いかと...。

(因みに、この赤木リツコの「ミサトと同じね」と言う台詞はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」にも見られます。「TV」では葛城ミサトの家で葛城ミサト、碇シンジ、赤木リツコの三人がカレーを食べる場面があるのですが、そこでカレーを食べ終えて寛いでいる中、葛城ミサトが綾波レイの事で碇シンジをからかった後に碇シンジに向かって「すーぐむきになって、からかいがいのある奴」と言ったところ、その直後に赤木リツコがそれに付け加える形で「ミサトと同じね」と言っています。この赤木リツコの台詞は碇シンジと葛城ミサトとを比較していると言う点では「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」と同じですが、それが示すところは(「父親との確執がある」と言う事でなのか、「からかいがいのある奴」と言う事でなのかで)大きく異なっていると言えます。)

葛城ミサト :「碇司令、どうして実の息子にあそこまで興味ないのかしら。レイとは話しているみたいなのに。バランス悪いわね」

赤木リツコ :「最近の男は、須らく自分にしか興味ないわよ」

葛城ミサト :「女には辛い時代になったわね」

この会話は姫は赤木リツコの言葉に上手く理解出来ないところがあり、何を言いたいのかが把握出来ない内容になっていると言えます。恐らく、「自分にしか興味ないわよ」に「須らく」が上手く掛かっていないのだと思います。

それでも無理に理解を進めるなら、これは(「べし」で結んではいませんが)...最近の男は、当然、自分にしか興味が無いようにあるべきだ、そうで無ければならない...と言ったところになるのでしょうか...。しかし、これではその前後の葛城ミサトの言葉との繫がりが上手く行きません...。(逆に言えば、葛城ミサトとはきちんと遣り取りを出来ているようなので、前後の葛城ミサトの台詞がこの赤木リツコの言葉が示す意味を読み解く手助けになるはずなのですが...それを考えると余計に分からなくなってしまいました...。)これは、一体、どう理解すれば良いものなのか...悩んでも見当すら付かないところでした...。(姫は頭の出来が良くは無く、学校の教科で言えば全教科が苦手だと言えます。国語も当然苦手であり、日本人でありながら日本語をまともに扱えていない事が多々あります。特に文語は使う機会が少ないため、正しく理解できていないものの方が多い事と思います。(たまに無理をして使う事がありますが...大抵、上手く使えずに終わっています...。)恐らく、ここで上手く意味を捉える事が出来ないのも、何時ものように、姫の理解力の乏しさのせいなのだと思います...。)

(追記。あやちゃんに聞いたところ、「須らく」は「総て(悉く)」、或いは「総じて(大体のところ)」と同じ意味で使われる事がある言葉だそうです。そして、その場合、「べし」で結ぶ事は決して無いのが特徴だそうです。それを知らなかった姫は、それを聞かされても直ぐには受け入れられなかったのですが(「須らく」が「総て」、「総じて」と類似している語だとは思ってもいなかったので当然です...)、しかし、その直後にそれが「誤用」である事を一緒に教えられ、それで納得する事が出来ました。どうやら赤木リツコの言葉の使い方が適当では無かったと言う事のようです。(赤木リツコは科学者としては賢いのかも知れませんが、それ以外のところでは賢いかどうかは怪しいと言えそうです。)この「須らく」の使い方は「誤用」と言う事であり、自分が相手に話をする際の事だけを考えれば知っている必要の無いものだと言えます。しかし、こう言った「誤用」がある事を知っておかなければ、相手が「誤用」をして来た際にその相手の話を上手く理解出来い事になってしまいますので、それを考えると、やはり、「誤用」だから知らなくても良いと言うのでは無く、「誤用」であっても知っておかなければならないと言えるのだと思います...。姫が赤木リツコの話を理解出来なかったのは赤木リツコの日本語が適当では無かった事が原因だと言えますが、姫に「須らく」の「誤用」に関する知識が無かった事も原因である事は確かであり、姫のせいでもあると言えそうです。相手の言葉を理解するために「誤用」まで把握しておかなければならないとは...益々日本語が苦手になりそうに感じた場面でした...。)

赤木リツコは葛城ミサトに碇シンジの分と綾波レイの分との正式なセキュリティーカード及び更新カードを渡し、綾波レイの分は碇シンジから綾波レイに届けるようにと葛城ミサトに伝えていました。(TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では葛城ミサトの家で葛城ミサト、碇シンジ、赤木リツコの三人でカレーを食べる場面の後に赤木リツコが、直接、碇シンジに綾波レイの更新カードを渡し、それを綾波レイのところに届けるように頼む場面があるのですが、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」ではここにその話が組み込まれた事になります。)

ネルフ執務室での碇ゲンドウと冬月コウゾウとの会話の中に「次はもう少しレイに接近させる。計画に変更は無い」と言う碇ゲンドウの台詞がありましたが、これも碇シンジを綾波レイに近づけるための碇ゲンドウの計画の内の事なのでしょうか。

この「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」にあった葛城ミサトの家で葛城ミサト、碇シンジ、赤木リツコの三人がカレーを食べる場面が無くなっていました。「TV」ではこの位置に置かれていた場面です。ただ、葛城家でカレーを食べる場面は無くなったものの、更新カードの話はこのラウンジの場面に組み込まれていますし、全体の流れは「TV」から変わっていないようです。

綾波レイの家

碇シンジは綾波レイに更新カードを渡すために綾波レイの家へとやって来ていました。そして、呼び鈴を押すものの鳴らず、しかし、鍵が開いていたため、結局、勝手に上がり込んでいました。

綾波レイの部屋はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」と変わらず綺麗とは言えない状態であり、その無頓着さが良く表れていました。

家に上がった碇シンジがチェストの上に見付けた眼鏡を手に取り、顔に掛けていると、そこにお風呂から上がった綾波レイが姿を現します。綾波レイは裸でしたが、気にしていないようでした。

綾波レイは碇シンジの姿を見ると、碇シンジが掛けていた眼鏡を取ろうとして碇シンジに近づきます。そして、碇シンジから眼鏡を取り上げようとしますが、その際に碇シンジと縺れ、碇シンジと一緒に床に倒れていました。倒れた二人は、綾波レイが仰向きで、その上に碇シンジが覆い被さる状態になっていました。碇シンジの手が綾波レイの胸の上に乗っていたのですが、綾波レイは(これも)気にしていないようでした。

その後、綾波レイは起き上がり、何事も無かったかのように着替えを始めます。碇シンジはここで本来の目的である更新カードの話を綾波レイにします。しかし、綾波レイは、碇シンジが更新カードの話をしている間に着替え終わると、まだ話をしている最中の碇シンジをその場に残し、一人で家を出ていっていました。結局、碇シンジは更新カードを渡しそびれていました。

更新カードを渡しそびれた碇シンジは、部屋から出て行った綾波レイの後を蹤けて行き、カードを必要とするゲートの前で綾波レイに更新カードを渡していました。

この綾波レイの家の場面ではTV版「新世紀エヴァンゲリオン」からの内容的な変更は無かったものの、そこには劇場版になった事による描画上の大きな違いが見られました。それは、裸体で仰向けになっている綾波レイが映る場面での絵が綾波レイの乳頭までが見える絵になっていたと言う事です。TV版「新世紀エヴァンゲリオン」とは異なり横長画面である劇場版ならではのものだと言えます。あやちゃんはそれだけでも劇場版になった意味があると一人喜んでいました...。(そのため、姫としてはそれほどの事かと思いながらも、ここで取り上げました。)因みに、あやちゃんは「シト新生 DEATH & REBIRTH」の同場面でも劇場版(画面が横長)になった事を非常に喜んでいました。(倒れている綾波レイがその状態から起き上がった際に(「TV」では見えなかった)綾波レイの乳頭が(画面が横長である事により)見えるための歓喜のようです...。)

裸体で仰向けになっている綾波レイ : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

裸体で仰向けになっている綾波レイ。劇場版(横長画面)になった事により乳頭までが画角に収まっている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

裸体で仰向けになっている綾波レイ : 新世紀エヴァンゲリオン 第伍話「レイ、心のむこうに」

新世紀エヴァンゲリオン「レイ、心のむこうに」(第伍話)より。「TV版」での同場面。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

裸体で仰向けになっている綾波レイ : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版 「シト新生(DEATH & REBIRTH)」

新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」(DEATH編)より。同場面。こちらも横長である事により僅かながらだが乳頭が画角に入っている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

裸体で仰向けになっている綾波レイ : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版 「シト新生(DEATH & REBIRTH)」

新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」(DEATH編)より。上図の状態から起き上がる途中。上図よりもこちらの方が横長になった事による功が分かり易く出ている。(このような事で作品の良し悪しを計るのはどうかと思われるが...。)

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

ネルフ施設内のエスカレーター

碇シンジ :「ねぇ、綾波は怖くないの?また、あのエヴァンゲリオンに乗るのが」

綾波レイ :「どうして?」

碇シンジ :「前の実験で大怪我したって聞いたから...それであの...平気なのかなって」

綾波レイ :「そう、平気」

碇シンジ :「でも、また、何時、暴走して危ない目に遭うか。使徒に負けて殺されるかも知れないんだよ、僕等」

綾波レイ :「あなた、碇司令の子供でしょ」

碇シンジ :「うん」

綾波レイ :「信じられないの、お父さんの仕事が」

碇シンジ :「当たり前だよ、あんな父親なんて」

碇シンジと綾波レイとがネルフ施設内のエスカレーターで下方へと移動している中での二人の会話です。

これはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」では以下のようになっていました。

碇シンジ :「あの、今日、これから再起動の実験だよね。今度は上手く行くと良いね...」

碇シンジ :「...ねぇ、綾波は怖くないの、またあの零号機に乗るのが」

綾波レイ :「どうして?」

碇シンジ :「前の実験で大怪我したんだって聞いたから...平気なのかなって思って」

綾波レイ :「...。あなた、碇司令の子供でしょ」

碇シンジ :「うん」

綾波レイ :「信じられないの、お父さんの仕事が」

碇シンジ :「当たり前だよ、あんな父親なんて」

ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」ではエヴァンゲリオン零号機の再起動実験の話題が無くなっています。これは、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」ではこの場面の直ぐ後にエヴァンゲリオン零号機の再起動実験の場面があるのに対し、新劇場版「」ではそれは既に描かれ、終わった事となっているため、削られたものと思われます。

前の実験で大怪我をしたのにエヴァンゲリオンに乗るのが怖くないかと尋く碇シンジに対して、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」での綾波レイは「そう、平気」ときちんと答えています。その後、「あなた、碇司令の子供でしょ」の台詞の前に「TV」には無かった碇シンジの心情を窺える台詞が追加されていますが、ここでの綾波レイの「そう、平気」は、綾波レイに一度答えさせる事でその台詞を追加する隙間を作りたかったためのものなのでは無いかと思います。(「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では碇シンジの心を読み取れる場面や台詞を入れたがっているように見えますので。)

碇シンジ :「でも、また、何時、暴走して危ない目に遭うか。使徒に負けて殺されるかも知れないんだよ、僕等」

前述にあった、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」で追加された碇シンジの心情が窺える台詞です。TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では碇シンジがエヴァンゲリオンに乗る事に対して何をどう思っているのかが分かるような場面や台詞はこの段階では用意されいなかったのですが、それが、新劇場版「」では「TV」よりも少し早い段階で分かるようになっています。(「TV」では碇シンジに使徒との戦いで自分が死ぬかも知れないと言う思いがあると言う事はこの段階では描かれて無く、それが分かるのはもう少し後になってからの事でした。但し、(新劇場版「」が「TV」の焼き直しだとして、)新劇場版「」での碇シンジがそうだからと言って、「TV」での碇シンジもこの段階からそう思っていたと言う事にはならないと思います。「TV」の碇シンジがこの段階でどう思っていたのかは分かりません。もう少し後になってそう思うようになったと言う事も考えられます。)

この台詞をここに追加した理由としては、碇シンジの心情を表したかったと言う事の他に、もう一つ、「TV」のままでは、エヴァンゲリオンに乗るのが怖くないのかと尋いた理由が弱かったからと言う事も考えられます。「TV」では前回の再起動実験での失敗があり、この後に再起動実験を控えていて、それがどうなるか分からない状況ですので、エヴァンゲリオンに乗るのが怖くないのかと尋く理由としては「前の実験で大怪我したんだって聞いたから...平気なのかなって思って」だけで十分であるように思えます。しかし、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」の場合、暴走事故を起こし、一度は失敗しましたが、その後、再起動実験を行い、既にそれを成功させている状況です。そのため、「前の実験で大怪我したって聞いたから...それであの...平気なのかなって」だけでは少し弱いように感じられます。そこでエヴァンゲリオンに乗るのが怖くないのかと尋く理由が他にも必要となり、綾波レイに「そう、平気」と答えさせた上で「でも、また、何時、暴走して危ない目に遭うか。使徒に負けて殺されるかも知れないんだよ、僕等」を入れたようにも思えます。

ここでは台詞の削除、多少の変更(内容が変わらない範囲での単語や言い回しの変更)、追加はありますが、場面としては概ね同じ内容だと言って良いと思います。(碇シンジに使徒との戦いで自分が死ぬ事もあると言う思いがある事がTV版「新世紀エヴァンゲリオン」よりも少し早い段階で見える程度です。)

綾波レイとの会話の中で碇ゲンドウの事を悪く言った碇シンジは、その事で綾波レイに平手で頬を叩かれていました。

(TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では、この後、エヴァンゲリオン零号機の再起動の実験の場面がありましたが、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」ではこれは既に描かれているため、当然ですが、それが無い状態になっています。)

第6使徒ラミエル、襲来

第6使徒ラミエルが襲来。ネルフはエヴァンゲリオン初号機を出撃させます。しかし、出撃したエヴァンゲリオン初号機は地上に出たところをラミエルの加粒子砲によって狙い撃たれていました。

第6使徒ラミエルはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」では第5使徒となっていまいた。やはり、これも数が一つ多くなっています。

第6使徒ラミエルは加粒子砲による攻撃の際に変形を見せていました。これはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」では見られなかった要素です。

第6使徒ラミエルの攻撃を受けたエヴァンゲリオン初号機の前にはラミエルの攻撃を防ぐための防護アーマーが展開されますが、これは更に変形したラミエルからのより強力な攻撃によって吹き飛ばされしまいます。そして、エヴァンゲリオン初号機はラミエルからの加粒子砲の直撃に遭っていました。

第6使徒ラミエル : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

第6使徒ラミエル。通常形態時は「TV版」と殆ど変わりが無い。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

第5使徒ラミエル : 新世紀エヴァンゲリオン 第伍話「レイ、心のむこうに」

新世紀エヴァンゲリオン「レイ、心のむこうに」(第伍話)より。第5使徒ラミエル。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

第6使徒ラミエル 砲撃時の形態 その1 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

第6使徒ラミエル、第1射前。「TV版」とは異なり、形状を変形させて砲撃を行う。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

第6使徒ラミエル 砲撃時の形態 その2 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

第6使徒ラミエル、第2射前。より強力な砲撃を行うためか、第1射時とは異なる形状へと変形。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

ラミエルは、襲来時、芦ノ湖上空を通過していましたが、芦ノ湖の水は、赤く染まっている海とは違い、青色のままでした。

第6使徒ラミエル襲来時 芦ノ湖 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

芦ノ湖の水は、海とは違い、青色のままとなっている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

ここまでが「レイ、心のむこうに」(第伍話)に当たる部分となっています。

レイ、心のむこうに」(第伍話)のパートでは、他のパートとは異なり、話の構成がTV版「新世紀エヴァンゲリオン」から結構変えられていました。

以下はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」での話の流れです。

  • エヴァンゲリオン零号機の起動実験の回想
  • 学校での体育の授業
  • 定時シンクロテスト終了時
  • 葛城家で三人と一匹とがカレーを食べる場面
  • 碇シンジが綾波レイの家を訪れる場面
  • ネルフ本部エスカレーターでの碇シンジと綾波レイとの会話場面
  • エヴァンゲリオン零号機の再起動実験
  • ラミエルの襲来

それが「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では以下のようになっていました。

  • 学校での体育の授業
  • エヴァンゲリオン零号機の起動実験の回想
  • エヴァンゲリオン零号機の再起動実験
  • 定時シンクロテスト
  • ラウンジでの葛城ミサトと赤木リツコとの会話場面
  • 碇シンジが綾波レイの家を訪れる場面
  • ネルフ本部エスカレーターでの碇シンジと綾波レイとの会話場面
  • ラミエルの襲来

大きな違いを挙げるとするなら、葛城ミサトの家で碇シンジ、葛城ミサト、赤木リツコ、ペンペンがカレーを食べる場面が無くなり、ラウンジでの葛城ミサトと赤木リツコとの会話場面になっていた事と、再起動実験の場面が移動と共に簡略されていた事とでしょうか。

場面に就いて組み換え、削除、追加があった以外では、台詞の変更も見られました。

このパートに来て大きな変更が幾つか見られ、変更箇所もこれまでより多くなっていますが、それでもTV版「新世紀エヴァンゲリオン」からは逸脱する事の無い展開になっています。

エヴァンゲリオン初号機、強制回収

ここから「決戦、第3新東京市」(第六話)に当たるパートになります。

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」ではエヴァンゲリオン初号機がラミエルからの攻撃を受けた際に直ぐに回収の指示が出され、機体が回収されていましたが、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では、一旦、防護アーマーを展開してラミエルの攻撃を防ぐ試みが行われ、その防護アーマーがラミエルの攻撃によって吹き飛ばされた後になって回収の指示が出されていました。

回収の指示があった後、カタパルトを降ろしてエヴァンゲリオン初号機を回収しようとしますが、これはカタパルトが融解していたために上手く行かず、そこでブロック区画ごと落下させて初号機を強制回収していました。

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では、エヴァンゲリオン初号機がラミエルの加粒子砲の直撃を受けた後、カタパルトを降ろす事で機体を直ぐに回収出来ていたのですが、この辺りは見応えのあるように変更されたと言えます。

回収されたエヴァンゲリオン初号機は99ケージへと運ばれていました。TV版「新世紀エヴァンゲリオン」ではこれは第7ケージでした。

エヴァンゲリオン初号機回収後、葛城ミサトは碇シンジの救護処置を急ぐように電話で指示を出していました。TV版「新世紀エヴァンゲリオン」での葛城ミサトは、エヴァンゲリオン初号機が回収された後、碇シンジの事が心配で初号機がある第7ケージへと急いで向かい、碇シンジの姿を確認し、その後も緊急処置室へと運ばれる碇シンジに付き添って緊急処置室の前まで行っていたのですが...「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では救護処置を急ぐように電話で指示を出しただけで、ケージへ行く事も無く(通常のケージとは違ったため、行っても近寄れない感じはありましたが)、緊急処置室へと運ばれる碇シンジに付き添う事も無くなっていました。

ヤシマ作戦の準備

第6使徒ラミエルはジオフロントの外郭(装甲複合体)を掘削し、ネルフ本部を目指して侵攻中。ネルフ本部では作戦会議が行われていました。

ラミエルがジオフロント外郭の掘削のために本体下部から伸ばした部分は、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では本体とは異質のもの(シールドと呼ばれていました)だったのですが、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」ではそれが本体と同質のものになっていました。

第6使徒ラミエルの掘削 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

第6使徒ラミエルがジオフロント外郭の掘削ために本体下部から伸ばした部分。本体と同質であるように見える。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

第5使徒ラミエルのシールド : 新世紀エヴァンゲリオン 第六話「決戦、第3新東京市」

新世紀エヴァンゲリオン「決戦、第3新東京市」(第六話)より。第5使徒ラミエルがジオフロント外郭の掘削のために本体下部から伸ばした部分。作中では「シールド」と呼ばれていた。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

作戦会議中に分析結果を伝えていた人の台詞が、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では「これまで採取したデータによりますと、目標は、一定距離内の外敵を自動排除するものと推測されます」だったのですが、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」ではそれが「先の戦闘データから、目標は一定距離内の外敵を自動排除するものと推察されます」に変更されていました。個人的には「推察」は人の事情や心の内を察する(察した)場合に使い、「推測」は物事に就いて推し量る場合に使うようにしているため(その方が紛れが無くて済むと勝手に思い込んでいるため)、ここは姫が作り手であれば「推測」のままにしておくところなのですが...わざわざ「推察」へと変更したと言う事はこの場合は「推察」の方が適当だと言う事なのでしょうか...この辺りの感覚は良く分かりません。(因みに、マギによる使徒の分析結果(検証し、確定する前の段階)では「推測」が使われています。)

マギによる使徒の分析結果が表示さている画面 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

マギによる使徒の分析結果が表示さている画面。「第6使徒と推測」と表示されている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

作戦会議中には「松代のマギ2号」の名前が出ていました。TV版「新世紀エヴァンゲリオン」よりも名前が出る時期が早くなっています。

作戦会議中も第6使徒ラミエルによる掘削は進み、既に第二層を通過し、第三層への進入を開始していました。ラミエルによる掘削が22層の装甲を貫通してネルフ本部内に到達する予想時刻は明朝午前0時06分54秒との事でした。

ラミエルのネルフ本部到達予想時刻の話が出た場面をTV版「新世紀エヴァンゲリオン」と「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」とで比べると、「TV」では時刻は約14時16分、ラミエルの掘削は防御装甲第一層に到達していない状況で、残り時間は約9時間50分(その後に流れたアナウンスでは「残り9時間55分」と長くなっています)であったのに対し、この新劇場版「」では時刻は約13時52分、ラミエルの掘削は第三層まで進んだ状況で、残り時間は10時間14分となっています。現在の時刻には24分の差がありますが、これが何による差なのか、何か意味のある差なのかが気になるところです。因みに、ラミエルがネルフ本部内に到達する予想時刻はどちらも明朝午前0時06分54秒となっていて、変わりがありません。

作戦会議の後、ネルフでは作戦(長々距離から高エネルギー集束帯によってラミエルのATフィールドの一点突破を狙った直接射撃を行う)の準備に取り掛かります。戦略自衛隊からは大口径陽電子砲(ポジトロンライフル)が徴発()され、陽電子砲に使用する電力を日本全土から集めるためのシステムの構築と大口径陽電子砲の改修とが進められていました。

(戦略自衛隊からの大出力陽電子自走砲の徴発に就いて、赤木リツコはこれを「強制徴発」と言っていましたが、徴発は普通は強制であるため、これは重言に当たるのでは無いかと思います。やはり、赤木リツコは日本語が少々苦手なのかも知れません...。赤木リツコと比べたら知能が遥かに低い姫が言うのも可笑しな事なのですが...。)

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では葛城ミサトが自分の立てた作戦を進める前にその許可を碇ゲンドウに求める場面があったのですが、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」ではその場面は無くなっていました。

また、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では戦略自衛隊の施設からエヴァンゲリオン零号機を使って陽電子砲を徴発する場面が描かれていましたが、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」ではその場面は描かれず、代わりに(?)陽電子砲を空輸している場面が追加されていました。

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では、作戦の準備が進む中で、作戦に使う盾の話があったのですが、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では盾には触れられずに終わっていました。

作戦名は、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」と同じく、「ヤシマ作戦」でした。ただ、「TV」とは異なり、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では作戦名がどの段階で決まったと言う事が無いまま「ヤシマ作戦」と呼称するようになっていました。(「TV」では陽電子砲(ポジトロンライフル)、電力、盾の準備を進める中、狙撃地点(双子山山頂)と作戦開始時刻(明朝0時)とを定めた時点で「ヤシマ作戦」と呼称する事に決められました。)

ネルフ総司令官公務室

ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」には無かった、ネルフ総司令官公務室での碇ゲンドウと冬月コウゾウとの会話場面が加えられていました。

冬月コウゾウ :「初号機パイロットの処置はどうするつもりだ」

碇ゲンドウ :「ダミープラグは試験運用前の段階だ、実用化に足るまでは今のパイロットに役立ってもらう」

冬月コウゾウ :「最悪の場合、洗脳か」

碇ゲンドウ :「駄目な時はレイを使うまでだ」

冬月コウゾウ :「レイを初号機に?余りに危険過ぎないか?」

碇ゲンドウ :「いかなる手段を用いても我々は後8体の使徒を倒さねばならん」

冬月コウゾウ :「全てはそれからか...」

この場面では冬月コウゾウの「レイを初号機に?余りに危険過ぎないか?」と言う台詞が気になりました。これは、作戦で綾波レイを失う事への心配と言うよりも、綾波レイをエヴァンゲリオン初号機に乗せる事自体への心配のように聞こえます。綾波レイをエヴァンゲリオン初号機に乗せる事にどのような危険があるのかは分かりませんが、綾波レイがリリスの魂を持つ者である事と、エヴァンゲリオン初号機がリリスの複製体である事とを考えると、リリスの魂とエヴァンゲリオン初号機との接触を恐れているのかも知れません。例えば、綾波レイをエヴァンゲリオン初号機に乗せればリリスの魂がエヴァンゲリオン初号機に取り込まれ、エヴァンゲリオン初号機がリリス化してしまう虞があり、それは少なくとも碇ゲンドウ(の人類補完計画)にとって都合が悪い...と言うような事があるのかと...。

ここでの会話によると倒すべき使徒は残り八体との事です。襲来中のラミエルが(TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では第5使徒でしたが、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では)第6使徒なので、(第1使徒、第2使徒、第3使徒が倒すべき使徒に含まれず、この後、数が単純に増えて行くのだとするなら)第13使徒が最後の使徒と言う事になりそうです。(「TV」では、この段階では、倒すべき使徒の数は分からずに話が進んでいました。また、倒すべき最後の使徒は第17使徒(渚カヲル)でした。)

「ダミープラグ」の話が出ています。これはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」よりもかなり早い段階での事です。

他の場面でもそうですが、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」ではTV版「新世紀エヴァンゲリオン」であればもっと後になって出て来ていたものがかなり早い段階で出て来ていると言えます。

病院

碇シンジは夢を見ていました。夢の場面は夕日の差し込む電車の中。そこで碇シンジは、電車に揺られながら、自身が抱えている思いを吐露していました。夢には子供の頃の碇シンジや綾波レイも登場していました。

碇シンジ :「嫌なんだよ、エヴァに乗るのが。上手く行って当たり前、だから誰も褒めてくれない。失敗したら皆に嫌われる、酷けりゃ死ぬだけ。何で僕はここにいるんだ?何か変わるかもって、何か良い事あるかもと思ってここに来たんだ、嫌な思いをするためじゃない」

綾波レイ :「そうやって嫌な事から逃げ出してずっと生きて行くつもり?」

碇シンジ :「生きる?何で生きてるんだ僕は?生きていてもしょうがないと思っていたじゃないか。父さんもミサトさんも誰も僕がいらないんだ。エヴァに乗らない僕は必要ないんだ。だから僕はエヴァに乗るしかないんだ。だから僕はここにいられるんだ。だけどエヴァに乗ると...」

エヴァンゲリオンのパイロットでいなければ本当に誰からも必要とされなくなる。必要とされなければここにもいられなくなる。自分が誰からも必要とされない人間にならないため、他人から必要とされここにいても良い人間であるためには、エヴァンゲリオンのパイロットとしてだけでも必要とされなければならない。そのためには嫌ではあるがエヴァンゲリオンに乗るしか無い...そう言った思いが碇シンジにはあるようです。本当は、エヴァンゲリオンのパイロットとしてで無く、碇シンジ個人として他人に必要とされたいと思っているのだとは思いますが、それは叶わないと言うところまでは受け入れているように感じられます。だからこそ、エヴァンゲリオンのパイロットとしてだけでも必要とされなければ...と言う思いがあるのだと思います。(エヴァのパイロットとしてでは無く、碇シンジとしての存在理由を、生きる事の意味を見つけて欲しいところではありますが...。)

これはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」には無かった場面です。やはり、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では「TV」よりも碇シンジの内面が分かり易くなるように図られていると言えます。(碇シンジの内面が見えて来るのは「TV」ではまだ後の事であり、この段階ではそれほどはっきりとは描かれていません。)

碇シンジの最後の台詞「だけどエヴァに乗ると...」はその続きが気になるところです。一体、何を言いたかったのか、これは判断材料が少ないため確かな事は何も分かりませんが、碇シンジは、使徒に負けて死ぬかも知れないと言う恐怖とは別に、エヴァンゲリオンそのもの、或いはエヴァンゲリオンに乗る事に何らかの怖さを感じているようであり(後述)、ここではそれに就いて言おうとしていたようにも思えます。

この夢の後、碇シンジは目を覚ましていました。

目を覚ました後、碇シンジは綾波レイからヤシマ作戦のスケジュールを伝えられます。このスケジュールの内容はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」とは異なっていました。

この病室の場面では、スケジュールの伝達が終わった後の碇シンジと綾波レイとの会話にもTV版「新世紀エヴァンゲリオン」との差異が見られました。

碇シンジ :「またあれに乗れって言うのか」

綾波レイ :「そうよ」

碇シンジ :「もう嫌だ。もうあんな怖い思いしたくない。怖くて、怖くて...でも、逃げる事も出来ないんだ」

綾波レイ :「エヴァが怖いの?...じゃ、寝てたら」

碇シンジ :「寝てたらって?」

綾波レイ :「初号機にはあたしが乗る」

碇シンジ :「綾波っ」

綾波レイ :「さよなら」(病室を出て行く)

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」と比較すると台詞の削除や追加、多少の言い回しの変更が見られます。

その中でも気になったのは「もう嫌だ。もうあんな怖い思いしたくない。怖くて、怖くて...でも、逃げる事も出来ないんだ」の部分です。これはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」では「僕は嫌だ。綾波はまだあれに乗って怖い目にあった事が無いからそんな事が言えるんだ。もう、あんな思いしたくない()」と言う台詞でした。「TV」では自分の事と綾波レイの事とを比較して話しているのに対し、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では一方的に自分の気持ちを吐露しているだけとなっています。「TV」と新劇場版「」とでは碇シンジの持っている恐怖心(※※)や孤独感(※※※)に差があるように感じられますので、もしかするとその差が台詞の違いになっているのかも知れません。また、新劇場版「」の台詞では、「TV」とは異なり、先の夢(「TV」には無かった場面)にあった心情が表れたのか、怖くても逃げる事も出来ないと言う点に触れてもいます。逃げれば誰からも必要とされない人間になってしまう、ここにもいられなくなる、エヴァンゲリオンに乗るのは怖いが、「自分が他人から必要とされない人間になるのは嫌だ」と言う思いを抱えている事がここでも感じられます。

(綾波レイは、使徒と戦った事はまだありませんが、エヴァンゲリオン零号機の起動実験中に起こった事故により既に「怖い目」には遭っています。それは碇シンジが来る前の出来事ですが、その事故で綾波レイが大怪我をした話は碇シンジも聞かされていますし、事故後の綾波レイの痛々しい姿も見ています。更に、第伍話「レイ、心のむこうに」を見ると、碇シンジは再起動の実験を控えている綾波レイに「今度は上手く行くといいね」と言った後に「ねぇ、綾波は怖くないの?また、あの零号機に乗るのが」と尋いている事から、綾波レイが「一度失敗して怖い目に遭ってる」と言う事をきちんと認識している事は間違いないと思います。TV版「新世紀エヴァンゲリオン」での碇シンジは、その認識がありながら、もっと言えば、一度怖い目に遭って大怪我をし、それが治ってもいないのにエヴァンゲリオン初号機に乗り込もうとしていた綾波レイの姿を見ていながら、それでも綾波レイに対し、「綾波はまだあれに乗って怖い目にあった事が無いからそんな事が言えるんだ」と言っている事になります...。)

(※※ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」とは異なり、碇シンジが死に就いて意識している描写が見られます。そのため、死に対する恐怖心が「TV」よりも強いように見えます。(ただ、これは、「TV」ではそれを表に出さなかったため見え難かっただけであり、本当は新劇場版「」と同じように思っていた...と言う事も考えられます...。))

(※※※ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」ではこの時点での葛城ミサトとの繫がり、鈴原トウジ、相田ケンスケとの繫がりが「TV」よりも薄いように感じられます。(「TV」を見ると、この時点では葛城ミサトとの心の距離は最初の頃よりも縮まっていましたし、鈴原トウジ、相田ケンスケとは既に友達関係を築いていました。)そのため、碇シンジがこの時点で感じている孤独は「TV」よりも大きなものであるように感じられます。(単なる想像なので、そうでは無い事も十分に考えられますが...。))

また、「エヴァが怖いの?...じゃ、寝てたら」の部分はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」では単に「じゃ、寝てたら」だったのですが、この違いも気になりました。綾波レイの「エヴァが怖いの?」と言う台詞は、エヴァンゲリオンに乗って使徒と戦う事では無く、エヴァンゲリオンそのものやエヴァンゲリオンに乗る事自体に就いての怖さを尋いているように取れます。そして、この台詞の後、碇シンジが特に否定もせずに会話を続けているところを見ると、碇シンジには(使徒と戦う事の怖さ、負けて死ぬかも知れないと言う事の怖さとは別に)エヴァンゲリオンに対して何らかの怖さを感じるところがあるのかも知れません。(その怖さがどのような類のものかと言う事まではここでのこの短い遣り取りの中からでは分かりませんが...。)

弱音を吐く碇シンジに対し、綾波レイは碇シンジの事を気に掛ける事も無く、「さよなら」と言葉を残し、病室を去っていました。

ヤシマ作戦開始前 1

碇シンジはエヴァンゲリオンに乗る事を決断出来ないのか、集合時間を過ぎても病院に留まっていました。(TV版「新世紀エヴァンゲリオン」での碇シンジは綾波レイが病室にいた場面ではエヴァンゲリオンに乗る事への躊躇いを見せていたものの、その後は何事も無く(躊躇いは持ち続けていたとは思いますが)エヴァンゲリオン初号機に乗って作戦に参加しています。)

その碇シンジの下に葛城ミサトがやって来ます。

葛城ミサト :「シンジ君、集合時間はとっくに過ぎてるのよ」...「あなた、自分で決めてここに残ったんでしょ。だったら自分の仕事をきちんとしなさい」

碇シンジ :「怖いんですよ、エヴァに乗るのが。ミサトさん達はいいですよ、いつも安全な地下本部にいて命令してるだけなんですから。僕だけが怖い目に遭って...。ミサトさん達はずるいですよ」

葛城ミサトは碇シンジにやるべき事をやるようにと促しますが、それに対し、碇シンジは強い反発を見せていました。

ここでの碇シンジは葛城ミサト達の事を「ずるい」と言っていますが、これは、本当に「ずるい」と思っているのかどうかは分からないところです。エヴァンゲリオンに乗りたく無くて言っているだけと言う事もあるかと思いますので。

仮にここでの碇シンジが本当に葛城ミサト達の事を「ずるい」と思っていたとするなら、気になる事があります。それはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」での碇シンジ(すんなりとエヴァンゲリオンに乗り、作戦を実行していた)もこの段階で葛城ミサト達に対して「ずるい」と思う気持ちを持っていたのかどうかと言う事です。「TV」ではこの場面は無く、他に碇シンジが葛城ミサト達に対してどう言った気持ちを持っているかが分かるような場面もありません。そのため、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」でのような思いがあったのかどうかは分からないところとなっています。「ずるい」と思っていたが表面には出さなかっただけなのか如何か、「ずるい」と思っていたとして、ずっと一人でそう思い続けていたのか、それともどこかで自分一人で「命を懸けているのは自分だけでは無い」と気が付いて納得していたのか...色々と考えられそうなところではあります。

葛城ミサト :「ちょっち付き合って」

葛城ミサト達の事を「ずるい」と言った碇シンジの言葉を聞いた葛城ミサトは、少し考えたような素振りを見せた後、碇シンジの手を引き、碇シンジを連れてその場を後にします。行先はネルフ本部、セントラルドグマ、「リリス」の下でした。

この場面での会話中、碇シンジはずっと葛城ミサトに背を向けた状態で話していたのですが、「ミサトさん達はずるいですよ」と言うところでは葛城ミサトの方へと振り返り、葛城ミサトに正面から自分の言葉をぶつけていました。相手も見ずに独り言のように喋っていた時と比べると、きちんと相手に自分の思いを訴えている分、前までの「いじけ」とは違うのが分かります。(だからこそ葛城ミサトはここでは碇シンジを突き放すような事はせずに、碇シンジの言葉を受け止め、碇シンジの思いに付き合おう()」としたのかも知れません(これはこの後の場面を見ての事となりますが)。勿論、碇シンジにエヴァンゲリオン初号機に乗ってもらわなければ困ると言う思いはあったとは思いますが、碇シンジの気持ちを蔑ろにはしたく無い、それにきちんと応えて、納得した上でエヴァンゲリオンに乗らせたいと言う気持ちがあったのだろうと思います。それは碇シンジの事を考えての事だと言えそうです。)

(葛城ミサトの方から碇シンジに「付き合って」と言っていますが、実際には葛城ミサトが碇シンジに付き合っているように見えます。)

この病院の場面はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」には無かった場面です。これは、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」になって場面が追加されたと言うよりは、碇シンジの内面の差によって「TV」とは違う展開もあり得ると言う事の表れだと言えるのでは無いかと思います。新劇場版「」では、この変化の後、結局は「TV」と同じ流れに戻ります。そして、「TV」と大きな違いが無いまま終わります。しかし、同じ流れに戻ったその中にあっても碇シンジの内面は「TV」とは少し違っているように感じられます。もしかすると、今後(続編では)、そう言った碇シンジの内面の変化(「TV」との違い)が物語の展開を大きく変える事もあるかも知れません。この場面はそう言った予想に繫がる場面だと言えます。

セントラルドグマ : 第2使徒リリス

葛城ミサトは碇シンジを連れてネルフ本部セントラルドグマ、リリスの幽閉場所へと向かいます。その間、葛城ミサトは碇シンジの手を握り続けていました。

葛城ミサト :「15年前、セカンドインパクトで人類の半分が失われたわ。今、使徒がサードインパクトを引き起こせば、今度こそ人は滅ぶ。一人残らずね」

碇シンジ :「聞きましたよ、その話は何度も」

葛城ミサト :「私達が、ネルフ本部レベルEEE(トリプルE)への使徒進入を許すと、ここは自動的に自爆するようになっているの。例え使徒と刺し違えてでもサードインパクトを未然に防ぐ、その覚悟を持ってここにいる全員が働いているわ」

セントラルドグマへと向かう途中、葛城ミサトは碇シンジに対し、碇シンジだけが命懸けで戦っている訳では無い、後方も前線と同じように命懸けであると言う事を伝えます。これが「自分一人が命を懸けて戦っている」と誤解し、「ミサト達はずるい」と言った碇シンジへの答えのようです。

葛城ミサトは碇シンジの上司であり、碇シンジを戦場へと送り出す立場にあります。その事から言えば碇シンジの抱えているそう言った誤解は解いておく必要があるのは当然の事だと言えます。しかし、ここでの葛城ミサトは、上司の職務としてでは無く、自分一人が命を懸けて戦っていると思っている碇シンジに対し、自分(葛城ミサト)達も同じように命を懸けて戦っていると言う事(皆の思い)を知っておいて欲しかったと言う思いがあって言った言葉であるように感じました。(また、葛城ミサトが本当に言いたかったのはこの後に碇シンジに対して言った「シンジ君一人が命を懸けて戦っている訳じゃ無い。皆一緒よ」の言葉(碇シンジの後ろには同じく命を懸け、運命を共にした仲間がいる事、決して一人では無いと言う事)であると思われるのですが、それを言うために事前に言っておく必要があって言ったと言う面もあるのだろうと思います。)

ここでの葛城ミサトの台詞からすると、ネルフ本部にはリリスと使徒との接触を防ぐための自動自爆が用意されているようです。TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では第弐拾四話「最後のシ者」で渚カヲルが(アダムと偽っていた)リリスのいる場所へと辿り着いていますが、その際には自動では無く、日向マコトが手動によってネルフ本部を自爆させようとしていましたので、これは「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」になって用意されたものだと言えそうです。

碇シンジをリリスのいる部屋まで連れて来た葛城ミサトはファイナルゲートを開錠。二人の前にリリスが姿を現していました。

碇シンジ :「これって...まさか...エヴァ?」

葛城ミサト :「違うわ。この星の生命の始まりでもあり、終息の要ともなる第2の使徒、リリスよ」

碇シンジ :「リリス?」

葛城ミサト :「そう。サードインパクトのトリガーとも言われているわ。」、「このリリスを守り、エヴァで戦う。それはあなたにしか出来ない事なの。私達はあなたとエヴァに人類の未来を託しているのよ」

碇シンジ :「そんな辛い事を...何で僕なんですか?」

葛城ミサト :「理由は無いわ。その運命があなただったってだけ。但し、シンジ君一人が命を懸けて戦っている訳じゃ無い。皆一緒よ」

碇シンジ :「...もう一度、乗ってみます」

この台詞の後、葛城ミサトは握っていた碇シンジの手を強く握り、碇シンジも握り返していました。

葛城ミサトは病院で碇シンジの手を握ってからこの場面まで碇シンジの手を離さずに握り続けていたものと思われます。

葛城ミサトの「手」は、他者との繫がりが希薄な碇シンジに碇シンジが一人では無いと言う事を感じさせるためのものであると共に、葛城ミサトの意思や気持ちがその「手」を通して伝達する事を願ってのものでもあるように思います。この「手」が無ければ、葛城ミサトが碇シンジに伝える言葉も言葉以上のもの(心を伴ったもの)にはならず、葛城ミサトが碇シンジに、幾ら、命を懸けて戦っているのは碇シンジ一人では無い、自分達も一緒に命を懸けて戦っているのであり、その上で(勝手な期待である事は分かっているが)自分達には出来ないエヴァンゲリオンのパイロットをそれが可能な碇シンジに託しているのだ...と言ったところで、それは、碇シンジの前ではただ碇シンジをエヴァンゲリオンに乗せたいがための説得の言葉にしかならなかったのでは無いかと思います。

ここでの葛城ミサトは碇シンジにエヴァンゲリオンに乗る事を強いる事も無く、(そして、珍しく)碇シンジの事を叱るような事も、突き離すような事もしていません。葛城ミサトは、ただ、碇シンジが一人では無いと言う事、自分達も命がけで戦っていると言う事、エヴァンゲリオンに乗る事は碇シンジにか出来ず、自分達は碇シンジにパイロットを託すしか無いと言う事を碇シンジに知っておいて欲しかった、そして、(碇シンジをリリスの前に態々連れて来て色々と説明をした事を考えると、)この戦いがどう言う戦いなのかを理解し、それらを心に置いた上でエヴァンゲリオンに乗るか如何かを決めて欲しかったと言う事なのだろうと思います()。勿論、エヴァンゲリオンに乗って使徒と戦って欲しいと言う気持ちは強くあるのだろうと思いますが、それでも碇シンジには、飽く迄も、誤解が無く、正しい認識を(そして、当然、意志と覚悟を)持った上で、自らの判断でエヴァンゲリオンに乗るか如何かを選択して欲しいと言う思いでいるように感じられます。そして、それは葛城ミサトの言葉と手とを通して(何と無くではあっても)碇シンジにも伝わっているように思えます。

(葛城ミサトは結果として碇シンジの逃げ道を塞いだ上で返事をさせていると言えるのですが、葛城ミサトにそこまでの意図があったのか如何か、即ち、碇シンジにエヴァンゲリオン初号機に乗る決断をさせるために意識的に逃げ道を塞ぎ、断り難い形に追い込んだのか如何かは分からないところです。葛城ミサトに手を握られた状態で...命を懸けて戦っているのは碇シンジだけでは無い、自分達も命を懸けて戦っている、しかし、人類を守る事が出来るのは碇シンジだけであり、私達は碇シンジにそれを託すしか出来ない...と真剣に言われれば、碇シンジがエヴァンゲリオンに乗る事を(納得は出来なくても)断りに難くなる事は葛城ミサトにも分かっていた事だと思います。ここでの事がその上での事だするのであれば、卑怯だとは思いながらも形振り構っていられないと言ったところなのでしょうか...。ただ、そうだとしても(碇シンジにエヴァンゲリオンに乗って欲しくて、それを断り難い状況を意図的に作ったのだとしても)、そうで無かったとしても(単に、自分達も同様に命を懸けて戦っていると言う事や、自分達には碇シンジに人類の命運を託す事しか出来ないと言う事を知っておいて欲しかった、それを知った上で改めて選択して欲しかった、そう言う思いからの行動であっても)、どちらにしても、エヴァンゲリオンには乗って欲しい、それは誤解の無い上で自分で選んで欲しい、そして、最後は碇シンジの決めた事を受け入れるつもりでいる...と言う点は変わらないのだろうと思います。(前者の場合はそこまでやっておきながら最後は碇シンジに選ばせるのかとも思いますが、自分に出来るのはそこまでであり、それ以上は碇シンジが決める事だと言う辨えがあったと言う事になるのかと思います。)個人的には後者であるように感じたため、ここでは後者であるものとして話を進めています。)

葛城ミサトはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」では自分が碇シンジに対して親身で本気になっている時でもそれを表すのが上手では無かったのですが、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では碇シンジへの接し方がそれよりも上手くなっているように見えました(※※)。そのため、「TV」よりもその言葉は碇シンジに届きやすくなっているのでは無いかと思います。

(※※TV」での葛城ミサトは碇シンジが求めているものに合わせてやる事は無く、(それが、碇シンジが求めているものを知っていながら(母性的な接し方が必要だと思っていながら)敢えてそうせずにいたのか、それとも、厳しくする事が碇シンジのためだと思ってそう接していたのかまでは分かりませんが、何れにしても)碇シンジに対しては自分で決めて自分で進むように言って聞かせようとする態度が目立っているように感じました。それと比べると、この場面での葛城ミサトは碇シンジに必要な接し方を分かっていて、そうしているように見えます。「TV」よりも碇シンジを動かすのが上手くなっている印象です。そして、その分、葛城ミサトの言葉や気持ちは碇シンジにとって強く拒否出来ないものになっているのでは無いかと思います。)

碇シンジの最後の台詞には強い決意のようなものは感じられず、しぶしぶと言った感じでした。

葛城ミサトが手を握り、これだけ真剣に理解を求めて来れば、碇シンジとしては断り難いところではあったと思います。しかし、碇シンジが葛城ミサトの言葉を受けてエヴァンゲリオンにもう一度乗ってみようと思ったのはそれだけでは無いように思います。それは、碇シンジ(それまで一人ぼっちだと感じていた碇シンジ、他者を恐れ、その一方で他者との繫がりを求める碇シンジ)が葛城ミサトによって「自分は人では無い」と言う事、或は「一人では無いと言う未来もある」と言う事を意識させられたため、そして、それがエヴァンゲリオンに乗る事の中にあると言う事に気が付かされたためなのでは無いかと思います。即ち、エヴァンゲリオンに乗る事の中に他者との繫がりへの期待を感じ、それを求める心が働いた事によるものだったのでは無いかと言う事です。そして、素直には納得は出来ない、本当にそれが手に入るのかも確信が持てないが、もしかしたら自分が求めていたものがエヴァンゲリオンに乗る事の中にあるのかも知れない、それならばやってみよう...と言う不安と淡い期待とが入り混じった状態が決意の無い返事になったのでは無いかと思います。

葛城ミサトはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」では、碇シンジに対し、碇シンジ自身のために、碇シンジ自身の意志でエヴァンゲリオンに乗るように言う事はあっても、他者のために乗る事を求める事は無かったのですが、それが「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では、碇シンジに他者のためにエヴァンゲリオンに乗る事を求めるようになっています。少し先の話になりますが、この葛城ミサトの「TV」からの変化は、後に、碇シンジの前に「TV」には無かった「You are not alone.」へと続く道を作り、碇シンジに「TV」には無かった変化を齎す事になります。(...と言うよりも、この葛城ミサトの「TV」からの変化は「TV」には無かったそれを作るためのものなのでは無いかと思います。碇シンジに「TV」には無かった変化を齎すために、先ず、葛城ミサトを「TV」から変化させ、その葛城ミサトに碇シンジが「TV」には無い変化を起こす切っ掛けを作る役目を与えたのでは無いかと...。碇シンジが「TV」と同じ道を辿り、一人で別の道を見付けると言うのは難しそう(手間と時間が掛かりそう)ですので...。)

ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では葛城ミサトの持っている情報の量がTV版「新世紀エヴァンゲリオン」よりも増えています。「TV」では地下に幽閉されていた第1使徒アダム(実際にはリリス)の事を第拾伍話「嘘と沈黙」まで知らずにいましたし、それが実際にはリリスだと言う事を知ったのもそれから暫く後の事でした。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では、ここでの葛城ミサトの台詞から、第2使徒がリリスである事が分かります。これに対し、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」-旧劇場版「Air/まごころを、君に」では第2使徒が何であるかは不明の儘でした。他に候補が見当たらない事から「恐らく、リリスがそうなのだろう」とは思っていたのですが...。(しかし、これは、「TV」で第3使徒だったサキエルが新劇場版「」で第4使徒になっているところを見ると、新劇場版「」でリリスが第2使徒である事と「TV」-旧劇場版「Air/まごころを、君に」でリリスが第2使徒であるか如何かと言う事とは別の事として考えた方が良いかも知れません...。新劇場版「」は「TV」とは「似たような別の話」になって来ていますが、「似たような別の話」の中の「別の部分」であると言う事も考えられますので...。)

第2使徒がリリスであるとなると、不明の儘の第3使徒(「TV」では第3使徒はサキエルでしたが、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」ではサキエルは第4使徒になっていて、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」の段階では第3使徒は不明となっている)が何であるのかが気になるところです。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」でのリリスにはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」でのリリスと異なる点が幾つか見られました。

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」でのリリスは、アダムと偽っていたためか、「七つの目(キリスト(第二のアダム、天上のアダム(アダムが造られる前から既に天井に存在していたと言う意味では第一のアダム)、無原罪のアダム(同前)))の仮面」を付けられていましたが、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」でのリリスはその仮面が「サキエルの顔のような仮面」になっていました。

リリスはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」と同様に掌を丸型で釘を打ち付けられていました(※※※)。しかし、「TV」では掌に「赤色の体液」があったのに対し、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」ではそれが無くなっていました。(何故、「TV」にあった「赤色の体液」が描かれていないのかは分かりませんが、「TV」では青かった使徒の血が新劇場版「」では赤くなっていますし、もしかすると、新劇場版「」ではリリスの血が(逆に)青くなっていて、この段階ではまだ見せられないためここには描かなかった...と言うような事もあるのかも知れません...。根拠も無く、行き過ぎた想像でしかありませんが...(多分、違うと思います)。)

(※※※これはキリストの磔刑に見立ててのものと思われますが、キリスト(の時代)の磔刑では釘は「丸型の釘」では無く「角型の釘」であったと言われ、打つ位置は「掌」では無く「手首」であったと言われています。後の世の絵画や像を見ると「丸釘」、「掌」となっているものが多く、ここでもそれに倣ってそうしたのかも知れませんが...当時は違っていたそうです。)

リリスの胸部にはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」と同様に「ロンギヌスの槍」が突き立てられていました(※※※※)。

(※※※※キリストが「ロンギヌスの槍」で刺されたのは右脇腹だったと言われています。この「槍で刺す行為」は、罪人を殺すためのものでは無く、罪人の死亡を確認するためのものであり、胸に刺す必要は無かったと言えます。(リリスは胸に突き刺しておかなければならない理由があり、そうしているのだと思いますが...。)

リリスの胸部には「TV」には無かった傷跡が見られます。これは一度切開して閉じた痕のようにも見えます。もし、この「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」がエヴァンゲリオン劇場版(旧劇場版)「Air/まごころを、君に」を経ての繰り返しの物語だとするのであれば、旧劇場版で取り込まれた「綾波レイ(リリスのコア)」を、人の手によって胸部を切開し、取り出した痕とも考えられますが...。

この傷跡には幾つか小さな十字架が立てられていました。何のためのものなのかは不明です。

新劇場版「」ではリリスの下に使徒が辿り着くとサードインパクトが起こると言う事になっているようです。TV版「新世紀エヴァンゲリオン」ではネルフ本部に幽閉されているアダムと、使徒との接触によりサードインパクトが引き起こされるとされていましたので、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」ではサードインパクトが起こる条件が「TV」とは異なっていると言う事になります。(但し、「TV」でのサードインパクトの条件は真実を知る者達がそうで無い者達を欺くために置いた嘘であった事から言えば(※※※※※)、新劇場版「」でのこの条件もそうであると言う事が考えられるところではあります。(その場合、葛城ミサトはそれを知らずに真実だと思って話しているのだろうと思います。)もし、新劇場版「」のこの条件が「TV」と同様に嘘だったとするのなら、新劇場版「」と「TV」との違い表面的なものであり、実際には違いがあるか如何かは「分からない」と言う事になります...。)

(※※※※※セカンドインパクトもアダムと使徒との接触が原因では無かった事から言えば、アダムと使徒とが接触した程度ではサードインパクトは起こらないと言うのが本当のところのようです。また、「TV」のアダムは実際にはアダムでは無く、アダムと偽ったリリスであったのですが、その差も特に関係が無いようであり、第弐拾弐話「せめて、人間らしく」以降を見ると、リリスと使徒との接触(及びリリスとエヴァンゲリオンとの接触)でも、その程度ではサードインパクトは起こらないと言う事のようです。(但し、使徒でも渚カヲルの場合はそうは言い切れないところがあります(※※※※※※)。))

(※※※※※※渚カヲルの場合は他の使徒とは違い...リリスとの接触によるサードインパクトを起こそうと思えば起こせたが、リリスによるそれは渚カヲルの望むところでは無かったためそうしなかっただけ...と言う事も考えられそうです。碇ゲンドウがアダム(アダムの肉体)と綾波レイ(リリスの魂)とを使って(「ロンギヌスの槍」無しで)人類の補完を行おうとしていた事から言えば、渚カヲル(アダムの魂)とリリス(からっぽの肉体)とでも起こせそうなものですので...(リリスがからっぽでも問題無いのであれば)。)

第2使徒リリス : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

第2使徒リリス。十字架上で磔になっている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

十字架上で磔になっているリリス : 新世紀エヴァンゲリオン •第拾伍話「嘘と沈黙」

新世紀エヴァンゲリオン「嘘と沈黙」(第拾伍話)より。十字架上で磔になっているリリス。「七つの目の仮面」を被せられ、アダムと言う事にされている。これがリリスである事が分かるのは第弐拾四話「最後のシ者」での事となる。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

第2使徒リリスの手 打ち込まれた丸型の釘 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

第2使徒リリスの手。「TV版」と同じく、釘は丸型の釘、打ち込み位置は掌だが、釘が打ち込まれている部分には出血は見られない。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

リリスの掌 打ち込まれた丸型の釘 : 新世紀エヴァンゲリオン •第拾伍話「嘘と沈黙」

新世紀エヴァンゲリオン「嘘と沈黙」(第拾伍話)より。リリスの手。掌には丸型の釘が打ち込まれ、その部分には僅かだが出血が見られる。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

第2使徒リリスの胸部 ロンギヌスの槍 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

第2使徒リリスの胸部。「TV版」と同様にロンギヌスの槍が突き立てられている。「TV版」には無かった傷痕が見られる。その痕の上には十字架が幾つか立てられている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

リリスの胸部 ロンギヌスの槍 : 新世紀エヴァンゲリオン •第拾伍話「嘘と沈黙」

新世紀エヴァンゲリオン「嘘と沈黙」(第拾伍話)より。リリスの胸部。ロンギヌスの槍が突き立てられている。傷痕のようなものは見られない。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

第2使徒リリスの下半身 十字架を伝うLCL : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

第2使徒リリスの下半身。「TV版」と同じく、「人のようなもの」が幾つも出ているのが確認出来る。また、「TV版」と同じく、LCLが十字架を伝って流れ出ている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

リリスの下半身 十字架を伝うLCL : 新世紀エヴァンゲリオン •第拾伍話「嘘と沈黙」

新世紀エヴァンゲリオン「嘘と沈黙」(第拾伍話)より。リリスの下半身。「人のようなもの」が幾つも出ているのが確認出来る。LCLが十字架を伝って流れ出ている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

第2使徒リリス 顔 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

第2使徒リリスの顔。「TV版」では(アダムと偽っていたためか)「七つの目の仮面(キリストの仮面)」を付けられていたが、新劇場版序」では、それとは異なり、サキエルの顔のような形をした仮面が付けられている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

リリスの顔 七つの目の仮面L : 新世紀エヴァンゲリオン •第拾伍話「嘘と沈黙」

新世紀エヴァンゲリオン「嘘と沈黙」(第拾伍話)より。リリス(アダムと偽っている)の顔。「七つの目の仮面(キリストの仮面)」が付けられている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

英語タイトル表示 - You are (not) alone.

ここで「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」の英語タイトル「You are (not) alone.」を表示した画面が入ります。

この英語タイトル表示画面には作品のバージョンが表示されていますが、「EVANGELION : 1.01」と「EVANGELION : 1.11」とでは、当然、その部分に異なりがあります。「EVANGELION : 1.01」ではその部分が「EVANGELION : 1.01」となっていて、「EVANGELION : 1.11」ではその部分が「EVANGELION : 1.11」となっています。

「You are (not) alone.」の文字 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」(EVANGELION : 1.01)

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」(EVANGELION : 1.01)より。英語タイトル「You are (not) alone.」。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

「You are (not) alone.」の文字 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」(EVANGELION : 1.11)

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」(EVANGELION : 1.11)より。「EVANGELION : 1.01」はと異なり、バージョン部分が「1.11」になっている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

葛城ミサトが碇シンジをリリスの下へと連れて行った場面以降、この「You are (not) alone.」...「あたは一人である/では無い」の「では無い」の面が感じられる部分が多くなって行きます。

ヤシマ作戦開始 2

葛城ミサトから碇シンジと綾波レイとに作戦の担当が伝えられます。碇シンジがエヴァンゲリオン初号機で砲手を担当し、綾波レイがエヴァンゲリオン零号機で防御を担当するとの事でした。その後、その事に就いて赤城リツコからの簡単な説明がありました。赤木リツコによると、碇シンジを砲手担当にする理由は...より精度の高いオペレーションが求められる中、未調整の零号機より、修復中ながらも初号機の方が有利だから...と言う事でした。(これはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」とは異なる理由です。「TV」では綾波レイとエヴァンゲリオン零号機とのシンクロ率よりも碇シンジとエヴァンゲリオン初号機とのシンクロ率の方が高いからと言う理由でした。)

また、赤木リツコからは今回の作戦では正確に(使徒の)コアの一点のみを貫く必要があると言う説明がありました。これに対し、碇シンジはどこがコアか分からないと質問していましたが、赤木リツコによると、目標内部に攻撃形態中だけ実体化する部分があり、そこがコアと(ここでは推察では無く)推測されるとの事でした。(TV版「新世紀エヴァンゲリオン」でも正確にコアの一点のみを貫く必要があると言う説明はあったのですが、そこでは碇シンジからは特にその事に就いての質問は無い儘で作戦に移っていました。「TV」ではラミエルは形態を変えず、そのためコアが見える事も無く...今思えばどうのようにしてコアの位置を判断したのかが疑問に思えます...。これは、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」のこの場面を見るまでは気にもならなかった事であり、この場面が無ければずっと気が付かずにいたのでは無いかと思います。因みに、気が付いた序に「TV」ではどのようにコアの位置を判断したのだろうと考えてみたのですが...これに関しては、結局、これだと言えるものは思い浮かばずに終わりました。恐らく、様々な情報を集め、そこから推測したのでは無いかと...ネルフにはMAGIがありますし...。)

碇シンジ、綾波レイは赤木リツコから簡単な説明を受けた後、プラグスーツへの着替えに移っていました。

碇シンジ :「これで...。これで、死ぬかも知れないね」

綾波レイ :「いいえ...。あなたは死なないわ。私が守るもの」

碇シンジ :「僕に『守る価値』なんて無いよ」

この「僕に『守る価値』なんて無いよ」は綾波レイが去った後に言った独り言です。これはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」には無かった台詞です。

碇シンジにある「守る価値」は作戦上のものであり(作戦での主軸を勤める事からのものであり)、綾波レイが碇シンジを守るのはそれが自分に与えられた仕事だからだと思うのですが(ここではそれ以上の事を言っているようには聞こえません)、ここでの碇シンジはその事を分かった上で(即ち、自分には、現在、作戦上の「守る価値」がある事を分かった上で)この台詞を言っているようにも思えます。分かっていながらそこに別の話(碇シンジ個人の価値に就いての話)を重ね合わせているのでは無いかと...。そして、別の話だからこそ、誰もいない状況になってから口に出して言ったのでは無いかと思います。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では綾波レイの「どうしてそう言う事を言うの」の台詞が無くなっていました。好きな台詞だったので、この変更は残念に思いました。

碇シンジはプラグスーツに着替えた後、葛城ミサトから録音伝言を受け取っていました。それは鈴原トウジ、相田ケンスケからの励ましの伝言であり、碇シンジはそれを聞いていました。これも「あなたは一人では無い」を思わせる場面になっています。(これはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」には無かった場面です。「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では、作戦スケジュールが違うためか、「TV」にあった「エヴァンゲリオン初号機とエヴァンゲリオン零号機とが第一中学校のクラスメイト達に見送られ双子山を目指して移動する場面」が無くなっていましたので、その代わりと言う事なのでしょうか。)

プラグスーツに着替えた後、作戦開始前の待機中に碇シンジと綾波レイとの会話がありました。

碇シンジ :「綾波は、何故、エヴァに乗るの?」

綾波レイ :「絆だから」

碇シンジ :「絆?」

綾波レイ :「そう、絆」

碇シンジ :「父さんとの?」

綾波レイ :「皆との」

碇シンジ :「強いんだな、綾波は」

綾波レイ :「私には、他に何も無いもの」...「時間よ。行きましょ」

綾波レイ :(立ち上がった後、満月を背景に)「さよなら」

ここは、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」と比べると、「これ」が「エヴァ」に変わっていたり、碇シンジの「他に何も無いって?」と尋く台詞が無くなっていたり、「じゃ、さよなら」が単に「さよなら」になっていたりはしますが、ほぼ同じであると言えます。好きな場面だったので余り手が加えらずに済んでいて良かったと思います。

じゃ、さよなら」と言った綾波レイはメガネケースと思しきものを握っていたその手に力を入れていました。TV版「新世紀エヴァンゲリオン」には無かった演出です。後の場面での碇シンジの台詞に「綾波ほどの覚悟も無い」と言う台詞がありますが、この綾波レイの手は、綾波レイの言葉以上に、碇シンジに綾波レイの決意を感じさせるものとなったのかも知れません。

ヤシマ作戦開始

午前0時丁度。作戦が開始されます。

葛城ミサト :「シンジ君。エヴァに乗ってくれた...それだけでも感謝するわ。ありがと」

作戦開始前。葛城ミサトは碇シンジがエヴァンゲリオン初号機に乗った事に対して感謝の気持ちを伝えていました。そして、碇シンジはそれを目を閉じたまま黙って聞いていました。

これはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」には無かった台詞です。「TV」では葛城ミサトが「シンジ君、日本中のエネルギーあなたに預けるわ。頑張ってね」と声を掛け、それに対し、碇シンジは「はい」と答えていました。

葛城ミサトが碇シンジに見せた他者との繫がり、エヴァンゲリオンに乗る事の中にあるかも知れないそれへの未練、それがあるかも知れないと言う事への僅かな期待が、碇シンジをエヴァンゲリオンに再び乗せたように思うのですが、碇シンジとしては強い覚悟を持って乗っている訳でも、積極的な意思を持って乗っている訳でも無く、やはり、未だエヴァンゲリオンに乗る事の意味に対する迷いや懐疑を持った状態で乗っているのだろうと思います。どちらかと言えば、自分のためと言うよりは、葛城ミサトの強い思いを受けて他者のために乗っているに過ぎないと言える状態であるように見えます。

(少し先の事を言えば、結果的にはこの他者を守るための戦いが碇シンジに人と人との繫がりの形、その在処を見せる事になります。そして、碇シンジはそれによって自他の関係に対しての心の置き方を変える事になります。恐らく、自分が他者に求めていた繫がりが、他者から与えられるものでは無く、自分と他者との関係の中に作られるものだと言う事を、他者のために戦う事の中で感じたのでは無いかと思います。求めていたものを手に入れた訳では無く、求めていたものがどう言うものであるのかを知った...と言うだけの事なのですが、それは碇シンジの心に変化を齎すには十分な気付きだったように見えます()。では、ここでの碇シンジが、自分がエヴァンゲリオンに乗る事(乗って他人を守る事)によって自分の中の何か変わるかも知れない(即ち、それによって世界が変わるかも知れない)と思いながら乗っているかと言うと、そうでは無いように思います。恐らく、そこまでは思っていないのでは無いかと思われます。)

(この心の変化はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」には無かったものです。この心の変化が(碇シンジなかで起こった「世界」の変化)が、「TV」とは別の世界へと進む可能性だと思いたいところです。ここまでは「TV」の焼き直しとも言える内容になっていますが、続編でもそれでは面白みがありませんので...。)

葛城ミサトには、碇シンジがまだ迷いを持ちながら気が進まない状態でありながら、それでもエヴァンゲリオン初号機に乗っていると言う事、葛城ミサトの意思に応えて乗っていると言う事が分かっていたのだと思います。碇シンジのためにでは無く、人類の命運のために碇シンジをエヴァンゲリオン初号機に乗せた、それが碇シンジにとって背負うには重た過ぎるものである事を分かっていながら背負わせた、他でも無い自分がそうさせた、その意識があったからこそのここでの感謝の言葉だったのでは無いかと思います。

先ずは自分が自分で立ち上がらなければ何も始まらない、その事を繰り返していた「TV」-旧劇場版「Air/まごころを、君に」、碇シンジが自分自身で立ち、怖くても歩いて前に進んでみようと思うまでの物語だった「TV」-旧劇場版「Air/まごころを、君に」と比べると、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では向かう方向が違っているのかも知れません。まだ判断には早いのですが、自立だけで無く、今度は他者との繫がりにも重点を置き、他者との繫がりの中で自立して行く...そう言う物語になって行くのでは無いかとも思いました。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」とは異なり、双子山にエヴァンゲリオン初号機が射撃を行うための足場が築かれていました。また、エヴァンゲリオン初号機は、「TV」とは異なり、作戦の内容(狙撃)に合わせて「G型装備」に換装された状態になっていました。(TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では木々の中からの射撃でしたし、エヴァンゲリオン初号機も通常の状態でした。)

陽電子砲を構えるエヴァンゲリオン初号機 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

陽電子砲を構えるエヴァンゲリオン初号機。「TV版」とは異なり、狙撃のためのきちんとした足場が作られている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

陽電子砲を構えるエヴァンゲリオン初号機 : 新世紀エヴァンゲリオン 第六話「決戦、第3新東京市」

新世紀エヴァンゲリオン「決戦、第3新東京市」(第六話)より。陽電子砲を構えるエヴァンゲリオン初号機。木々の間に身を隠しているだけの状態。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

ヤシマ作戦 : 陽電子砲第1射

エヴァンゲリオン初号機による第6使徒ラミエル狙撃の準備が整うまでの間、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」には無かった「ラミエルへの陽動攻撃」が行われていました。これはエヴァンゲリオン初号機による狙撃を悟られないためのものようです。この陽動攻撃に対してラミエルは様々な形態を見せ、防御、反撃を行っていました。

射撃の準備が進む中、最終安全装置が解除され、激鉄が起こされ、第5次最終接続(TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では第7次最終接続)が完了したところで、そこから射撃可能になるまでの間に「TV」には無かった碇シンジの台詞が入れられていました。

碇シンジ :「綾波ほどの覚悟も無い、上手くエヴァを操縦する自信も無い、理由も分からずただ動かせただけだ。人類を守る?こんな実感も湧かない大事な事を...何で僕なんだ?」

ここでもキャラクターが心の内を台詞で説明しています。「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」ではTV版「新世紀エヴァンゲリオン」よりも思っている事をきちんと言葉で表現するようになっていますが、これもその場面の一つです。「TV」よりもキャラクターの心理を察する手間が省ける作りになっていると言えます。(ここでは言葉での説明ですが、他の場面ではキャラクターの態度でその心理を読み取り易くしている場面もあります。)

陽電子砲発射の準備が整い、エヴァンゲリオン初号機による第6使徒ラミエルへの狙撃が行われます。その第1射はラミエルに命中し、ラミエルからは「赤色の液体」が大量に噴出していました。

第1射が命中した事で第6使徒ラミエルを倒したかのように見えたのですが、コアの一点を貫く事には失敗していたようであり、ラミエルの身体は直ぐに自己修復していました。

修復したラミエルは、一度、基本の形態に戻った後、星型に変形し、双子山方面に向かって射撃します。ラミエルから放たれた光弾は双子山に命中し、山を吹き飛ばすかと思うほどの威力で山を焼いていました。

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では...エヴァンゲリオン初号機と第5使徒ラミエルがほぼ同時に射撃を行い、その二つの光弾が途中で干渉し、それによって光弾の軌道が逸れ、互いに的を外す...と言う展開だったのですが、それとは異なる展開だと言えます。

陽電子砲が命中した第6使徒ラミエル : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

第6使徒ラミエルに陽電子砲の第1射が命中。身体を撃ち抜かれたラミエルからは「赤色の体液」が噴出。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

周囲に降り注ぐ第6使徒ラミエルからの赤色の体液 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

周囲に降り注ぐ第6使徒ラミエルからの「赤色の体液」。「TV版」ではエヴァンゲリオン初号機による陽電子砲の(第1射は外れ)第2射がラミエルに命中しているが、命中した後にラミエルの身体から「赤色の体液」が噴出するような事は無かった。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

ヤシマ作戦 : 陽電子砲第2射~第6使徒ラミエル沈黙

陽電子砲の第1射を失敗し、第6使徒ラミエルの反撃を受けた後、ネルフ陣営では直ぐに第2射の準備に入っていましたが、肝心の碇シンジは葛城ミサトからの指示(エヴァンゲリオン初号機を狙撃ポイントに戻す指示)にも反応せず、両手で自分を抱きながら、ただ怯えていてるだけでした。

碇ゲンドウ :「現時刻を以て初号機パイロットを更迭。狙撃手は零号機パイロットに担当させろ」

冬月コウゾウ :「碇...」

碇ゲンドウ :「使えなければ切り捨てるしか無い」

葛城ミサト :「待って下さい。彼は逃げずにエヴァに乗りました。自らの意思で降りない限り、彼に託すべきです」

葛城ミサト :「自分の子供を信じて下さい」...「私も初号機パイロットを信じます」

碇ゲンドウ :「任せる。好きにしたまえ」

葛城ミサト :「ありがとうございます」

怯える碇シンジを使えないと判断した碇ゲンドウは直ぐに碇シンジの「更迭」を命じ、パイロットを綾波レイに変えようとします。しかし、葛城ミサトは碇シンジの継続を進言していました。

葛城ミサトは作戦上の最善が何かよりも、碇シンジの意思を優先しているように見えます。ここでの台詞も、碇シンジを変えたくない、碇シンジの心が折れない限り(それが碇シンジにとって怖くて辛い事だと分かっていながらも)碇シンジに最後まで遣らせたい、そう言った個人的な思いがあるのだと思います。勿論、それだけで無く、碇シンジであれば遣り遂げると信じているからこその進言だとは思いますが。

碇ゲンドウは、恐らく、作戦の成功を最優先に考えている思われ、その碇ゲンドウからすると作戦の成功、使徒の殲滅こそが重要であり、碇シンジが自分の子供かどうかだとか、信じる信じないだとかは関係の無い事なのですが...葛城ミサトの真剣な言葉と真剣な眼差しに心を動かされたのか、葛城ミサトに全てを任せる事にしていました。

怯え、両手で自分を抱えていた碇シンジでしたが、碇ゲンドウと葛城ミサトの遣り取りがあった間に、その両手をエヴァンゲリオン初号機の操縦桿へと移し、再びエヴァンゲリオンの操縦を始めていました。

鈴原トウジ :「シンジ、頼むで」

相田ケンスケ :「碇、頑張れよ」

再びエヴァンゲリオン初号機の操縦桿を握った碇シンジの頭の中には鈴原トウジ、相田ケンスケからの録音伝言にあった言葉が思い出されていました。

葛城ミサトが碇シンジへの信頼を示したのもそうですが、それに続き、ここにも、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」には無かった「碇シンジが他者との心の繫がりを感じ取り、自分は一人では無いと言う思いに至っても(自分は一人では無いと錯覚しても)可笑しくない要素」が差し込まれています。

碇シンジに人類の命運を託し、信じると言った葛城ミサト、命懸けの作戦に挑む碇シンジに(自分達が何も出来ずに碇シンジに託すしか無いからこそ、せめてもの事として)励ましの言葉を送った鈴原トウジ、相田ケンスケ()、それらの思いを抱いて(そこまでのもので無くても、それらを心に留めて)戦う碇シンジ...こう言ったところは「TV」では見られなかったところであり、碇シンジの物語を「You are not alone.(サブタイトル)」へと繫げるために差し込まれたものであるように思います。

(TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では夕焼けの中を双子山へと向かって移動するエヴァンゲリオン初号機、エヴァンゲリオン零号機を鈴原トウジ、相田ケンスケ以下、クラスメイト達が見送りをしていましたが、それが単なる「見送り」にしか見えないのに対し、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」での鈴原トウジ、相田ケンスケの行動は自分達の声が少しでも碇シンジの励みになればと言う思いが感じられるものになっているように思います。性質が異なるもののように感じました。)

碇シンジはエヴァンゲリオン初号機を動かし、機体を狙撃ポイントへと移動させます。

葛城ミサト :「シンジ君...。」

碇シンジ :「はい」

葛城ミサト :「今一度、日本中のエネルギーと一緒に私達の願い、人類の未来、生き残った全ての生物の命、あなたに預けるわ。頑張ってね」

碇シンジ :「はい」

葛城ミサトは、再びエヴァンゲリオン初号機を動かした碇シンジに対し、戦う覚悟があるものと見て、敢えて自分達の思い、人類の命運を背負わせるような事を言っているのだと思います。前線で戦う碇シンジが決して一人では無いと言う事を意識させる台詞です。

碇シンジは、作戦開始時とは違い、この葛城ミサトの言葉にきちんと返事をしています。これは、戦いの中で他者の思いを感じ、それを背負って戦う、その覚悟を持った事によるものであるように思います。恐らく、碇シンジは「今、自分は一人では無く、皆と一緒にあるんだ」と感じているのでは無いかと思います。作戦開始時には懐疑的であったと思われる「他者との繫がり」を戦いの中で感じた事、作戦開始時には無かった「皆の思いを背負って戦う覚悟」を持った事、それが碇シンジの心的変化を引き起こし、作戦開始時とのここでの態度の違いとなったのだろうと思います。

ネルフ陣営が陽電子砲の第2射の準備を進める中、第6使徒ラミエルからエヴァンゲリオン初号機へと向かって光弾が放たれます。しかし、これは綾波レイのエヴァンゲリオン零号機がエヴァンゲリオン初号機の前に立ち、盾で防いでいました。

綾波レイのエヴァンゲリオン零号機が第6使徒ラミエルの攻撃を防いでいる間に、ネルフ陣営では陽電子砲の第2射の準備が完了し、碇シンジのエヴァンゲリオン初号機はラミエルに向かって第2射を放ちます。そして、陽電子砲から放たれた第2射はラミエルのコアを破壊し、ラミエルを沈黙させていました。

コアを破壊された第6使徒ラミエルは悲鳴と共に崩壊し、周囲に「赤色の液体」を撒き散らしていました。

第6使徒の下部から伸びてジオフロント外殻を掘削していた部分(陽電子砲の第1射と第2射の間にジオフロントの外郭を突破している)は破裂して「赤色の液体」となり、真下にあるネルフ本部に降り注ぎ、ネルフ本部を赤く染めていました。

沈黙した第6使徒ラミエルは、自らが撒き散らして出来た「赤色の体液」の水溜りに沈んでいました。

第6使徒ラミエルでは、第4使徒サキエル、第5使徒シャムシエルの時とは違い、「虹」は現れずに終わっていました。

但し、それは「EVANGELION:1.01」での事であり、「EVANGELION:1.11」では、第4使徒サキエル、第5使徒シャムシエルの時と同様に「虹」が出現しています。

陽電子砲の第2射を受けた直後の第6使徒ラミエル : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

陽電子砲の第2射を受けた第6使徒ラミエル。炎を上げている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

悲鳴と共に形状を変えた第6使徒ラミエル : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

その後、悲鳴と共に形状を変え、沈黙。身体からは「赤色の体液」が出ている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

悲鳴と共に形状を変えた第6使徒ラミエル : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

第6使徒ラミエルの下部から出てジオフロントを掘削していた先端は、ラミエルの沈黙と共に破裂。「赤色の液体」となってネルフ本部に降り注いだ。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

沈黙後、崩れて行く第6使徒ラミエル : ヱヴァンゲリヲン新劇場版「序」(EVANGELION : 1.01)

沈黙後、形態が崩壊して行く第6使徒ラミエル。ここでは第4使徒サキエル、第5使徒シャムシエルの時に見られた「虹」は見られなかった。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 (EVANGELION : 1.01) © カラー・GAINAX ]

沈黙後、崩れて行く第6使徒ラミエル : ヱヴァンゲリヲン新劇場版「序」(EVANGELION : 1.11)

但し、「EVANGELION : 1.11」では、「EVANGELION : 1.01」とは異なり、その場に「虹」が出現している。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 (EVANGELION : 1.11) © カラー ]

沈黙し、赤色の体液の海に沈む第6使徒ラミエル : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

沈黙した第6使徒ラミエル。自らが撒き散らして出来た「赤色の体液」の海に沈む。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

陽電子砲の第2射を受け、沈んで行く第5使徒ラミエル : 新世紀エヴァンゲリオン 第六話「決戦、第3新東京市」

新世紀エヴァンゲリオン「決戦、第3新東京市」(第六話)より。陽電子砲の第2射を受け、沈んで行く第5使徒ラミエル。「TV版」ではコアを撃ち抜かれても形状を変えず、単に炎上し、沈黙。「赤色の液体」を出す事も無かった。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

第5使徒ラミエルの沈黙により停止したシールド : 新世紀エヴァンゲリオン 第六話「決戦、第3新東京市」

新世紀エヴァンゲリオン「決戦、第3新東京市」(第六話)より。第5使徒ラミエルの下部から伸びていたシールド。ラミエルの沈黙により停止。これが「赤色の液体」に変わる事は無かった。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

沈黙した第5使徒ラミエル : 新世紀エヴァンゲリオン 第六話「決戦、第3新東京市」

新世紀エヴァンゲリオン「決戦、第3新東京市」(第六話)より。沈黙した第5使徒ラミエル。新劇場版序」とは異なり、形態の大きな崩壊は見られない。また、「虹」の出現も無い。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

使徒殲滅後に出現する「虹」

EVANGELION:1.01

(以下は「EVANGELION:1.01」を見た段階での感想や解釈を書いた草稿を基に整理したものです。姫は「EVANGELION:1.01」を見た後に「EVANGELION:1.11」も見ているのですが、「EVANGELION:1.11」では、「EVANGELION:1.01」とは異なり、第6使徒ラミエルの殲滅時にも「虹」が出現しているため、これとは別の解釈(後述)が必要になります。)

「EVANGELION:1.01」では第4使徒サキエル、第5使徒シャムシエルが沈黙した際には「虹」が現れていたのですが、第6使徒ラミエルでは「虹」は現れずに終わっていました。何故、第4使徒サキエル、第5使徒シャムシエルの時には虹が現れ、第6使徒ラミエルの時には虹が現れなかったのか、たまたまなのか、それとも何か意味があっての事なのか、意味があるとするならそれは何なのか...その辺りの事は作中からは読み取れず、はっきりした事は何も分からないと言えます。以下では、この「虹」を何か意味があるものとし、その前提で自分なりの考えを書いてみましたが、それも、判断材料の無い中で何の根拠も無く書いたただの当て推量でしかありません。

アダムだの使徒だの死海文書だのと言う世界の中で、姫が「虹」から連想するのは(キリスト教で言うところの)「旧約聖書」に出て来る「契約の虹」です。その連想を利用して「虹」の有無に無理やり何らかの解釈を付けるならば...第4使徒サキエル戦、第5使徒シャムシエル戦までは「虹」の出現によって「今がまだ古い約束の世界」である事を表し、第6使徒ラミエル戦ではその「虹」が無い事によって世界が「ここから新しい段階(流れ)に入った」と言う事を(内外に対して())表している...と言う解釈も出来なくは無いと思います。即ち、サキエル戦、シャムシエル戦までは古い世界の展開、旧作に沿った古い展開であったが、ラミエル戦からはその展開を上書きする新しい展開になると言う事を表しているのが「虹」の有無なのでは無いかと言う事なのですが...やはり、これは無理があるかも知れません...。(続編を見ていない今の段階では、この先、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」-旧劇場版「Air/まごころを、君に」と同じ展開が続くのか、それとも異なる展開に入るのかは分からないところなのですが、これを分岐点として新しい展開、新しい「エヴァンゲリオン(碇シンジの物語)」に入って欲しいと言う願望を多分に入れて解釈を付けてみました...。)

(作品の内で言えば神(ある決められた道筋?)と古い世界(TV版「新世紀エヴァンゲリオン」-旧劇場版「Air/まごころを、君に」の世界)を知る者との古い約束を示す「虹」であり、作品の外で言えば作り手(「TV」-旧劇場版「Air/まごころを、君に」を作った者)と受け手(「TV」-旧劇場版「Air/まごころを、君に」を見た者)との古い約束を示す「虹」であると言えるのでは無いかと思います。そして、第6使徒ラミエルとの戦いの後にそれが出現しない事により、作品の内で古い世界を知る者、作品の外で古い世界を見たものに新しい世界の到来を示しているのでは無いのかと...。)

第4使徒サキエルの自爆後に出現した光の十字架と虹 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

第4使徒サキエル自爆後。「TV版」には無かった虹が出現している。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

第5使徒シャムシエル戦の後 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

第5使徒シャムシエル形象崩壊後。「TV版」には無かった「虹」が出現している。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

第6使徒ラミエル殲滅時に虹が出現しなかった : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

「EVANGELION : 1.01」での第6使徒ラミエル沈黙後。「虹」は見られない。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

綾波レイの家での「虹」

「虹」に就いて序に書くと、使徒殲滅後以外では、綾波レイの家で碇シンジが綾波レイに覆い被さった際にも「虹」が出現していました。これは初見時には見逃していたようであり、記事を書くために見直した際に気が付きました(記事を書くために見直す際には色々なところに意識を向けながら、更には一時停止も使いながら見て行くため、そこで初見時に気が付かなかった事柄に気が付く事も多くあります。これもその中で気が付いた事柄です)。では、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」での同場面(第伍話「レイ、心のむこうに」)では如何だったかと言うと、こちらも視聴時に全く気にしていなかった事から記憶に無かったのですが、見返したところ、そこでも同様に「虹」が出現していました。この「虹」は「新劇場版」になって追加されたものでは無く、「TV」で既にあったものと言う事になります。

この「虹」は、それがTV版「新世紀エヴァンゲリオン」でも出現していた事を考えると、「新劇場版」になって追加された他の「虹」とは安易に一括りに出来ないと言えます。ただ、「新劇場版」になって追加された他の「虹」が、約束された事柄が起こった後に架かる「虹」(シナリオが消化された後にその印として出現する「虹」)であるとするなら、(「TV」は別にして)「新劇場版」での綾波レイの家での「虹」に就いて言えば、同質のものである可能性も無いとは言えないところかと思います。即ち、「新劇場版」では碇ゲンドウのシナリオの中に碇シンジと綾波レイとを近づける事が入っているようであり(「TV」ではその辺りの事は不明)、その事から言えば...「新劇場版」では碇シンジと綾波レイとの接触は約束された事柄の一つであって、「虹」にそれを表すための役割を持たせている...と言う事も無いとは言えないのでは無いかと...。

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」での綾波レイの家での「虹」は判断材料が無いため、それにどのような意味があるのか、そもそも意味があるのか、その辺りの事は良く分からないのですが、「TV」でのその「虹」が単なる「虹」であり、「新劇場版」でのそれに当たる「虹」が前述のようなものであるならば、これも「TV」と「新劇場版」との違いと言う事になります。(勿論、「TV」での「虹」も「新劇場版」での「虹」も単なる「虹」であり、特別な意味など無く、「TV」で描いたものを「新劇場版」でもそのまま描いただけ...と言う事も十分に考えられますが...。)

綾波レイの家で碇シンジが綾波レイに覆い被さった場面 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

綾波レイの家で碇シンジが綾波レイに覆い被さった場面。ここでも「虹」が出現してる。但し、この「虹」は「TV版」での同場面でも確認出来る。「新劇場版」になって追加されたものでは無く、その点では他の「虹」とは異なると言える。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

綾波レイの家で碇シンジが綾波レイに覆い被さった場面 : 「レイ、心のむこうに」(第伍話)

「レイ、心のむこうに」(第伍話)より。「TV版」での同場面。「虹」が出現している。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

EVANGELION:1.11

(以下は「EVANGELION:1.01」を見た後に「EVANGELION:1.11」を見て改めて思った事を書いたものです。)

「EVANGELION:1.11」を見ると第4使徒サキエル、第5使徒シャムシエル、第6使徒ラミエル...全ての使徒の殲滅時に「虹」が出現していました。「EVANGELION:1.01」ではそれまで使徒の殲滅時に出ていた「虹」がラミエルの殲滅時に出なくなったため、その差が何による差なのかを含めて「虹」が出現する意味をあれこれと考えたのですが、手直しが入った「EVANGELION:1.11」の方が正式なものだとするならば、即ち、背景が同じでありながら事象だけが変えられている「EVANGELION:1.11」の方が正式なものだとするならば、必要となるのは、「EVANGELION:1.01」と「EVANGELION:1.11」との両方で通用する解釈では無く、変更後の「EVANGELION:1.11」だけで通用する解釈であると言え、何故、使徒の殲滅時に「虹」が出現するのかだけを考えた解釈があれば良いと言う事になります。最初に「EVANGELION:1.01」を見て行った「虹」の出現の有無を含めた解釈、「虹」が出現しなかった理由を考えながら行った解釈は、「EVANGELION:1.11」での変更を見た時点で破棄しなければならないと言えます...折角、あれこれ考えたのですが...。

「EVANGELION:1.01」では、第4使徒サキエル、第5使徒シャムシエルの殲滅時に出た「虹」は古い約束の「虹」であり、第6使徒ラミエルの殲滅時にその「虹」が出なかった事により、古い約束を脱して新しい流れに入ったのでは無いかと言う解釈を付けました。では、ラミエルの殲滅時にも「虹」が出現した「EVANGELION:1.11」では如何かと言うと...この場合、サキエル、シャムシエルの殲滅時に出た「虹」は約束が果たされていると言う証の「虹」であると言う解釈を付けたいところです。この後の場面でゼーレの口から「死海文書外典」と言う言葉が出て来るのですが、どうやら、今回はその「死海文書外典」によるシナリオによって話が進められているようです。この「虹」はその「死海文書外典」によるシナリオ(約束)が上手く果たされている事の証として現れているのでは無いかと思います。

(「EVANGELION:1.01」では、「死海文書外典」によるシナリオが...最初の段階では「死海文書」によるシナリオと同じように進み、途中から新たな道へと分岐するシナリオ...になっていると考えて、同じように進んでいる段階ではその証として「虹」が出現し、新たな道に入った段階では古い約束から抜け出したと言う事で「虹」が出現しないと言う解釈になります。「虹」は古い約束を示したものであり、それが出現しない事で古い約束からの分岐を示しめしていると言う事になります。それに対し、「EVANGELION:1.11」では、「死海文書外典」によるシナリオが「死海文書」によるシナリオと違っていようが違っていまいが()、兎に角、それが果たされた事に対して「虹」が出現すると言う解釈になります。「虹」は、古い新しいに関係無く、単なる約束の証であり、シナリオ(約束)が果たされた事を示していると言う事になります。「虹」が最後まで出現したか、途中で出現しなくなったかと言う事で、「虹」の意味だけで無く、「死海文書外典」への見方まであっさりと変えてしまう...そこには解釈する者の都合に合わせてどうにでもする事が出来る、そして、それを良い事にどうにでもしようとする、あの恐ろしさが確りと出ているのですが...これはこの解説サイト全体に亘っての事であり、反省しつつも、今更の事と諦めています...。)

(「死海文書外典」によるシナリオは今のところは「死海文書」によるシナリオと大差が無いと言えます。「EVANGELION:1.11」が正式な変更だとするなら、そして、ここでの解釈があっているとするなら、例え、続編で違う流れに入ったとしても入らなかったとしても、使徒の殲滅時には同じく「虹」が出現するものと思います。(個人的には続編では違う流れに入って欲しいところです。「EVANGELION:1.01」では「虹」が出現しなくなった事に続編での変化の兆しを(勝手に)感じ取ったのですが、(そして、無意味だと思いながらも、そうであって欲しいと言う願望を乗せて解釈を行ったのですが、)「EVANGELION:1.11」では「虹」からは変化の兆しは感じ取れなくなってしまっています。変化の兆しは他のところにも見られるので大丈夫だとは思いますが...旧作の似たり寄ったりは「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」で終わりにして欲しいところです...。))

第6使徒ラミエル殲滅時に虹が出現した : ヱヴァンゲリヲン新劇場版「序」(EVANGELION : 1.11)

「EVANGELION : 1.11」での第6使徒ラミエル沈黙後。「EVANGELION : 1.01」とは異なり、「虹」が出現している。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 (EVANGELION : 1.11) © カラー ]

綾波レイを救出

碇シンジは、エヴァンゲリオン初号機を使ってエヴァンゲリオン零号機からエントリープラグを取り出し、それを地面に置くと、エヴァンゲリオン初号機から降りてそこへと駆け付けていました。そして、熱く焼けた扉を開け、中にいる綾波レイの無事を確認していました。

碇シンジ :「自分には他に何もないって、そんな事言うなよ。別れ際にさよならなんて、悲しい事言うなよ」(泣き出す)

綾波レイ :「何、泣いてるの?」...「ごめんなさい。こう言う時、どんな顔すればいいのか分からないの」

碇シンジ :「笑えばいいと思うよ」

この台詞の後、綾波レイは碇シンジに笑顔を見せていました。

ここでの遣り取りはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」と殆ど同じ遣り取りになっています(碇シンジの「自分には」の言い直しが無いだけの違いです)。

エントリープラグ内の綾波レイは、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」と同じく、「碇ゲンドウの眼鏡」を手に持っていました。しかし、「TV」では碇シンジに「笑えばいいと思うよ」と言われた後に碇シンジの顔に碇ゲンドウの顔を重ね合わせてから笑顔を見せていたのですが、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」ではそう言った事は無く、ただ碇シンジの顔を見て笑顔を見せるだけになっていました。「TV」での綾波レイはこの段階では碇シンジよりも碇ゲンドウに心が向いていたのですが、「新劇場版」では「TV」よりも碇ゲンドウ離れ、そして、碇シンジに心を向けるのが早いのかも知れません。葛城ミサトが碇シンジを変え、碇シンジが綾波レイを変えた...そう言った変化が重なってこの先の世界(話)を変えて行く、そうなれば良いのですが...。(焼き直しがこれ以上続くと見る気が無くなってしまいますので...。)

碇シンジはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」では外からエントリープラグの内に身を乗り出した形で綾波レイに言葉を掛けていましたが、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」ではエントリープラグの中に入った状態でそれを行っていました。エントリープラグが「TV」よりも広くなっているように見えます。

綾波レイが笑顔を見せた後、碇シンジは綾波レイに手を差し伸べ、綾波レイはその手を取っていました。この手を差し伸ばすと言う行為はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」には無かったものです。ここでも他者との繫がりを感じさせる要素が差し込まれています。

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では碇シンジは、大抵は、他者に一方的に優しくされる事を願うばかりで、自らが他者に優しくすると言う事は無かったのですが、その中にあって、この場面は珍しく碇シンジが他人に優しさを見せる場面だったと言えます。しかし、「TV」のそれは他者の事を思っての優しさと言うよりは、他者との関係が希薄な綾波レイ、「私には他に(エヴァンゲリオンの乗る事以外)何も無い」と言う綾波レイに自分の姿、自分の抱える悲しみを重ね合わせた事から出た哀れみであったように思います。碇シンジが掛けた言葉は、その全てがそうで無いにしても、綾波レイの中に見た自分自身への言葉でもあるように感じました。それと比べると、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」でのこの場面における碇シンジの台詞は、「TV」のそれと殆ど変わりがありませんが、その印象は異なると言え、「TV」よりも綾波レイに心を向けた台詞になっているように感じました。新劇場版「」と「TV」との間にそう言った違いを(勝手に)感じるのは、新劇場版「」と「TV」とでの碇シンジの心的背景の違いによるところがあるのでは無いかと思います。新劇場版「」では碇シンジは他者から頼られ、励まされ、信頼され、最後にはそれらを受け止めて他者のために戦っていたように見えます。それは、碇シンジが他者との繫がりを、決して自分は一人では無いと言う事を、朧げながらであっても感じたからでは無いかと思います。他者の思いを受け、他者のために戦った碇シンジの台詞は、同じような台詞であっても、他人を思える心がそこにあるかのように聞こえました。

碇シンジの「笑えばいいと思うよ」の言葉に綾波レイが笑顔を見せた後、碇シンジは綾波レイへと手を差し伸ばしています。これは、自分から他者に積極的に係わって行く行為であり、他者を受け入れる覚悟がある程度伴っていなければ出来ない行為でもあるように思います。TV版「新世紀エヴァンゲリオン」での碇シンジ...他者に受け入れられたがっていた反面、自らが他者を求めて行く事は無く、他者を受け入れる覚悟も無かった碇シンジと比べると、他者に対して心的に前向きになっていると言えるのでは無いかと思います。

他者の思いを受け、他者のために戦った碇シンジ、それにより「自分は一人では無い」と言う事を多少なりとも感じ取った碇シンジ、その碇シンジがここで差し出した手、それは他者の事を思い、他者のために差し出した手であり、自分が他者との間に得たものを今度は自分が他者に与えようとして差し出した手、即ち、それを必要としてる他者に「あなたは一人では無い」と言う事を伝え、他者を救い上げようとしている手であるように見えました。例え、それが、他者への優位性から来る行動であり、(結果的に)何らかの自己満足に繫がっている行動であったとしても、世界(或は自分の見える範囲)に対する願望が(無意識的に)込められた行動であったとしても、そこには他者への優しさと呼んで差支えないものが多かれ少なかれあったように思います。自分から他者へと向けた優しさ、それは「TV」の碇シンジには中々見当たらなかった部分だと言えます。それに比べると「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では「TV」よりも多少の心的成長が見られると言えそうです。

(エヴァンゲリオンの乗る事以外)私には他に何も無いもの」と言っていた綾波レイ...碇シンジも状況的には未だにそれと殆ど変わりが無いと言えます。碇シンジはエヴァンゲリオンに乗る事が他者との絆であり、それが他者との結び付きの大半を占めている事に変わりはありません。碇シンジが「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」で他者から頼られ、励まされ、信頼されたのはエヴァンゲリオンに乗っていたからこそであり、エヴァンゲリオンに乗っていなければそのような事は無かったと言えます。しかし、その中で、他者の思いを背負い、他者のために戦い、他者との繫がりを感じた事、「自分は一人では無い」と思えた事が碇シンジの心を多少なりとも発達させ、他者に手を差し伸べるに至らせたのでは無いかと思います。それは、もしかすると、単なる思い込みだったり、勘違いだったり、その場の流れを受けての気紛れだったりするようなものに、何と無く湧いた少しの勇気、大した事の無い少しの覚悟が乗って起こった事に過ぎないのかも知れませんが、自ら他者との間に繫がりを築こうとし、他者を救い上げようと(受け入れようと)する、そう言った変化は碇シンジにとって(そして、「エヴァンゲリオン(碇シンジの物語)」にとって)は新たな道への大きな一歩となるものであるように思います。(勿論、碇シンジの事なので、それが一時の前向きさでしか無く、何かあれば直ぐに挫け、元に戻る事もあるかも知れませんが...。)同じような話を見るのには限界があるので、続編の事も考えると、是非、そうであって欲しいところです...。(既に考察と言うより願望です...。)

ここまでが「決戦、第3新東京市」(第六話)に当たる部分となっています。

月面、そして渚カヲル

月面には棺のようなものが並べられていました。これは画面では九つが確認出来ます。左の五つは既に蓋が開いた状態になっていました。

その一つ、左から五つ目の棺からは渚カヲルが起き上がっていました。眠りから目覚めたばかりであるかのようでした。

渚カヲル :「分かっているよ。あちらの少年が目覚め、概括の段階に入ったんだろ」

ゼーレ 01 :「そうだ。死海文書外典は『掟の書』へと行を移した。契約の時は近い」

(月面で音を使った遣り取りをしていますが...姫も、大分、アニメを見るのが上手くなったようであり、そこは気にせずに見る事が出来るようになりました...。)

ここではゼーレ01との会話の中で「死海文書外典」、「掟の書」と言う言葉が出て来ています。これはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」には無かったものです。「TV」が「死海文書」によるシナリオで進んでいたのに対し、この「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」は「死海文書外典」によるシナリオに沿って進められていると言う事であり、そして、そう進んで行くと言う事になりそうです。今のところは「死海文書」によるシナリオと「死海文書外典」によるシナリオとには大きな違いは見られないのですが、「死海文書外典」によるシナリオがこのまま「死海文書」によるシナリオが多少修正された程度のシナリオで終わっているのか、それとも途中から大きく変わるシナリオになっているのか、即ち、この先も多少異なるだけの同じような展開が続くのか、それとも大きく変わって行くのか...その辺りが続編での注目点の一つになりそうです。

この場面では「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」になってゼーレが、何故、シナリオを変えたのかも気になります。

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」-旧劇場版「Air/まごころを、君に」では碇シンジの選択により、最後はゼーレの望んだ形にはならなかったものの、リリスに人類が補完された状態はゼーレが望んだものであったと言えます。もし、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」においてもゼーレの最終目標とする形が同じであり、更に、「死海文書」によるシナリオがそのまま通用する世界だとするならば、別のシナリオを持ち出さずとも、「TV」で本来予定していた形(「碇シンジ」と言う要素を利用しない形)を使ってそれを遂げる事を目指すのが自然であるように思います。では、何故、「死海文書」では無く、「死海文書外典」を持ち出して来たのかと言うと...これは、目指す形は変わらずとも、今の世界が、「死海文書」では無く、「死海文書外典」でしか人類の補完を遂行出来ない世界になっていると言う事や、ゼーレが願うものが「TV」から変更されていて、そこに辿り着くには、「死海文書」では無く、「死海文書外典」で無ければならないと言う事も考えられます。先にも書いたように、「死海文書外典」によるシナリオが続編でも「死海文書」と大差が無い内容で進んで行くのか、それともどこかで大きく変わって行くのか、それは今の段階では分からないのですが、道筋が同じままであっても変わって行っても、今後、ゼーレが同じ終局に向かって進んで行こうとするようであれば前者と言う可能性もありますし、異なる終局に向かって進んで行こうとするようであれば後者と言う可能性もあるかと思います。(勿論、どちらに進んでもこれら以外の理由であると言う事もあるかと思います。姫が他に思い付かないだけで...。)

「死海文書」の「外典」と言う事は誰か(ゼーレ?)が選定したのだと思いますが、「死海文書」のようなものに対して、一体、何を基準にして「外典」を設けたのか、また、そもそも「外典」を設ける事に意味があるのか...この辺りは考えても良く分からないところです...。少ない情報から分かる事と言えば...「死海文書」の内の幾つかの巻物が「外典」扱いになっていて、その群れを纏めて「死海文書外典」と呼んでいるのだろうと言う事、そして、その内の一つが「掟の書」なのだろうと言う事くらいでしょうか...。

立ち上がった渚カヲルの目の前には「アダムと思しき巨人」が大きな堀跡の中に横たわっていました。掘り起こされたものなのか、掘った穴に寝かせたものなのかは分かりませんが、墓穴を掘り返したかのようにも見える事と、わざわざ掘って埋める理由も無いと思われる事から、恐らく、前者なのでは無いかと思います。

巨人の胸には大きな傷のようなものが見られました。また、左腕は一部が割け、そこには機械が入れられているようでした。それは点滴を打たれているようにも見えます。顔には(偽装するためか、本当に「アダム」であるためか)「アダムの仮面」が付けられていました。

「アダムと思しき巨人」が横たわる堀跡からは棺桶の方へと血のような赤い跡が伸びていました。

これは、この「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」での世界が新世紀エヴァンゲリオン劇場版(旧劇場版)「Air/まごころを、君に」から続く世界だとすると、旧劇場版「Air/まごころを、君に」の劇中で付着した「リリスの血」であるとも考えられます。しかし、それにしては大きさが合いませんし(渚カヲルとの大きさの比較からこの赤い跡はそれほど大きくは無いと思われます。旧劇場版「Air/まごころを、君に」で月に掛かった「リリスの血」が減少して小さくなったと言う事や、ここが「リリスの血」が付着した場所の「端の方」であったり、細かく飛び散ったものが付着した場所であったりすると言う事も考えられますが...)、何よりも「リリスの血」が付着した場所が月の裏側であった事から考えると()、これが「リリスの血」だとは考え難いように思います。

(月の裏側の「リリスの血」が大量に付着した場所以外にも、月の表側に「リリスの血」が細かく(地球からは見えない程度に)飛び散った場所があったとするなら、この場面がそれである可能性も考えられます。そのため、「リリスの血」では無いとは言い切れませんが、これも新劇場版「」だけでは判断出来ず、続編待ちとなるところです。)

この赤色の跡は「アダムと思しき巨人」からのものであると考える事も出来るかと思います。「アダムと思しき巨人」の腹部には大きな傷跡があるので、そこから噴き出したのでは無いかと言う推測です。しかし、そうだとするなら、身体の直ぐ近くから身体と同程度の幅になっていて、それがその幅のまま伸びていると言う点が非常に不自然に感じられます。その事から言えば、これは「アダムと思しき巨人」の傷口から噴出したものでは無いと言って良いのでは無いかと思います。

月面の棺 渚カヲル : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

月面に並ぶ棺。血のような赤色の跡が見える。九つの棺が見え、その内の左側の五つは既に蓋が開いている。左側から五つ目の棺から渚カヲルが目を覚ます。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

月面の巨人 アダムと思しき巨人 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

月面の穴に横たわる「アダムと思しき巨人」。胸には傷のようなものが見られる。左腕は裂け目があり、そこから機械が入れられている。顔には「アダムの仮面」が付けられている。下方には血とも思える赤い跡が見える。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

月面に付着した「リリスの血」 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」

新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」より。月面に付着した「リリスの血」。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

渚カヲルはゼーレ01との会話の後、地球を見上げて独り言を口にします。

渚カヲル :「また三番目とはね。変わらないなぁ、君は。逢える時が楽しみだよ、碇シンジ君」

この台詞からすると渚カヲルは碇シンジの事を既に知っているようです。(これも「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」が新世紀エヴァンゲリオン劇場版(旧劇場版)「Air/まごころを、君に」の後の世界であると思わせる要素の一つになっています。(その場合、渚カヲルは他の登場人物とは違い「TV」での事を憶えていると言う事になりますが...。)しかし、ここも色々と考えられるところです。例えば、「「新劇場版」」の世界では、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」での世界とは異なり、過去のどこかで二人に接点がある事になっていると言うような事や、「「新劇場版」」の世界が「TV」-旧劇場版「Air/まごころを、君に」の後の世界か、「TV」-旧劇場版「Air/まごころを、君に」の影響を残したやり直しの世界か、似てはいるが異なる(平行世界のような)別の世界かであり、その中で渚カヲルは「TV」の世界の記憶を持っている個体、新たに持ったか、引き継いだか、保持していたかした個体であると言うような事もあるかも知れません...。勿論、これら以外の可能性も十分に考えられます。この辺りは分かっている事が殆ど無いので、何が正しいのか見当を付ける事が難しく、今のところはあれこれと想像するしか出来ないところです。)

ここでは渚カヲルの台詞の中にある「また三番目とはね」と言う言葉も気になります。

碇シンジに就いて分かっている事の中で「三番目」と言えば、最初に思い浮かべるのは碇シンジが「サードチルドレン」、「三人目の適格者」であると言う事です。但し、これは、他にも明かされていない何かで「三番目」であり、その事に就いて言っていると言う事も考えられます。

今の段階ではこれ以上は分かりようが無い「三番目」の具体的な内容は扨置き、では、「また三番目」とはどう言う事なのかと言うと...これは、続く言葉の「変わらないなぁ、君は」(同じ事柄に就いて過去と比較して変わっていないと言っているものと思われる)が前の言葉に掛かっている言葉だとするなら、「同じ事柄に就いて以前と変わらず今度も三番目」と言う事なのでは無いかと思います。そして、この比較先がどこを指してのものかは分かりませんが、仮に、「「新劇場版」」の世界が「TV」-旧劇場版「Air/まごころを、君に」の後の世界(「TV」-旧劇場版「Air/まごころを、君に」を経験した上でのやり直しの世界)であるなら、或は「TV」の世界に似てはいるが異なる(平行世界のような)世界であるなら、そちらの世界での事を知っている、或いは憶えていてる渚カヲルが、そこと比較して言っていると言う事になるのでは無いかと思います。その場合、「また三番目」と言うのは「ここ(こちらの世界)でも以前と同じ三番目」と言う事になるかと思います。そして、もし、(仮定に仮定を重ねて)「三番目」が「サードチルドレン」の事だとするなら、「また三番目」は「ここ(こちらの世界)でも以前と同じサードチルドレン」である事を言っている事になるかと思います。

ここでは碇シンジが何かで「また三番目」であると謎めかせるだけで終わっていますが、これは、物語上、展開上、この場ではまだ明かせない何らかの理由がそこにあるからなのかも知れません。そして、謎を残す事によって、見ている人の興味を惹こうとし、見ている人にあれこれ考えさせようとしているのかも知れません。(これは、謎めかすだけで実はその答えが用意されていない、答えが無いのに何かあるような振りをする事で興味を惹こうとしたり、あれこれ考えさせようとしたりしただけだったと言う事も考えられますが...そうであって欲しく無いところです...。)続編でその意味する本当のところが明かされる事があるのか、それとも、その辺りの解釈をある程度は受け手の好きにさせるようにして(ある程度の解釈の幅を持たせて)終わらせるのかは分かりませんが...姫としては、答えが用意されているならば、直接的では無くても、適切に解釈が出来る程度の判断材料が用意される事を望みます。

...と色々書いてはみたものの、結局、解釈部分に関しては根拠と呼べるものは何一つ無く、どれも単なる空想でしか無いと言えます。「三番目」が何なのか、「また三番目」が何時何処との比較なのかは分からないと言うのが正直なところです。せめてもう少し具体的な台詞であったら、推測の範囲も絞る事が出来、もう少し正面な解釈を付ける事が出来ると思うのですが...。分かっている事が殆ど無い中では、思い付いたものを並べて書くのが精一杯です...。

渚カヲルの頭上には地球が見えました。この地球は(確認出来るのは月に面している側だけですが)赤く染まっていました。

地上での描写を見る限りでは海だけが赤くなっていたのですが、月から見ると地球は大地までもが赤く染まっているように見えます。これは、地上で見る大地が赤く無い事からすると、大気が赤く染まっている事も考えられますが、しかし、地上から見た空は青く、遠くの景色も赤く染まっては見えない事や、月から見ると地球の外側が青くなっている事から、それも違うように思います...。結論としては、原因は勿論、何が赤いのかすら良く分からないと言う事に...。

月面から見た地球 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

月面から見た地球。殆どの部分が赤く染まっている。外側には青い部分も見える。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

月面に並んだ九つの棺

月面に並んだ九つの棺は、最初に映し出された時点で既に左側の五つの棺が開いている状態でした。渚カヲルは。その内の一つ、左から五つ目の棺から目を覚ましたのですが、ここでは、他の四つの棺に何者が入っていたのかが気になりました。

これも判断材料が少なく、続編を待つ事になるのですが、現段階であれこれと考えるなら、例えば、左から綾波レイ、惣流・アスカ・ラングレー、碇シンジ、鈴原トウジ、渚カヲルとなっていたと言う事や...或いは、左から第3使徒、第4使徒サキエル、第5使徒シャムシエル、第6使徒ラミエル、渚カヲルとなっていたと言う事も考えられそうです。(左端の棺が第3使徒のものであり、そこから第4、第5...となっているのだとすると、渚カヲルは、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では第17使徒でしたが、この「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では「第7使徒」と言う事になるのでしょうか...。)

画面の右側にはまだ棺があっても可笑しくないように見えますし、ここで映し出されている棺が全てとは言えないのですが、前者の場合、少なくとも第9の適格者までがいると言う事になるかと思います。

しかし、ここが月面である事を考えると、使徒である渚カヲルは平気であったとしても、他の適格者は生存が不可能であるものと思われます。他の適格者も使徒であると言うのなら別ですが...それは考え難いところかと思います。

後者の場合、既に「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では使徒は第13使徒までいる事が分かっていますので、左端が第3使徒のものだとすると、棺は第11使徒までの分しか無い事になります。この場合、残りの二つが画面の右側にある事が想像されます。ただ、この棺が「使徒の棺」だとすると、数は良いとして、その大きさが問題となって来ます。棺の大きさが、渚カヲルを除き、使徒が収まるには無理があると言えるためです。大きさの問題を解決するためにこの棺を「使徒の魂の棺」としたところで、渚カヲルだけが肉体を持った状態で棺の中で復活したと言う不自然が生じてしまいます...。この辺りは良い解釈が思い浮かびません...。

結局、前者も後者も根拠と呼べるものは何一つありません。またもや単なる空想です。確かな事は「渚カヲルが五つ目の棺から出て来た」と言う事だけであり、この九つの棺に就いては今の段階ではそれ以外は何も言えないところです。この辺りも、やはり、続編が待たれます。

月の巨人

この「月の巨人」は、「リリス」が既に別の場所(ジオフロントのネルフ本部、セントラルドグマ)で登場している事や、顔に「七つの目の仮面(アダムの仮面)」を付けている事から「アダム」であるものと思われます。(確信が持てないので記事内では「アダムと思しき巨人」としています。)

ただ、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では「リリス」に「七つの目の仮面」を付け、終盤まで「アダム」と偽っていた事もあり、この巨人も「アダム」のように見えて実は別の巨人だったと言う事があっても可笑しくは無いと思います。例えば、既に「リリス」である事が分かっている「セントラルドグマの巨人」が本当は「アダム」であって、「月の巨人」の方が「七つの目の仮面」を付けて「アダム」に見せかけた「リリス」であると言う事や、「セントラルドグマの巨人」が本当に「リリス」であっても、「月の巨人」が「アダム」とは限らず、それ以外の巨人、「第三の巨人」()であると言う事まで考えられます...。

(ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では新たな要素の追加が見られ、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」での事がそのまま当て嵌まるとは限らないと言えます。その事から言えば、「アダム」、「リリス」に続く新たな巨人が追加されている(存在している世界である)事も無いとは言えず、「月の巨人」が「アダム」や「リリス」とは異なる「第三の巨人」である可能性も無いとは言い切れないと思います。「第3使徒」が不明ですし、もしかすると、そこに「第三の巨人」が充てられていると言う事もあるかも知れません...。)

巨人の近くにある棺が「使徒の棺」であるなら、それが傍にある事からこの巨人が「アダム」であると言う事の確からしさが高まるのですが...現時点ではこの棺が「使徒の棺」か如何はかはっきりしていません...。また、これには、「新劇場版」での使徒がTV版「新世紀エヴァンゲリオン」と同様にアダムを始祖とした生命体であると言う前提が必要になるのですが...その前提も「新劇場版」では変わっている可能性があります。「新劇場版」では「TV」の物語を辿りながらも色々と変更が加えられている事から、使徒の始祖も変えられている(使徒の始祖が違っている世界になっている)と言う事も無いとは言えませんので...。仮に棺が「使徒の棺」であったとしても巨人に対する解釈の足しにはならないと言う事です...。

結局、この「月の巨人」が「アダム」であるかどうかは今の段階では判断する事が出来ないと言えます。「セントラルドグマの巨人」が偽装無く「リリス」である事、この類の巨人が「アダム」と「リリス」との二体しかいない事が確定しているのであれば、残った「月の巨人」が「アダム」だと言う事になるのですが...。何にしても可能性として示す以上の事はこの段階では出来ず、これも、続編待ちの部分となるところです。

テーマソング : Beautiful World

  • Beautiful World
    • 作詞・作曲・編曲 : 宇多田ヒカル

曲は、素直な感想を言えば、「エヴァンゲリオン」の歴代の曲の中では最も好みに合わない曲だと感じました。

詩の内容や言葉遣いはもう少し硬い方が良かったのでは無いかと思います。好みを抜きにしても、曲中での言葉遣いは「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」の雰囲気と比べて少々緩い気がし、「エヴァンゲリオン」には似合わないように感じられました。

歌声は聞き取り難く、(そう言う歌い方なのだとは思いますが、)これも如何にかならないものかと思いました。個人的な感覚になりますが、抑揚なのか発声なのか...少々気持ち悪い歌い方だと感じました。

曲全体の音の雰囲気も好みでは無く、聴いている最中に余り長くは聴いていたくないと感じました。

見ると作詞、作曲、編曲が同じ人物になっています。作品(「エヴァンゲリオン」)に深く係わっている人だとするなら申し訣無いのですが、そうでは無い人なのでしょうか...曲の全体に亘って外注感が出てしまっているように感じられます...。そして、本当に外注であるならば、そこは作品に深く係わっている人を関わらせた方が良かったのでは無いかと思います。(作詞、作曲、編曲に当たって、そう言った人の助言や手助けがあったと言う事も考えられますが...。何にしても、これで良いと思ったから作品の曲として使ったのだと思われますし、やはり、その辺りは姫とでは感覚的な差があるのだろうと思います。姫には「エヴァンゲリオン」の雰囲気に合っているようには思えませんので...。)

この「Beautiful World」は、きちんと作品に寄せて作ればもう少し何とかなったのでは無いかと思います。それだけに残念でなりません。(きちんと作品に寄せた結果がこれだとするなら、姫の思うところの「きちんと」と作り手の思うところの「きちんと」との間に差があると言う事なのだろうと思います...。)

アニメで使われる曲は、作品によってはその作品にそれほど寄せていなくても気にならない場合もあるのですが、姫の感覚では「エヴァンゲリオン」に関しては、如何やら、作品に寄せていないと気になってしまうようです。この「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」の曲でそう感じさせられました...。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」を見終わって気になった点

―― 繰り返される物語 ――

ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」は全体的にはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」の第壱話「使徒、襲来」から第六話「決戦、第3進東京市」までを纏めた内容になっていると言えますが、その中には「TV」とは異なる部分が色々と見られました。そして、その内の幾つかは、この新劇場版「」が「TV」-新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」の続きでは無いかと思わせるもの()、「TV」-旧劇場版「Air/まごころを、君に」での経験を持って最初へと戻って繰り返されている物語ではでは無いかと思わせるものとなっていました。

(「海が赤く染まっている」、「巨人に何かを取り出したような傷跡がある」、「渚カヲルが既に碇シンジの事を知っている」などがそれに当たります。特に、「赤く染まった海の海岸」を冒頭に持って来た事は、これから始まる物語が新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」の続きなのでは無いかと言う事を強く思わせるものでしたし、最後に渚カヲルが碇シンジの事を知っているかのような台詞で終わった辺りは、視聴者が抱いた推測でしか無いものを確信へと変えさせようとしているのでは無いかと思わせるものでした。勿論、そう思わせておいて実はそうでは無かったと言う裏をかくための仕掛けと言う事もありそうですが...。)

また、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」で加えられた変化の中には、この先、別の展開へと進むのでは無いかと思わせる要素も見られます。TV版「新世紀エヴァンゲリオン」の単なる繰り返しなどでは無く、繰り返しの中に別の未来の可能性を含んだ物語、最後に別の結末を迎える事も有り得る物語になっていると言う事も十分に考えられるところです。

姫にはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」-新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」の物語は碇シンジが希望と絶望を繰り返しながら最後には大きな絶望の果てに小さな希望を見つけると言う物語であったように感じられたのですが、この「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」が、もし、上記の推測の通り、「TV」-旧劇場版「Air/まごころを、君に」を経ての物語、即ち、繰り返しの末に一つの終わりへと辿り着いた物語を経て、再び最初から繰り返されている物語だとするなら、これは、「繰り返しの物語の繰り返し」と言う事になりそうです...。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」が本当にTV版「新世紀エヴァンゲリオン」-新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」を経ての世界だったとして、渚カヲルはその世界の内にいながら世界を覆っている仕掛けを知っていそうですし、他にもそう言った者がいるとするなら、続編ではそう言った者達によってそれが明かされると言う展開もあるかも知れません。また、世界の仕掛けを知らない者が、世界の中にいながらそれを知る事が出来る「何か」がきちんと用意されていて、それによって世界の内でそれが明らかになると言う展開や、舞台の外の人間には舞台全体を覆っている仕掛けをはっきりと、或はそれと無く見えるように物語内で何らかの形で示しておき、舞台内の(狂言回し的な位置の人間以外の)人間にはそれを見せない形で物語を進めて行くと言った展開もあるかも知れません。(思い付いたものをただ書き並べていると言う事は...全く分からないと言う事です...。)

一方、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」がTV版「新世紀エヴァンゲリオン」-新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」を経てのやり直しの世界、繰り返しの世界の物語だったとしても、それを明かさないで進む、明かさないで終わると言う事も十分にあるのでは無いかと思います。例えば、それが、物語内で触れる必要の無い事(物語内の登場人物が知る必要の無い事)、或いは展開の上で触れない方が望ましい事(物語内の登場人物が知らない方が望ましい事)であり、外から見ている人間(視聴者)がそれと無く気が付けば良いだけの事であるとするなら、続編でも物語内で登場人物が知るような形で内外にそれをはっきりと明かすような展開は無いものと思われます。また、舞台を覆っている仕掛けを外の人間にもはっきりとは見せないようにする事で解釈の幅を残し、あれこれと推測させる事で興味を持たせ、楽しませようとするのなら、物語外の人間だけがそれをはっきりと知る事が出来るような展開も無いものと思われます。この辺りは続編を見ないと何とも言えないところです...。

色々と書きましたが、一言で言えば、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」が本当にTV版「新世紀エヴァンゲリオン」-新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」を経ての世界だったとして、現段階では、今後、それが明かされる展開も、明かされない展開もどちらも考えられる、そして、明かされるとするならどう言う形になるのか、明かされないとするならどう言う理由からなのか、それらも色々と考えられるところであり、どうなるかは全く分からないと言う事です...。

勿論、「新劇場版」がTV版「新世紀エヴァンゲリオン」-新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」を経てのやり直しの世界の物語、繰り返しの世界の物語などでは無く、単に「TV」とは少し違うだけの世界、似ているだけの別の世界を描いた物語と言う事も十分に考えられます。その場合、「TV」と比べて「少し違う」部分に就いては、「TV」-旧劇場版「Air/まごころを、君に」の影響によるものでは無く、「新劇場版」の「世界」では「元からそうなっている」だけと言う事になるかと思います。(例えば、赤色の水が地球全体に亘っているのは、「TV」-旧劇場版「Air/まごころを、君に」のサードインパクトの影響を受けてのものでは無く、「新劇場版」の「世界」でのセカンドインパクトが「TV」でのそれよりも広範囲に亘って海水を赤く染めただけなのかも知れませんし...渚カヲルが言った「また三番目とはね。変わらないなぁ、君は。逢える時が楽しみだよ、碇シンジ君」の台詞も、渚カヲルがどちらの世界においても同一個体として(二体が同時にか、別々にか、一体が移動してかして)存在している人物、或は「TV」の世界の記憶を持っている人物であり、「こちらの世界でもまた三番目とはね」、「こちらの世界でも変わらないなぁ、君は」、「こちらの世界でも逢える時が楽しみだよ」と言う意味で言っているのかも知れません...。)その辺りの事がはっきりするにしてもしないにしても、取り敢えずは続編待ちだと言えます...。

―― 碇ゲンドウのシナリオによる人類補完計画 ――

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」-新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」では、碇ゲンドウは、「アダムの幼態」を自身の右掌に取り込み、それとリリスとを使って「アダムとリリスとの禁じられた融合」による人類補完を行おうとしていましたが、「新劇場版」では、(「月の巨人」が「アダム」であるならば、)「アダム」が月にあって、巨人のままである事から、「TV」-旧劇場版「Air/まごころを、君に」での方法による人類補完は極めて難しいものと思われます。また、「TV」-旧劇場版「Air/まごころを、君に」では、綾波レイの心が碇シンジへと向かうようになった事が碇ゲンドウからの綾波レイの離反を生み、それが碇ゲンドウのシナリオによる人類補完計画を破綻させていましたが、「新劇場版」では、その「TV」-旧劇場版「Air/まごころを、君に」での人類補完計画の破綻に繫がった「綾波レイと碇シンジとの接近」を警戒するどころか、人類補完計画を進めるための要素としてシナリオに組み込んでいるようでした。それらの事(「TV」-旧劇場版「Air/まごころを、君に」と同じ方法による人類補完が難しいと思われる事、「TV」-旧劇場版「Air/まごころを、君に」とは異なるシナリオになっていると思われる事)から言えば、「新劇場版」では、碇ゲンドウが「アダムとリリスとの禁じられた融合」以外の形での人類補完を目指していると言う事も大いに考えられるかと思います。

ただ、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」の段階でははっきりしている事が殆ど無いため、この辺りは様々な可能性が残っているところでもあります。例えば、月の「アダム」を如何にかして「アダムとリリスとの禁じられた融合」を目指すと言う事や、或は、月の「アダム」を使わない別の道(があるとして、それ)を進んで「アダムとリリスとの禁じられた融合」を目指すと言う事も無いとは言い切れません。TV版「新世紀エヴァンゲリオン」-新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」でのシナリオ破綻の原因となった「綾波レイと碇シンジとの接近」をシナリオの内に取り込んだのも、(「アダムとリリスとの禁じられた融合」以外での人類補完を目指すためと言う以外にも、)「アダム」を如何にかして「アダムとリリスとの禁じられた融合」を目指すためや、「アダム」を使わずに「アダムとリリスとの禁じられた融合」を目指す(道があるのであれば、その)ためと言う事も考えられます。

結局、「新劇場版」での碇ゲンドウのシナリオによる人類補完計画が、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」-新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」で目指した結末と異なる結末を目指しているものなのか、同じ結末を(状況的には難しいように思えますが、それでもそれを)目指しているものなのかは、続編を見ない事には踏み込んだ事は何も言えないと言えます...。「新劇場版」でのシナリオが「TV」-旧劇場版「Air/まごころを、君に」とは異なるシナリオ(「綾波レイと碇シンジとの接近」を警戒する必要が無く、それを組み込んでも問題が無いシナリオ、或は、それを必要とするシナリオ)である事は間違いさそうですが...。それ以外に就いて判断するのは未だ早いようです。

―― セカンドインパクトとアダム ――

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」でのセカンドインパクト(南極で起こった大爆発)は、他の使徒が目覚める前に「アダム」を卵へと還元する事によって被害を最小限に抑えるために(一部の人間によって仕組まれ、人為的に)起こされたものでした。その爆発の中心であった「アダム」は、十五年後の世界では幼態となって登場しています。

それに対し、「新劇場版」では、セカンドインパクトがどのようなものであったのかは、この「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」の段階では描かれていません。また、「新劇場版」での「月の巨人」が「アダム」であるとするなら、十五年後の世界では、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」とは異なり、「アダム」は巨人の状態であり、それも月に在ると言う事になります。

その事から考えると、「新劇場版」では、セカンドインパクトそのものがTV版「新世紀エヴァンゲリオン」とは異なるものになっているか、或は、セカンドインパクトの目的や起こし方は変わらずとも、その後の展開が「TV」とは異なるものになっているかするのかも知れません。

これは、もし、前者であるならば、「新劇場版」では「アダム」は最初から月に存在していて、セカンドインパクト時には南極大陸(爆心地)に居なかったと言う可能性も出て来ます。但し、そうなると、「アダム」が無い状況で何のためにそれを起こしたのか、「アダム」を使わずにどのようにそれを起こしたのかが疑問として残ります。(例えば、「新劇場版」には「使徒が目覚める前に被害を最小限に抑える」ための手段として「アダムを卵へと還元する」以外の何らかの手段(大爆発を伴う)があって、それを行った事による大爆発がセカンドインパクトであったと言うような事も考えられなくはありませんが...そう言った事は、それを想像出来る余地があると言うだけであり、確かな判断材料は今のところは見当たらず、推測は出来ない状況だと言えます...。)

また、後者であるならば、セカンドインパクトが同じ目的で同じように起こされた後、何があって「アダム」が月に巨人の状態で在るようになったのかが疑問となります。(これも、例えば、卵となった「アダム」を、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」とは異なり、何処かで如何にかして月へと運び()、巨人にまで成長させたと言うような事も考えられますが...やはり、想像以上のものにはなりません。また、もし、本当に何処かで如何にかして月に運んだのだとしても、何故そうする必要があったのかに不可解さが残ります。)

(「アダム」が月に在る事に対し、ここでは月に運んだものと決めてしまっていますが、これはそうでは無い可能性もあるかと思います。月には赤い色の跡が見られますが、「アダム」がその下に埋まっていたようにも見えるのが気になります。それが血であるなら、(TV版「新世紀エヴァンゲリオン」-新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」でリリス(アダムを取り込んでいた)から噴き出した血か、「新劇場版」での何処かでアダムの血が付着するような事があって、それによって付着した血かは分かりませんが...)もしかすると、その血から「アダム」が再生したと言うような(摩訶不思議な)事もあるかも知れません...。(その場合、「アダム」を月に運んだのでは無く、「アダム」を月で発見したと言う事になり、月に「アダム」が在る理由は特に無いものとなりそうです。))

何にしても、「月の巨人」が「アダム」であるならば、セカンドインパクトそのものか、その後に起こった事かにTV版「新世紀エヴァンゲリオン」との差異があるのは間違い無いように思います。そして、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」ではセカンドインパクトに関して明らかになっている部分が殆ど無いため、どのように違っているのかまでは今の段階では分かりませんが、それは、恐らく、続編で明らかになって行くものと思われます。(そうであって欲しいところです。)これも様々な可能性があるところであり、続編での楽しみの一つです。

―― 使徒の体液 ――

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」と「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」とで使徒の体液(血?)の色を比較すると、「TV」ではサキエル(第3使徒)が青色、シャムシエル(第4使徒)とラミエル(第5使徒)とが不明であったのに対し、新劇場版「」では第4使徒サキエル、第5使徒シャムシエル、第6使徒ラミエルの三体ともが赤色となっています。これは、少なくともサキエルに関して言えば新劇場版「」になって体液の色が変わったと言う事になります。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」になって使徒の体液が赤色に変わった事の理由は分かりませんが、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では「使徒の体液」がシャムシエル(第4使徒)からレリエル(第12使徒)までのどこかで赤色へと変わっているようであり()、もし、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」が「TV」から続く世界だとするなら、これは、その変化を引き継いでいると言う事なのかも知れません。

(TV版「新世紀エヴァンゲリオン」での「使徒の体液」の色は、サキエル(第3使徒)が青色、続くシャムシエル(第4使徒)からイロウル(第11使徒)までは不明、それ以降は、アラエル(第15使徒)が不明である以外は、レリエル(第12使徒)、バルディエル(第13使徒)(※※)、ゼルエル(第14使徒)、アルミサエル(第16使徒)、渚カヲル(第17使徒)(※※※)と赤色になっています。サキエル(第3使徒)が青色であり、その後、不明が続くものの、レリエル(第12使徒)からは、不明であるアラエル(第15使徒)を除き、最後まで赤色が続いていると言う事になります。これは、使徒が人に興味を持ち、その進化の中で最後は人の姿へと行き着いた事、それらの事から考えると、「使徒の体液」は元々は青色であったが、その進化の中で(具体的にはシャムシエル(第2使徒)からレリエル(第12使徒)までのどこかで(※※※※))青色から「人と同じ赤色」へと変化したと言う事も考えられそうです(※※※※※)。)

(※※第13使徒バルディエルは、その身体はエヴァンゲリオン四号機であり、これは、バルディエルの体液が赤いのでは無く、エヴァンゲリオン四号機の体液が赤かっただけと言う事も考えられます。また、バルディエルに乗っ取られる前のエヴァンゲリオン四号機の体液の色は分かりませんが、実はそれが青色であり、バルディエルに乗っ取られた事により赤色へと変化したと言う事もあるかも知れません。本当のところは分かりませんが、「バルディエルに乗っ取られた後のエヴァンゲリオン四号機の体液」が赤色である事は確かです。)

(※※※渚カヲルの体液の色を直接的に確認出来る場面はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」の中には無いのですが、渚カヲルを圧殺した後のエヴァンゲリオン初号機を洗浄する場面を見ると、その右手(渚カヲルを圧殺した手)に赤色の液体が付着しているのが確認出来ます。この事から渚カヲルの体液は赤色だったものと思われます。)

(※※※※シャムシエル(第4使徒)からイロウル(第11使徒)までの「体液の色が分からない使徒」に関しては、最初に出現したサキエル(第3使徒)が青色の体液だった事と、使徒の固有波形パターン「BLOOD TYPE」が「BLUE」である事とから、最初はこれらの使徒も、(レリエル(第12使徒)の赤色の体液を見るまでは、)当然、サキエルと同じ青色の体液だろうと思っていたのですが、レリエル(第12使徒)以降の使徒を見ると、アラエル(第15使徒)が不明である以外は、どの使徒も赤色の体液である事から、そうでは無い事も十分に考えられるようになりました。そして、もし、使徒が進化の中でその体液を青色から赤色へと変化させたのだとするなら、それは、青色だとは限らないシャムシエル(第4使徒)からイロウル(第11使徒)までのどこか、或いは赤色が始めて確認されたレリエル(第12使徒)からと言う事になるかと思います。)

(※※※※※勿論、体液の色が不明であるシャムシエル(第2使徒)からイロウル(第11使徒)までの使徒に青色と赤色とが混在してる事も考えられますし、赤色の体液が確認されて以降、唯一、その色が不明であるアラエル(第15使徒)が赤色の体液では無く青色の体液を持っていると言う事も考えられます。その場合、「使徒の体液」が進化の中で青色から赤色へと変わったとは、少々、言い難くなります...。(すんなりと赤色へと変わったのでは無く、青色と赤色とを行き来しながら赤色に行き着いたと言う考えも残りますが...。)しかし、使徒が人に興味を持ち、最後は人の姿へと行き着いた事を考えると、はやり、人の姿に至る進化の過程で体液の色の変化が起こった(シャムシエル(第4使徒)からレリエル(第12使徒)までのどこかで、すんなりか、徐々にか、行き来しながらかして、最後には赤色へと至った)のだろうと考えたいところです。(自分が気が付いた事が意味のあるものであって欲しいと願い、その願望に沿って上手く仕上げる事によって自己満足を得ようとする姫のような解釈者にとってはそう考えたいところだと言うだけの話であり、真面な解釈とは言い難くあるのですが...。))

また、他の可能性としては...TV版「新世紀エヴァンゲリオン」の世界では使徒の始祖は「アダム」であったのに対し、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」の世界では実は使徒の始祖が「アダム」以外の巨人になっていて、その違いによって使徒の体液の色が異なっている...と言う事も考えられます。

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では「リリス」の体液の色は赤色、「アダム」の体液の色は不明でした。しかし、使徒の体液が、最初(サキエルの時点で)、青色であった事や、「アダム」から作られた事が分かっているエヴァンゲリオン二号機の体液が青色(と赤色(※※※※※※)と)であった事からすると、「アダム」の体液は青色であったと言う事も十分に考えられるところです(※※※※※※※)。そして、仮に「TV」での「アダム」の体液の色が青色であり、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」でその色に変化が無いとするなら、新劇場版「」での使徒は「アダム」を始祖とした生命体では無く、「別の赤色の体液を持った巨人」を始祖とした生命体であって、そのために体液が赤色になっていると言う事も考えられるところです。

(※※※※※※TV版「新世紀エヴァンゲリオン」ではエヴァンゲリオン二号機(アダムの複製体)の体液の色は青色でした。(因みに、エヴァンゲリオン零号機(アダムの複製体とされているが、リリスの可能性も十分に考えられる)の体液の色は赤色、エヴァンゲリオン初号機(リリスの複製体)の体液の色は赤色となっています。)但し、劇場版エヴァンゲリオン旧劇場版「Air/まごころを、君に」では青色の体液が確認出来た後に赤色の体液も確認出来ます。これは、外側の体液が青色で、より内側、内臓の体液が赤色のようにも見えますが、はっきりとした事は言えないところです...。)

(※※※※※※※「アダムの複製体」であると思われるものには量産型エヴァンゲリオンもありますが、ここでは考察のための材料に入れていません。量産型エヴァンゲリオンは、エヴァンゲリオン二号機とは異なり、体液が赤色となっています。そのため、実際には、エヴァンゲリオンには「アダム」を元にしながら青色の体液を持つものと、赤色の体液を持つものとがあると言う事になります。しかし、量産型エヴァンゲリオンは「アダムの複製体」でありながら「アダム」を探る材料として使うには「アダム」から掛け離れてしまっているように思います。(他のエヴァンゲリオンと比べると姿が大きく異なり、明らかに異質であると言え、単純にアダムの複製を試みた「複製体」などでは無く、それよりも更に人によって色々と手を加えられているものであるように見えます。そして、そこには体液を変化させるための操作、或は結果的に体液に変化が生じる事になった操作があったと言う事も考えられます。オリジナルから掛け離れたその姿、変化の大きさを見ると、そのような事があっても可笑しくは無いように思います。)即ち、「アダム」を探る材料としては適当では無いのでは無いかと言う事です。そのため、ここではそれを含めずに解釈を進めました。(本当のところを言えば、姫が付けたがっている解釈のためには邪魔になるので、それらしい理由を付けて除外しただけなのですが...。「アダム」を元にし、体液が赤色の機体と青色の機体とがあったのでは姫の付けたい解釈が上手く付きませんので...。こうなってしまうと解釈者の快楽のために作品があるようなものです...。))

そうでは無く、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」での「アダム」の体液が赤色であるなら、(TV版「新世紀エヴァンゲリオン」での「アダム」の体液の色が不明であるため、それが「TV」から変わってそうなったのか、そのままでそうなのかは分かりませんが、どちらにしても、赤色であるなら、)新劇場版「」の使徒も「アダム」を始祖としていると言う可能性は残るかと思います。何れにしても、「TV」、新劇場版「」ともに「アダム」の体液の色は不明なので、この辺りは全て仮定を基にした推測でしか無いと言えます...。「新劇場版」に関しては、今後、「アダム」の体液を確認出来る機会があるかも知れませんので、それに期待したいところです。

上記本文及び注釈でも触れていますが、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では青色の体液を持った使徒、赤色の体液を持った使徒、体液の色が確認出来ない使徒がいました。そして、サキエル(第3使徒)、シャムシエル(第4使徒)、ラミエル(第5使徒)に関しては、サキエルの体液は青色、シャムシエルの体液の色とラミエルの体液の色とは不明となっていました。それに対し、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」ではサキエル(第4使徒)、シャムシエル(第5使徒)、ラミエル(第6使徒)の三体ともが赤色の体液となっています。少なくともサキエルに関しては体液の色が変わった事になります。原因に就いて考えられそうな事は上述で既に示しましたが、この事に関してはもう一つ気になる事があります。それは、その違いが今後の展開にどう言った影響を及ぼすのかと言う事です...。以下ではそれに就いて触れて行こうと思うのですが、先ずは「TV」での「使徒の体液」に関する考察(前述と重なる部分もあり、少し長くなりますが...)を纏めてから本題に入って行きたいと思います。

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」ではサキエル(第3使徒)で青色の体液が確認出来た後、シャムシエル(第4使徒)からイロウル(第11使徒)までは体液を確認出来ず、不明が続くのですが、最初に登場した使徒(サキエル)が青色の体液であったと言う事と、使徒を識別する波長パターン「BLOOD TYPE」が「青」だと言う事とから、初見時には、中盤に入り、赤色の体液を持つレリエル(第12使徒)が出て来るまでは、それらの体液が不明な使徒に就いても、当然、サキエルと同じ青色の体液を持っているものと見做していました。即ち、使徒はどれも青色の体液だと物語の中盤まで勝手に思い込んでいたと言う事になります。そして、その時点では、使徒が青色の体液を持っているのは...使徒が人類の敵であり、人類とは掛け離れた存在、理解し合う事が決して無い存在である事、それを分かり易く示しているのでは無いか...と思っていました。その後、レリエル(第12使徒)の体液が赤色だった事から、体液が不明だった使徒に関しても青色の体液だとは限らないと言う事が分かります。そして、レリエル(第12使徒)以降の使徒では、体液を確認出来ずに終わったアラエル(第15使徒)を除き、どれも赤色の体液になっていた事と、人間に関心を持つ使徒(人間を飲み込み、その内へと取り込んだレリエル(第12使徒)、人間の心に興味を持ち、それを探ったアラエル(第15使徒)、人間との融合を試み、人間が持つ心に触れたアルミサエル(第16使徒))が出て来て、最後には人の姿へと行き着いた(人間と同一の姿で人間として人間との接触を行った渚カヲル(第17使徒))と言う事とから、「使徒の体液」に関しては、シャムシエル(第4使徒)からレリエル(第12使徒)までの間に使徒本来の体液の色である青色から人の血の色である赤色へと変わったのだろうと言う一応の解釈(「使徒の体液」は青色だろうと勝手に思い込んでいた立場からの推測によるものです。それも、そう言う可能性があるのでは無いかと言う程度のものです...)を付けるに至りました。ここは判断材料となるべきものに不明な点が多く、当然、他にも色々と考えられるところだと言えます(※※※※※※※※)。しかし、もし、そうだするなら、それは使徒が人(赤色の体液を持つ)に近づいた証であり、理解し合えない存在から分かり合える未来も有り得る存在へと変わったと言う事を示していた...と言う事も考えられるようになって来ます。では、使徒の体液が人と同じ赤色になり、姿が人と同じ形になったところで人と使徒とが分かり合えたのかと言うと...結局、それでも分かり合えずに終わっていたのですが...。人と使徒とは、体液が人と同じ赤色になろうが、姿が人の同じ形になろうが、そう言った事に関係無く、分かり合える事など無い...それを見せるための体液(及び姿形)の変化だったのかも知れない...「TV」を見る限りではそう思いました。...と、ここまでが「TV」での考察になります。

(※※※※※※※※例えば、「アダム」を含めた使徒の「体液」は基本的には赤色であり、サキエル(第3使徒)だけが特殊だったと言う事も考えられますし(体液が青色だと確認出来るのはサキエルだけであり、サキエル以外の使徒で体液を確認出来る使徒は全て赤色の体液となっています)、「アダム」の体液の色に関係無く、使徒には青色の体液を持つ使徒と赤色の体液を持つ使徒とが混在していて、最初に確認出来たのがたまたま青色の生命体であり、後半になって確認出来たのがたまたま赤色の生命体だけだったと言う事も考えられます。また、単に、作り手が最初は意識して青色にしていたものが、途中でそれを忘れ、後半、赤色にしてしまった...と言ったと言う事も考えられます...。これは、何でも意味のあるものとして捉えようとする解釈者にとっては解釈者泣かせだと言え、あって欲しく無いところです...。)

そして、ここからが本題です。「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」とは異なり、最初に出現するサキエルからして体液(血?)の色が赤色になっています。もし、「TV」でのサキエルの体液が青かった理由が「アダム」の体液が青色であった事によるものであり(※※※※※※※※※)、「新劇場版」の使徒も「TV」と同じく「アダム」を祖とし、その「アダム」の体液が青色だったとするなら、「新劇場版」でのサキエルの体液も青色になるのが適当では無かったかと思います。それが赤色になっていると言う事は、「新劇場版」の世界では「アダム」の体液が赤色なのか、それとも、「アダム」では無い「赤い体液を持った別の巨人」が祖となったのか...そう言った変化があったのかも知れません。また、「新劇場版」の世界が「TV」から続く世界だとするなら、「TV」での変化が引き継がれての事と言う事も考えられそうです。

(※※※※※※※※※TV」では使徒の祖である「アダム」はその体液の色は不明でした。サキエル(第3使徒)の体液が青色であった事から言えば「アダム」も「青色」だったのでは無いかと思われます。しかし、これは他にも色々と考えられるところです...。)

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では徒の体液が青色から赤色へと変化したのを見て、「人と使徒とが分かり合える可能性、人と使徒とが共存、共生、共栄する事が出来る未来」も出て来たと言う事では無いかと...勝手にそう捉えていたのですが、その捉え方が正しいか如何かは別にして(「TV」では、結局、人と使徒とが分かり合える未来は実現せずに終わったため、使徒が人と同じ色の体液を持ち、人と分かり合える未来も出て来たがそれには至らなかったのか、それとも、何の意味も無く単に赤色になっていただけなのか、判断の付かないところです)、それをそのまま当て嵌めるなら、使徒が最初から赤色の体液になっている「新劇場版」では最初からその可能性がある世界になっていると言う事になります。(しかし、使徒の体液に関しては姫がありもしないものを勝手に感じていたに過ぎないと言う事も十分に有り得ます。そして、それは「新劇場版」にも言える事です。意味も無く単に赤色をしているだけなのかも知れません...。)また、赤色の体液が人と使徒との共存、共生、共栄の可能性を表すものであるとして、「新劇場版」が「TV」から続く世界であるとするなら、「新劇場版」では「TV」で実現せずに終わった「使徒と分かり合える可能性」が潰えずにまだ続いていると考えられます。そうでは無く、「新劇場版」が「TV」から続く世界では無い、「TV」の影響を受けていない世界であるとするなら、「TV」とは関係無く、元々、そう言った可能性がある世界だと言う事になります。どちらにしても、赤色の体液が人と使徒との共存、共生、共栄の可能性を表すものであるなら、今後、進む方向によっては使徒と分かり合える未来もあるのかも知れません。(「TV」では解釈上はその可能性があると考えていましたが、展開としては突飛であると言え、実際にそのようになる事は無いだろうと思っていました。「新劇場版」でも解釈上での可能性はあると言うだけで、恐らく、そのような展開は無いものと思います...。)何にしても続編待ちと言えるところです。

―― 不明の第3使徒 ――

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」ではサキエルが第3使徒でしたが、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」ではサキエルは第4使徒となっていて、「第3使徒」は不明となっています。

この不明となっている「第3使徒」は、それが何であるかに就いて分かっている事は何も無く、「分からない」以上の事は分からないと言えます。そのため、それが何であるかは色々と考えられるところです(分からないのを良い事に何でも言えるところだとも言えます...)。例えば、思い付くところで言えば、第4使徒サキエルの前に通常の使徒が置かれていると言った事や、「アダム(第1使徒)」、「リリス(第2使徒)」に続く「三体目の巨人()」がいて、それが「第3使徒」であると言った事や、碇シンジが「第3使徒」になっている(※※)と言った事が考えらます。勿論、これらには何の根拠も無く、可能性として無いとは言えないと言う程度のものですが...。この辺も続編待ちとなるところです。

(もし、「第三の巨人」がいるとするなら、まだ登場していないと言う事の他に、アダムと思われる「月の巨人」が実は「三体目の巨人」だったと言う事や、「リリス」と呼んでいる「セントラルドグマの巨人」に偽装があって、それが「三体目の巨人」であると言う事もあるかも知れません。また、同じく「第三の巨人」がいるとするなら、使徒、エヴァ、人類の何れかの始祖が、或いは全ての始祖が「三体目の巨人」になっていると言う事もあるかも知れません...。(可能性として残しておきたいと言う事で書きました。到底、当たっているとは思えない話ですが...。分からない事が多いと言う事はそれだけ想像出来る事に幅があると言う事であり、その幅の中を使っています...。))

(※※もし、碇シンジが「第3使徒」だったとするなら、渚カヲルが碇シンジに就いて言った「また三番目とはね」は、適格者としても使徒としても「三番目」と言う意味での言葉だったと言う事になるのだろうと思います。その場合、その後に言った「変わらないなぁ、君は」は、「また三番目とはね」に掛かっている言葉では無く、過去と比較した今の碇シンジの行動や状態や位置に就いて言っている事になるのだろうと思います。(「変わらないなぁ、君は」が「また三番目とはね」に掛かるとなると、全体として「同様の事で三番目」と言う事を言っている感が強くなり、「また三番目」が「適格者」としても「使徒」としても「三番目」と言う意味で言っているとは捉え難くなります。)

―― 他者の心に触れて変わる碇シンジの心 ――

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」-新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」では、碇シンジは、大雑把に言えば、自分が助かりたがっていただけであり、それも他人に助けられたがっていた(受け入れられたがっていた)だけなのですが、世界はそう都合の良いように出来ては無く、結局、碇シンジが世界で生きて行くためには(世界は碇シンジに優しくする必要など無いので、当然、)碇シンジ自身の力で自分が変わる必要(都合の良さを求める事を捨て、現実と向かい合い、現実を生きる覚悟、自分の足で立って世界の中で戦って行く覚悟を持つ必要)がありました。そして、碇シンジが世界(自-他)に対する期待と、それ故に生まれる絶望との狭間での行き来を繰り返しながら、(大いなる絶望に至り、世界(自-他)を拒絶し、世界を滅ぼした末に)それでも他者のいる世界を望み、そこで生きて行こうとする(僅かばかりの)覚悟を持つに至る、それまでのお話を描いたのが「TV」-旧劇場版「Air/まごころを、君に」だったと言えるかと思います。

それに対し、「新劇場版」では、碇シンジは「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」が終った段階で、既に、人と人との繫がりの中に自分がいる形を感じられるようになっているものと思われます。恐らく、自身の内に幾分かは「自分は一人では無い」と言う思いを抱けるようになっているのでは無いかと...。そして、そうであるなら、それはエヴァンゲリオンに乗る事によって得たもの...エヴァンゲリオンに乗り、他者の思いを受け入れ、他者のために戦った事によって得たものであると思われます。それは、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では、エヴァンゲリオンに乗る事によって仮初の家族が出来、友達が出来、それなりに楽しい日々を送ろうとも、強い見捨てられ感からか容易には得られなかったものなのですが、「新劇場版」では既にそれを得ていると言う事になります。また、「新劇場版」での碇シンジは自ら綾波レイに手を差し伸べている事から見て、自分から他人と関わろうとする意思が出て来ているようにも見えます。これも「自分は一人では無い」と言う思いが生まれた事によるものなのでは無いかと思います。

新劇場版」は、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」と比較すると、周囲の人間が碇シンジを頼り、励まし、信じるその思いがきちんと碇シンジに伝わるようになっていると言えます。それは、碇シンジに他者との心の繫がりを感じさせ、碇シンジに人と人との中にいる自分の姿を想像可能にさせるものであると言えます。その事から言えば、「新劇場版」の世界は碇シンジにとって他者を受け入れ易い世界、「自分は一人では無い」と思うに至り易い世界になっていると言えそうです。碇シンジが自力で自分を変えなくても、周囲の人間が碇シンジに変化を齎すように作用し、後は碇シンジがその思いを、他者を受け入れるかどうかと言う...碇シンジには(厳しくはありながらも)少し優しい世界になっているように思います。

碇シンジがこの段階でこう言った変化を見せたのは()、上でも触れたように、碇シンジにとって他者を受け入れ易い状況が用意されていると言う事があったからであるように思います。しかし、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」の碇シンジとTV版「新世紀エヴァンゲリオン」の碇シンジとの性質に差が無いとするのであれば、自分の思いばかりが強く、他者を受け入れる余裕など無かったあの碇シンジが、環境の差だけで他者の思いを受け入れ、人と人との中にいる自分を想像出来るようになり、更には自ら他者に関わろうとする意思を持つまでになるかと言うと、それは難しい事であるように思います。そのため、「新劇場版」での碇シンジは「TV」での碇シンジよりも、幾分、改善された心的状態(「TV」よりも、幾分、見捨てられ感の深刻度が低く、幾分、他者を受け入れ易い状態)になって世界に置かているのでは無いかと思います。

(これは、そもそも、姫が勝手に感じただけの勘違いと言う事も考えられるところですが、ここでは碇シンジにそのような変化があったと言う前提で話を進めています。)

もし、「新劇場版」の世界がTV版「新世紀エヴァンゲリオン」-新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」からの繰り返しの世界であり、「TV」で起こった事の影響を少なからず受けている世界であるとするのなら、「新劇場版」になって碇シンジが他者を受け入れ易い心的状態になっているのは、「TV」-旧劇場版「Air/まごころを、君に」を経験した事によるものかも知れません。一方、繰り返しの世界であっても、経験した事の影響を受けていないと言う事や、そもそも、繰り返しの世界では無いと言う事も考えられます。その場合、「新劇場版」の世界での碇シンジは「TV」の世界での碇シンジよりも、元々、見捨てられ感の深刻度が低くなっている(そのように変えられている)と言う事なのかも知れません。碇シンジの中にある見捨てられ感は、母親を失った後、父親に捨てられた事によって生じたものであると思われますが、その「父親に捨てられた」事と結び付いていると思われる映像が差し込まれる場面では、「新劇場版」になって新たに「DAT」の画が追加されていました。この事から、「新劇場版」と「TV」とでは碇シンジの過去の経験に差異があり、それが現在の碇シンジにまで影響し、心的状態の差異に繫がっている、即ち、「TV」よりも他者を受け入れる余裕が残された心的状態になっている...と言う事も考えられるところです。勿論、これらは当て推量の上に当て推量を重ねた全くの想像でしか無いのですが...。

碇シンジの心的状態の深刻さが、幾分、低いように思われる事(その分、他者を受け入れ易くなっているように思われる事)や、世界が碇シンジにとって少し優しい世界(他者が繫がりを(それはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」-新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」で碇シンジが欲していたと思われる「他者との確かな繫がり」とは異なるものではあるものの、それでも他者が繫がりを)碇シンジに対して示してくれる世界)になっていると感じられる事から、「新劇場版」では、「TV」とは異なり、必ずしも自分一人で立ち上がる必要があるとは言えない世界(自-他)になっているように感じられます(※※)。そこで碇シンジがどのように変わって行くのかとなると、これは、続編を見ない事には何とも言えないところなのですが...ただ、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では、碇シンジは他者に頼られ、その期待に応える(他者の思いを受け入れる)事によって、(心的状態の深刻さの低さが少なからず影響してか、)自分が人と人との繫がりの中にいると言う事を感じられるようになっているように見えましたし、その事から言えば、この先、それが切っ掛けとなって、(更に、そこでも心的状態の深刻さの低さが影響して、)例えば、他者に対して積極的に心が向かうようになったり、前向きに心が働くようになったりし、他者への自発的接触が増えて行くような事や、その中で、人と人との繫がりの中に居場所(他者に与えられる「自分が居て良い場所」では無く、「自分が居たいと思う場所」)を見付け、自分をそこに置く事に臆病にならない気持ちを持てるようになって行くような事もあるのでは無いかと思います。そして、そうなれば、自分で自分を立たせなくても、他者との関係の中に自分を築く事でアイデンティティーを得ると言う事もあるのでは無いかと思います(※※※※※※)。その可能性が大いにある世界になっているように見えます。(但し、自分自身の足で確りと立って、その上で他者との関係を築くのでは無く、他者との関係の中に身を置く事で自分が自分として立っていられると言う状態は、(そう言う個の築き方もあるかと思いますし、否定はしませが、)堅固な自身を築いたとは言えず、何かと脆そうに思います。世界が碇シンジに優しくあり続けるのであれば(少なくとも碇シンジを拒絶したり(※※※※※※※※)、裏切ったり(※※※※※※※※※)するような事が無ければ)、そう言う自身の築き方でも構わないのかも知れませんが...世界が何時までもそのようにあるとは限りませんし、それを考えると、他者との関係の中にしか自分を見る事が出来なくなってしまわないように、やはり、自身で自身を立てていられるようにならなければならないのでは無いかと思います。碇シンジには、その上で、或はそうなって行きながら、他者との関係の中で生きて行って欲しいものです。)

(※※TV版「新世紀エヴァンゲリオン」も世界そのものは、自分で自分を世界に立たせ、その足で生きて行こうとずとも、他者との関係の中に身を置き、他者との間に作られた自分を自分自身の形とする事で、或は他者から与えられた役柄を自分自身の形とする事で、(他者との関係の中で作られる自分は、通常、自分の一部でしかありませんが、そうでは無く、それが自分の全てであっても(即ち、自分の形と言えるものが他人との関係の中で作られたそれしか無い状態であっても)、その状態に疑問を持たず、また、強い不満も持たずにいられるのであれば、そして、その自分(他者(世界)との関係によって作られた自分、他者(世界)によって与えられた自分)が、(例えば、世界に裏切られるような事があって)消失してしまうような事が起こらなければ、)それなりに生きて行く生き方も可能な世界であったようには思います(碇シンジは世界から(強く無いにしても)エヴァンゲリオン初号機のパイロットとして必要とされ、それを熟す事によってエヴァンゲリオン初号機のパイロットとして世界に立つ事が出来る機会がありましたし、他者に与えられた役柄で世界に収まる事は出来たと思います)。ただ、他者から与えられた役柄によって自分の形を得ても、それは(碇シンジの増長を招くものにはなっても)碇シンジが本当に求めていたものでは無いように思われますし、碇シンジの性質を考えるとそれで(エヴァンゲリオンのパイロットとして存在価値を得ただけで)十分であると言う事にはならないのだろうと思います(※※※)。結局、碇シンジが世界で生きて行くためには、(勿論、ただ他者によって生かされようとするのでは無く、ただ他者によって救われようとするのでは無く、また、)他人との関係性の中で自分の形を得てそれを生きるだけでは無く(即ち、エヴァンゲリオンのパイロットとして自身の価値を得るか如何かとは関係無く)、碇シンジ自身が変わる必要があった、世界への係わり方を変える(「碇シンジ」として世界(他者との間)に立ち、世界(他者)を受け入れて生きて行こうとする)必要があったと言えます。その辺りは「新劇場版」も同じであるかと思います。ただ、「TV」は、「新劇場版」とは異なり、世界が碇シンジに対して優しく無く、碇シンジの心的状態も「新劇場版」より深刻さの度合いが大きい(※※※※)事から、先ずは碇シンジ自身がある程度の覚悟と共に意識的に自分を変えようとしなければ何も変わらない世界であったと言えます(「自分が変わらなければ何も変わらない世界」で自分で自分を変えようと思う切っ掛け、他者の存在を受け入れて生きて行こうと言うある程度の覚悟を持つ切っ掛けを得るのに「サードインパクト(世界(自-他)の死を望むほどの逃避)」まで必要とした世界です...)。それに対し、「新劇場版」は「TV」よりも碇シンジに対して、やや、優しい世界(碇シンジの心を改善に向かわせる要素が幾分かある(用意されている)世界)であるように見えますし、碇シンジの心的状態も深刻さの度合いが幾らか低い状態であるように見えます。「TV」では心的改善の糸口が見えない状態...環境には期待出来ず、自力で何とかするしか無い中でその自力が育っていないと言う八方塞がりとも言える状態でしたが、それとは異なり、こちらは心的改善の糸口がまだ残されている状態...改善に向かわせる外的影響が用意されていて、心的状態もそれを受けて改善が起こる事をまだ期待出来るのでは無いかと思える状態に見えました。この段階で他人のために戦うようになったのも(※※※※※)碇シンジの心が改善に向かうための外的要因、内的環境が幾らか増しである事があっての事のように思います。続編を観なければ何とも言えませんが、今のところ、自分自身が意識的に自分を変えようとせずとも他人との関係の中で変わって行く(他人が碇シンジを変えて行く、他人によって碇シンジが変わって行く)事もあり得る世界なのでは無いかと思います。)

(※※※自分で自分自身の形を作れない(作ろうともしない)、自分で自分自身の価値を見出せない碇シンジは、エヴァンゲリオンに乗る事(与えられた役割りに従う事)、エヴァンゲリオンのパイロットとして必要とされる事でしか世界(他者との間)にいる事が出来ない人間、エヴァンゲリオンのパイロットとして他者に認められ、褒められる事でしか(即ち、他者によって価値を与えられる事でしか)存在価値を実感出来ない人間だったと言えます。だからと言ってエヴァンゲリオンのパイロットとして認められ、そこで存在価値を得ればそれで良いかと言うと、そうでは無かったように思います。それ(エヴァンゲリオンのパイロットとして価値を得る、エヴァンゲリオンのパイロットとして認められ、受け入れられると言う事)は碇シンジにとっては失う事への不安、失う事によって自分が(再び)無価値になる事への恐怖が常に付き纏うものだと言えます。碇シンジが本当に求めていたもの(心の底で求めていたもの)はそう言った不安や恐怖が付き纏うものでは無かったと思います。碇シンジは自分が何か価値を示さずとも他者に「碇シンジ」として受け入れられたいと願っているところがあるように見えました。それも、他者に受け入れられたいと願いながらも、自身は他者を受け入れる事も無く、自分で自分の価値を作ろうとする事も無く、何もせずに一方的に他者に対して受け入れられたいと願っているだけのように見えました(他者の事など考えない、自分の都合しか無い、自分勝手な願望です...)。また、裏切られたり、失ったりする事を恐れていて、そう言ったものが無い確実なものを欲していたように見えました。(そう見えた通りであるならば、それは、母親(何もせずとも自分を愛してくれる存在)が無く(即ち、何もせずともただ与えられる愛が無く)、(父親があのようである事から)肉親との絆(他者との確実で変わらない繫がり)も無い中で育った事、あるべきものを失った中で育った事が大きく影響しているのだろうと思います。)結局、碇シンジが求めるそのようなものは世界(他者との間)には何処にも無く、(それは碇シンジも分かっていて、だから他人との接触に臆病になっていたのだと思いますが、それでもどこかでそう言ったものを期待していたところがあったのだろうと思います。しかし、それが無い世界ではそのような)自分勝手な思いを捨てて自分が変わるしか無かったと言えます...。)

(※※※※他者に受け入れられたがり、他者によって生かされようとしながらも、その一方で自身は他者を受け入れようとせず、他者の存在に怯え、他者を拒絶し、他者に優しくされたいと願いながらも、自身が他者の事を思う事は無く、他者に向ける優しさも持たず(稀に見せる「他者を傷付けたく無い、失いたく無い」と言う思いも、他者を思っての事と言うよりも、自分が傷付きたく無いと言う事の方が大きいように見えます)、自分の事ばかり考え、他者に勝手な期待を抱いてはそれが叶わなければ裏切られたと感じ、他者を自分の都合でしか見ず、他者を個として尊重しない、自分は他者を救わないが他者には救われたがっている、そのような自分勝手で厄介窮まる性質であり、しかも、それが簡単には解れそうも無い、改善への道が行き詰っているとも言える状態だったと言えます。)

(※※※※※TV版「新世紀エヴァンゲリオン」での碇シンジがエヴァンゲリオン初号機に乗る理由は主に自分のためであったように思います(他者との繫がり、他者との間の自分の居場所、(自分で作るのでは無く、他者によって与えられる)自身の存在価値などが得られる事をどこかで期待しながら(それでいながら、他者のために戦う事は無く、自分のために)乗っている状態であったように見えます)。)

(※※※※※※TV版「新世紀エヴァンゲリオン」での碇シンジは、エヴァンゲリオンに乗って結果を出し、他者に褒められ、他者に認められ、そうやって他者によって(自分では作れない、恐らく、自分で作ろうとも思わず、漠然と他人から与えられたいと願っていた)自分の存在価値が作られた事によって、他者との関係の中に自分の置き場所を感じ、それまで希薄だったアイデンティティーを実感するようになった時期がありましたが、しかし、そこではエヴァンゲリオンのパイロットとして存在価値を得た途端に容易に増長に至っていました。(「TV」での碇シンジは他者の思いを背負って他者のために戦うような事や、他者の事を思い他者に優しくなるような事が無く(※※※※※※※)、エヴァンゲリオンに乗るのは自分の都合でしか無かったため、そこで得た存在価値で容易に増長してしまったように思います。何処かの時点で他者のために戦うようになっていたのなら、他者のためにエヴァンゲリオンに乗るようになっていたのなら増長する事も無かったのかも知れません。「新劇場版」よりも心的状態が深刻であるように思われる事から言えば、そうなれないのが「TV」での碇シンジであると言えるかも知れませんが...。)「新劇場版」でも、碇シンジの心的状態に違いはありますが、ただアイデンティティーを築けば良いと言うのでは無く、築き方が大切なのは同じだと思います。心的状態が幾らか増しだと言っても、アイデンティティーの築き方によっては悪い方向へと流れて行く事もあるかと思います。)

(※※※※※※※TV版「新世紀エヴァンゲリオン」での碇シンジは、他者のため(人類のため、誰かのため)に戦うのでは無く、自分の都合のために(自分が傷付きたく無い(捨てられたく無い、(エヴァンゲリオンに乗る事で得た、仮初かも知れない)居場所や仲間を失いたく無い)、自分の存在を認められたい(見てもらいたい、褒められたい)ために)戦う事(エヴァンゲリオンに乗る事)が大部分であったように思います。)

(※※※※※※※※碇シンジの事なので、世界が碇シンジを拒まなくても、碇シンジが勝手に疎外感を抱く事もあるかと思います。)

(※※※※※※※※※そもそも世界は碇シンジの味方では無いので「裏切る」と言う表現は適切では無いのですが...碇シンジの場合は世界に対して勝手な期待を抱く事によって、それが叶わなかった際に「裏切られた」と感じる事があるようなので(「新劇場版」での碇シンジがそうなのかはまだ分かりませんが、少なくとも、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」-新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」での碇シンジはそのように感じられるところがありました)、そう書いています。)

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」-新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」での碇シンジ...自分の都合で戦う事(や戦わない事)はあっても、他人ために戦う事、他人の思いを背負って(それを強く自覚して)戦うような事は無かった碇シンジ、他人に優しくされたい、孤独から救い出して欲しいと願っているだけで自分が意識的に他人に優しくする事や、意識的に他人を孤独から救おうとする事など無かった碇シンジが、「新劇場版」では、他人の思いに応えて戦い、他人に対して自発的に優しさを向け、救いの手を差し伸べるまでになっているのを見ると、(それが、世界の違い(世界が碇シンジに見せる姿の違い)によるものなのか、碇シンジの心的状態の差によるものなのか、或はその両方によるものなのか、いずれにしても、)碇シンジの中に「TV」には(特にこの段階では)無かった他者と向き合う覚悟や、他者を受け入れる覚悟、他者の思いを背負う覚悟が多少なりとも生まれたと言う事なのだろうと思います。(それが覚悟と言うほどのもので無いにしても、少なくとも自ら他者に係わろうとする意識は持つようになったのでは無いかと思われます。)他者との距離が縮まればそれだけ自分が他者に傷付けられる虞も出て来ます(特に碇シンジのような性質の人間の場合は自分勝手に傷付く虞も出て来るかと思います)。それは「TV」では碇シンジが強く恐れていたものであり、「新劇場版」での碇シンジもその事に対する恐怖は(程度は違うかも知れませんが)同様に心に抱いているものと思われます。しかし、そこに自ら近づいて行くようになったと言う事は、他者に対する心にそう言った変化(他者と向き合う覚悟や、他者を受け入れる覚悟、他者の思いを背負う覚悟の芽生え)があったのだろうと思います。

何にしても、碇シンジはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」-新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」よりも早く、そして、やや違う方向に心的成長が進んでいるように見えます。

―― 心の変化の連鎖 : 葛城ミサトの変化が及ぼした碇シンジの変化 ――

ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」での葛城ミサトは、碇シンジに対し、途中から(「ヤシマ作戦」から)「皆のためにエヴァンゲリオンに乗る事」を求めるようになっていました。TV版「新世紀エヴァンゲリオン」-新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」での葛城ミサトは、碇シンジに対し、常に「碇シンジ自身のためにエヴァンゲリオンに乗る事(碇シンジ自身のために戦う事)」を求めていたのですが、それと比べると、かなり早い段階で「TV」には無かった変化を見せたと言う事になります。

また、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」での葛城ミサトは、最初の方では碇シンジに対してTV版「新世紀エヴァンゲリオン」での接し方と余り変わりが無い接し方をしていましたが、最後の方では(「ヤシマ作戦」開始前には)、「TV」でのこの時期とは異なり、碇シンジに対して誠意を持った接し方をするようになっていました。「TV」-新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」での葛城ミサトが碇シンジに対して(相変わらず不器用ではありましたが)最大の誠意を見せたのは、「Air」での終盤、碇シンジをエヴァンゲリオン初号機へと送り出す際の事であり(そこでは碇シンジはその大きな絶望や退行のためかそれを受け入れずにいましたが...)、この新劇場版「」ではそれに近いものを「ヤシマ作戦」開始前と言う早い段階で見せている事になります(ここでの碇シンジは、大きな絶望も退行も無く、エヴァンゲリオンに乗るのが怖いと言うだけであったためか、(渋々ではあったと思いますが、)この説得を聞き入れていました)。

この葛城ミサトの変化により、碇シンジは「ヤシマ作戦」で他人のためにエヴァンゲリオン初号機に乗って戦う事になりますが、他人に頼まれ、期待され、他人のためにエヴァンゲリオン初号機に乗ったその事が、それまで希薄だった他者との繫がりを碇シンジに感じさせる事となり、更には戦いの後に綾波レイに対して自ら手を差し伸べると言った自ら他者に関わろうとする態度に繫がったのだろうと思います。碇シンジを変えるためには自分が変わる必要があると思って葛城ミサトが変わったのかどうかは分かりませんが、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」には無かった葛城ミサトの変化が、「TV」には無かった碇シンジの変化を生む切っ掛けとなったと言えるかと思います。

―― 心の変化の連鎖 : 碇シンジの変化は綾波レイに変化を及ぼすのか? ――

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」での碇シンジが、「ヤシマ作戦」後、エヴァンゲリオン零号機のエントリープラグ内で綾波レイに対して見せた態度は、自身の心情を相手に投影しての同情、自身が抱える悲しみの反映であるように感じられるところがありました。(姫が勝手にそう感じただけの事であり、本当のところは分かりませんが...。)しかし、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」の同場面での碇シンジの態度は、「TV」のそれよりも、綾波レイをきちんと他人として捉えた上で、少し前の自分と似た悲しみの中にいる者として同情していたように思います。(こちらも姫が勝手にそう感じただけの事になります...。)また、新劇場版「」での碇シンジは、「TV」とは異なり、綾波レイに対して手を差し伸べていましたが、これは、碇シンジ...他者の心に触れ、受け止めた事によって他者との繫がりを感じ、「自分は一人では無い」と思うに至った(と思われる)碇シンジ...が、今度は自らが他者との繫がりを綾波レイに示し、伝える事によって、自分がそれまで感じていた孤独の世界と同じところにいる綾波レイを、そこから、自分が今いると感じている場所、「人の輪」の中へと引き上げようとしている行動であるように見えます。他者との接触に臆病でありながら他者に優しくされたいと願い、他者に救いを求めるだけだった「TV」と比べると、「新劇場版」では、他者との繫がりを感じられるようになった上に、他者に対して自発的に接触するようにもなり、更には、孤独の内にいる者に対して他者との繫がりを与え、そこから他者を救おうとするようにまでなっていると言えます(姫の目にそう見えるだけかも知れませんが...)。それは「TV」には無かった意識の変化、成長であると言えます。「TV」とは異なり、幾らかは他者に対して優しくなれる人間、他者の事を思える人間になっているように見えました。

葛城ミサトが変わった事(碇シンジに自分の思いを聞き入れさせ、人々のために碇シンジをエヴァンゲリオン初号機に乗せた事)で碇シンジが変わった(他者の心を受け入れた事により自-他に対する認識が変わったと思われる)ように、碇シンジが変わった事によって綾波レイも変わるのか...碇シンジの心に触れ、それを受け入れた(碇シンジから差し伸べられた手を取った)事で心的変化を起こすのか、人と人との心の繫がりの輪の中へと身を置く事が出来るようになるのか...続編が気になるところです。

―― 心の変化の連鎖 : 人の心の変化で世界(物語の展開)は変わるのか? ――

葛城ミサト、碇シンジ、綾波レイの心的変化は(綾波レイが変わったか如何かは続編を見ないとはっきりとは分からないところですが、ここでは変わったものとして)、それが僅かなものであっても、その人間の今後の行動に変化を齎すものとなる事も十分に考えらるところであり、それが世界を変えて行くと言う事も十分に有り得るのでは無いかと思います。この先、個々の心的変化が更に進むような事や、個々の変化が周囲の人間を変化させて行くような事があれば、尚更、そうだと言えます。人の心の変化が、その変化が生んだ差が、今後、どうのように世界(物語の展開)に影響して行くのか、どのように世界を変えて行くのか、これも続編待ちとなりますが、非常に気になるところです。

特に碇シンジの心的変化、心的成長は、この「新世紀エヴァンゲリオン」が(次回予告のナレーションにもあるように)「碇シンジの物語」であり、その進む先が碇シンジの行動、選択に掛かっていると思われる事から言えば、今後の物語に変化を及ぼす大きな要素となり得るものだと言えるのでは無いかと思います。TV版「新世紀エヴァンゲリオン」には無かった心的変化、心的成長が、「TV」には無かった行動、選択を生み、それによって物語が「TV」とは異なる展開へと進んで行くと言う事も十分に考えられるところです。

また、綾波レイが碇シンジの心に触れた事によって心的変化を起こしたのだとすると、綾波レイにも世界を変化させる因子となる可能性が出て来るかと思います。綾波レイはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」では碇ゲンドウによる人類補完計画の鍵となっていましたので。(「新劇場版」でもそうであるか如何かは今の段階でははっきりとは分かっていませんが...。)

綾波レイは、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では「ヤシマ作戦」後にエントリープラグ内で碇シンジの姿に碇ゲンドウの姿を重ねていますが、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」ではそう言った事は無く、この早い段階で碇シンジを、碇ゲンドウの息子では無く、碇シンジとして見るようになっているものと思われます。もし、そうであるなら、碇シンジに対して「TV」よりも早く心的距離を縮めて行きそうですし、碇ゲンドウへの依存が解ける時期、碇ゲンドウからの離反の時期も「TV」よりも早くなりそうです。そうなるか如何かは今の段階では分かりませんが、もし、碇シンジに対して心的距離が早く縮まり、碇ゲンドウからの離反の時期が早まれば、碇ゲンドウの考える人類補完計画が破綻を迎えるのが早まる事と思われます()。そうなれば碇ゲンドウの行動も変わって来るかと思いますし、その行動の違いによる影響が物語を異なる展開に進めると言う事もありそうです。

(新劇場版」での碇ゲンドウは意図的に碇シンジと綾波レイとの距離を近づけようとしているようであり、その事から言えば、「新劇場版」では、綾波レイが碇ゲンドウへの依存状態から脱し、碇シンジに惹かれて行く事が碇ゲンドウの人類補完計画に最初から含まれていると言う事も考えられます。もし、そうであるなら、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では碇ゲンドウの人類補完計画の破綻に繫がっていた綾波レイと碇シンジとの接近が、「新劇場版」では碇ゲンドウの人類補完計画ために必要な要素に変わっていると言う事になります。綾波レイと碇シンジとの心的距離の接近が碇ゲンドウの予定通りの事態であっても、それはそれで物語の異なる展開がありそうです。)

碇シンジの行動の変化が綾波レイを変えた(と思われる)ように、この先、綾波レイの変化が碇シンジの行動(物語の変化を生む要因になり得る)に影響を与える事も考えられます。綾波レイの変化が世界にどのように影響して行くかも気になるところです。

(人の心が変わったところで、そのようなものでは抗う事の出来ない強い力が世界に働いていて、結局はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」と大差の無い展開が続く...と言う事も考えられますが...異なる展開に繫がる要素を組み込んだからには、そうであっては欲しく無いところです。)

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 破」の予告

エンディングの後に次回作である「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 破」の予告がありました。予告はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」と同じ形式になっていて、同じ曲に、同じく葛城ミサトによるナレーションを乗せたものとなっていました。

葛城ミサト :「出撃するエヴァ仮設5号機」

「EVA-05」の文字列が表示された後に、エヴァンゲリオン5号機と思しき機体が映し出されていました。

エヴァンゲリオン5号機は「仮設」となっているようであり、そのためか、他のエヴァンゲリオンとは大きく異なる形になっているように見えました。これはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」では見られなかった機体です。

葛城ミサト :「配属されるエヴァ弐号機とそのパイロット」

「EVA-02」の文字列が表示された後に上空から太陽を背に降下して来るエヴァンゲリオン弐号機と思しき機体が映し出されていました。

「そのパイロット」は同場面には出て来ていませんが、「新劇場版」になっての大きな変更、或は物語上の大きな変化が無ければ、これは惣流・アスカ・ラングレーの事となります。(予告を見るとTV版「新世紀エヴァンゲリオン」には見られなかった機体や人物が増えているようですし、そう言った中でエヴァンゲリオン弐号機のパイロットにまで何らかの影響が及んでいると言う事も考えらない事ではありませんが...流石に惣流・アスカ・ラングレーが変わる事は無いように思います。)

葛城ミサト :「消滅するエヴァ4号機」

「EVA-04」の文字列が表示された後に、波紋と共に光の十字架が出現する地球の様子が映し出されていました。

恐らく、「四人目の適格者」(第拾七話)の中で触れられていたネルフ第2支部(アメリカ)の消滅事故の場面(エヴァンゲリオン4号機へのS2機関搭載実験中に事故が起こり、ネルフ第2支部ごと消滅した場面)では無いかと思います。(TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では、ネルフ第2支部(アメリカ)の消滅に関しては、爆発による消滅では無く、ディラックの海に飲み込まれた事による消滅と言う推測が為されてたのですが、「新劇場版」では、波紋の広がりや十字架の出現から見て、それが爆発による消滅に変わっていると言う事もありそうです。)

葛城ミサト :「強行されるエヴァ3号機の起動実験」

「EVA-03」の文字列が表示された後に、夕日の中を歩くエヴァンゲリオン3号機と思しき機体の姿が映し出されていました。

これは、「命の選択を」(第拾八話)、第13使徒バルディエルに乗っ取られたエヴァンゲリオン3号機がネルフ本部へと向かて歩を進めている場面かと思われます。

葛城ミサト :「そして、月より飛来するエヴァ6号機とそのパイロット」

「EVA-06」の文字列が表示された後に、月を背にして降下して来るエヴァンゲリオン6号機と思しき機体の姿が映し出されていました。これはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」には見られなかった機体です。

台詞には「月より飛来」とありますが、この機体が月で建造されたものだとすると、月で渚カヲルの前にあった「月の巨人(アダムと思しき巨人)」がその素体となっていると言う事も考えられるところかと思います。

「そのパイロット」は同場面には出て来ていませんが、エヴァンゲリオン6号機が月で建造されたものであるとするなら、そして、その素体となったのが「月の巨人」であり、それがアダムであるとするなら、これは、渚カヲルがパイロットと言う事もありそうです。登場時に月にいましたし、コアを用意しなくても動かせそうですので...。(ただ、そうなると渚カヲルがアダムに還ってしまわないかが心配なところです()。それが解決出来ていなければ渚カヲルがパイロットと言う事は無いのでは無いかと思います。)

(渚カヲルがパイロットであった場合...「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」の最後の場面、月での場面で渚カヲルが目の前にある巨人に還ろうとする素振りを見せなかった事から言えば、例えば、「この世界の渚カヲルにはアダムへと還る意志が無い」、「この世界では渚カヲルがアダムへと還る理由が失われている」、「機体に渚カヲルをアダムへと還さないようにするための何らかの仕掛けが施されている」、「そもそも、『月の巨人』はアダムでは無い」と言ったような事があるのかも知れません...。(それでも、一つ目は、アダムへと還るも還らないも渚カヲル次第である事から危険だと言えますし、二つ目は、アダムへと還る理由が復活する可能性があるならば、三つ目は、機体の仕掛けを解除出来る可能性があるならば、それも安全では無いと言えます。また、四つ目は、渚カヲルに合ったコアを用意出来るのかと言う事に疑問が残ります。)いずれにしても、エヴァンゲリオン6号機が「月の巨人」を使って作ったものなのか、パイロットが本当に渚カヲルなのかと言った事は続編を見ない事には分からないところであり、ここでの推測は(色々しておいてから言うのも如何かと思いますが...)尚早であると言えるかと思います。)

葛城ミサト :「次第に壊れて行く碇シンジの物語は、果たして、どこへと続くのか」

葛城ミサトのナレーションが続く中、画面は...「ADAMS」の文字列、四体の謎の生命体(?)、「LILIN+?」の文字列、加持リョウジの姿、碇ゲンドウの姿、葛城ミサトが赤木リツコの頬を叩く場面、惣流・アスカ・ラングレーの姿、綾波レイの姿、碇シンジの姿、渚カヲルの姿、複数の光の十字架が立ち並ぶ場所に女の人と思しき人物が立っている場面、その人物の顔の大写し...と次々に切り替わっていました。

「ADAMS」の文字列は、その後に映し出された「四体の謎の生命体(?)」を示しているものと思われます。「ADAMS」と言う言葉も、それが指していると思われる「四体の謎の生命体(?)」も、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」には無かった要素です。物語の進展に関係して来る要素かも知れません。楽しみな部分です。

「LILIN+?」の文字列は、その後に次々と映し出されて行く人物の一連が「『LILIN(人間)』と『?(人間以外の存在)』とを並べたもの」である事を示しているのかも知れません(※※)。或いは、その後に映し出さて行く人物の一連が「単なる『LILIN(人間)』では無く、それに『?(何か)』を加えた存在」である事を示しているのかも知れません(※※※)。

(※※一連の人物がTV版「新世紀エヴァンゲリオン」と同質のままであるならば、加持リョウジ、碇ゲンドウ、葛城ミサト、赤木リツコ、惣流・アスカ・ラングレー、碇シンジが「LILIN(人間)」に当たり、綾波レイ、渚カヲルが「?(人間以外の存在)」に当たると言えます。最後に出て来た「光の十字架の前にいる女の人と思しき人物」は「TV」にはいなかった人物であり、そのため、それが「LILIN(人間)」であるのか「?(人間以外の存在)」であるのかは、この「予告」だけでは情報が少なく、判断が付きません。ただ、(色の入ったレンズ越しですが、)「赤い瞳」では無いようである事から、少なくとも綾波レイや渚カヲルのような存在では無いと言えそうです。この辺りも続編待ちのところとなります。)

(※※※TV版「新世紀エヴァンゲリオン」での綾波レイは人の肉体に「リリス」の魂を宿した存在、渚カヲルは人の肉体に「アダム」の魂を宿した存在でした。「LILIN+?」と言える存在だったと言えます。「LILIN+?」の表示の後にはそれ以外の人物...加持リョウジ、碇ゲンドウ、葛城ミサト、赤木リツコ、惣流・アスカ・ラングレー、碇シンジの姿も映し出さていますが、これは、「新劇場版」では綾波レイ、渚カヲル以外の者(「TV」で人間であった者、即ち、人類)も「LILIN+?」と言える存在になっていると言う事を示しているとも考えられます。例えば、一度目の人神の(肉体的な)死(神への贖罪)によって人類が原罪から解放され、神との道が再び繫がったように、即ち、聖霊を宿す存在となったように、「TV」-新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」での二度目の人神(エヴァンゲリオン初号機と一つになった碇シンジ)の死によって(人類が「全-一」となり、その後、そこから起こったであろう個々の復元時に)人類(個々)に何か(「?」)が宿り、(「新劇場版」の世界が「TV」-「旧劇場版」から続く世界(復元された世界)、或いは影響を受けている世界だとして、)それによって「新劇場版」に於ける人類はそれ(「?」)を宿した存在(「LILIN+?」)となっている...とも、無理をすれば、そう考える事も出来ます。では、「?」は何かと言うと、(無理に話を続けるのであれば、)例えば、それは「碇シンジの心の欠片」かも知れません。(「TV」-「旧劇場版」から世界の復元があったとして、)人類の復元の際(恐らく、それぞれの意志(碇シンジの意志では無い)が精子となってリリスの胎内で形(※※※※)を得て再生しただろう、その際)にそれが全人類(綾波レイ、更に渚カヲルも含めてか)の個々の内に植え付けられた(深層的な経験として持たされた)と言う事も考えられるところではあります。その場合、全人類が碇シンジの欠片を深層で共有した状態と言う事になりますが...(※※※※※)。それよって人類は碇シンジを理解する道を得たと言う事になるのでしょうか...。また、「新劇場版」に於いて碇シンジに接する人々の態度に変化があるのはそれ(碇シンジの欠片)が無意識から意識に向かって働いているからなのでしょうか...。(仮定から話(解釈)を進めるのは楽しくて好きでなので色々と書きましたが、無理に仮定を作り出したり、仮定の中に仮定を作ったりした場合には特に思考が大きく的を外れた方向に進んでいる事が多く、これもそれかと思います。偶然にでも当たっていれば嬉しいと思い、あれこれ書いてはいますが...。)

(※※※※碇シンジがリリスの内に入場した際に見た「綾波レイの群れ」に意志が宿って再生したとも考えられますが、あれは、綾波レイの製造プラントにあった「入れ物」とは違い、活動的であり(卵子的では無く)、意志を宿すためのもの(受精先)では無いように思います。)

(※※※※※もし、そうならば、碇シンジの欠片を宿して復活し、「新劇場版」に身を置く人々と、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」-新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」で碇シンジの心の内側に付き合わされ、顛末を見届けた上で「新劇場版」を観る視聴者、即ち、「TV」-「旧劇場版」での碇シンジの心を知り、それを持った状態で「新劇場版」を観る事になる視聴者とは、(それを深層に宿しているか、表層で受け止めているかと言った違いはありますが、また、身を世界の内に置くか、外に置くかと言った違いはありますが、)どちらも碇シンジの欠片を内に持ち、(人類は「全-一」から、視聴者は「エヴァンゲリオン」の復活と共に)復活し、再びその世界に付き合う事になると言う点では似ていると言えるのでは無いかと思います。)

葛城ミサト :「次回、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 破』。さぁーて、この次もサービス、サービス」

最後は次回のタイトルと何時も言う台詞とで終えていました。

エヴァンゲリオン仮設5号機 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

エヴァンゲリオン仮設5号機。他のエヴァンゲリオンの機体と比べるとその外形が大きく異なる。「TV版」には無かった機体。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

エヴァンゲリオン弐号機 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

上空から降下するエヴァンゲリオン弐号機。登場場面か。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

エヴァンゲリオン4号機の事故 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

エヴァンゲリオン4号機の事故。爆発事故か。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

エヴァンゲリオン3号機 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

エヴァンゲリオン3号機。使徒(第13使徒バルディエル)に乗っ取られたエヴァンゲリオン3号機がネルフ本部へと向かって進んでいる場面か。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

エヴァンゲリオン6号機 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

月を背景に降下するエヴァンゲリオン6号機。頭部の上方に光の輪がある。「TV版」には無かった機体。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

ADAMS : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

「ADAMS」の文字列に続いて映し出された四体の生命体(?)。「TV版」には見られなかった生命体(?)。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

LILIN+? : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

「LILIN+?」。この後、加持リョウジ、碇ゲンドウ、赤木リツコと葛城ミサト、惣流・アスカ・ラングレー、綾波レイ、碇シンジ、渚カヲル、謎の女性が順に映し出されて行く。この文字列は、それに続いて映し出されて行く者達が「リリン(人間)」と「?(リリン以外の生命体)」とであると言う事を表しているのか、或いは、それらが単なる「LILIN(人間)」では無く、そこに「?(何か)」を加えた存在であると言う事を示しているのか。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

光の十字架の前に立つ謎の女性 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

光の十字架の前に立つ謎の女性。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

謎の女性の顔 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」

その謎の女性の顔。「TV版」には該当する人物は見当たらず、「新劇場版」での新たな登場人物だと思われる。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」の感想と今後への期待

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」と大差の無い展開は少々退屈を感じるものでした。ただ、大差の無い展開を見せる中にも「TV」には無かった要素が組み込まれていましたし、登場人物には「TV」には無かった心的変化が見られる者もいて、少なくとも、単なる焼き直しでは無く、「TV」の内容をなぞりながらも「TV」とは別の展開、別の未来を予感させる内容になっていたとは思います。この記事を書いている時点では続編でどのような展開が待っているかは分かりませんが、「TV」には無かった要素が、今後、物語にどのように関係して行くのか、どのように影響して行くのか、また、「TV」には無かった心的変化を見せた登場人物が、特に碇シンジ(他者との心的繫がりを得て、他者に対して、幾分、積極的に接する事が出来るようになったように見える)が、今後、どのように変わって行くのか、それが物語にどのように影響して行くのか、そして、そう言った舞台の仕掛けの差と登場人物の心的な差との重なりが物語の展開、行く末をどのように変えて行くのか...続編への期待と楽しみとを残した作品に仕上がっていると言えるのでは無いかと思います。

続編への期待や楽しみは、本編からだけで無く、「予告」からも感じられました。「予告」を見ると、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 破」ではTV版「新世紀エヴァンゲリオン」には無かったエヴァンゲリオン5号機、エヴァンゲリオン6号機、「ADAMS」なる生命体(?)、新たな人物が出て来る事が分かります。新劇場版」では「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」よりも「TV」には無かった要素や事柄が増え、「TV」からの変化が大きくなっているものと思われます。それが「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」で見られた変化の流れを受けて出て来たものなのか、或は、「新劇場版」の世界に最初から埋め込まれていたものが出て来ただけなのか(舞台に新たに埋め込んでおいた仕掛けが動き出しただけなのか)と言う点も気になるところであり、その辺りも見所として楽しみです。

また、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では謎のまま残ったところが「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 破」になってどこまで分かるのかも気になるところです。特に、新劇場版「」とTV版「新世紀エヴァンゲリオン」-エヴァンゲリオン劇場版(旧劇場版)「Air/まごころを、君に」との関係はどのように捉えて良いのか迷いながら見ていたところであり()、そこが見えて来るのか如何かは非常に気になるところです。ここがある程度固まらないと見ている中で考えなければならない事が多くなりますし、その分、記事も長くなってしまいますので...。この辺りは続編に於いて、是非、答えかそれに繫がる何らかのものがあって欲しいところです...(※※)。

(新劇場版」の世界はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」と似たような世界であり、そこでは似たような物語が展開され、中にはエヴァンゲリオン劇場版(旧劇場版)「Air/まごころを、君に」の影響らしきものも見られるのですが、その世界が「TV」-「旧劇場版」の続きや遣り直しの世界であるのか如何なのか、「TV」-「旧劇場版」での事が影響している世界であるのか如何なのかは、本編と予告とを見終わった時点では明確な事は何も言えないところであり、色々と考えられるところだと言えます。しかし、間に合わせの考えとしては、「似て非なるもう一つの世界を舞台にしたもう一つの物語」であると捉えています。)

(※※この辺りは最後まで明かされないまま(視聴者に考えさせる幅を残したまま)にしておくと言う事も考えられるところかと思います。しかし、全く明かされないままだと...謎めかせるだけ謎めかせておいて実は何も答えを用意していないのでは無いか、それも「答えを用意していないが、兎に角、何かがあるように謎めかせておけば後は受け手があれこれと考えて勝手に楽しんでくれる事だろう」と言うような浅はかな考えで謎めかせているのでは無いか...と言うような勘繰りを生じ兼ねませんので、物語の完結までには、少なくとも、答えが薄らと見えて来るくらいには判断材料を出して来て欲しいものです...。)

ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」では「EVANGELION : 1.01」と「EVANGELION : 1.11」とで画作りが異なり、「EVANGELION : 1.01」は暗く、しっとりとした画、「EVANGELION : 1.11」では明るく、くっきりとした画になっています。そのため、内容に僅かな差異があるだけの「同じ作品」でありながら、映像面では異なる雰囲気の作品に仕上がっています。これは好みの別れるところかと思いますが、姫はどちらかと言えば「EVANGELION : 1.01」の画が作り出す雰囲気の方が作品に合っていたように感じられ、好感を持てました。

「EVANGELION : 1.01」の暗く、しっとりとした画は、重たい雰囲気を必要とする場面では特に有効に働き、場面に合った雰囲気を上手く作り出していたように思います。但し、暗い場面は更に暗くなっているため、それによって描かれているものが見難くなってしまっているところもありました。そこはもう少し調整があっても良かったのでは無いかと思います。この暗くなり過ぎて見難くなっているところがあると言う点を除けば、「EVANGELION : 1.01」は明暗具合や鮮明具合を使って上手く雰囲気作りが出来ていた作品であったように思います。

それに対し、「EVANGELION : 1.11」の明るく、くっきりとした画(※※※)は、「EVANGELION : 1.01」と比べると、画の暗さが解消されていて細かいところまで見易くなってはいますが、その反面、「EVANGELION : 1.01」で見られた「出るべき時に出ていた重みのある雰囲気」が、その画作りによって消えてしまっています。画が暗い(色が重たい)のも明るい(色が軽い)のもそれぞれに良し悪しがあるかと思うのですが、作品の雰囲気を作ると言う点では、「EVANGELION : 1.01」の暗い画は役に立っていて、「EVANGELION : 1.11」の明るい画は役に立っていないように感じました。

(※※※「EVANGELION : 1.11」の画は明るく、くっきりしているとは言っても、極端なものでは無く、多くのアニメ作品に見られる程度のものであり、そう言う意味では「普通」だと言えます。しかし、「EVANGELION : 1.01」を見た後ではその画の軽さが気になってしまいました...。この辺りは「EVANGELION : 1.01」を見ていなければ気にならなかったところかも知れません...。)

暗く、しっとりとした画 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」(EVANGELION : 1.01)

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」(EVANGELION : 1.01)より。暗く、しっとりとした画になっている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

明るく、くっきりとした画 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版序」(EVANGELION : 1.11)

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」(EVANGELION : 1.11)より。明るく、くっきりとした画になっている。

[ 画像引用元 : ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 © カラー・GAINAX ]

ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」を見終え、次は「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 破」を見る事になりますが、新劇場版」に対しては、やはり、「破」と言うくらいなので新劇場版「」に対する「破」を期待しています。「「新劇場版」『』は飽く迄も『序』であり、真の「新劇場版」はここからだ」、「「新劇場版」は単なる焼き直しでは無い。これを見せたくて新たに作ったのだ」と言うところを見せて欲しいところです。

(「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 破」では「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」のようなリビジョン違いがあるのでしょうか...。記事を書く点から言えば、リビジョン違いがあると差異を拾うのに手間が掛かるので、そう言ったものは無い方が助かるのですが...。)

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