新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」 【解説】

シト新生 DEATH & REBIRTH

新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」の第弐拾四話から新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」までの繫ぎの作品です。(「DEATH(TRUE)2 & REBIRTH」の形になると「ビデオフォーマット版」の第24話から劇場版「Air/まごころを、君に」までの繫ぎとなります。)「DEATH」編と「REBIRTH」編から成ります。

DEATH」編はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」の第壱話「使徒、襲来」から第弐拾四話「最後のシ者」までの話を編集した総集編となっています。場面の繫ぎ変え、文字列齣の差し込み、描画の変更、新規カットの追加などの改変が見られます。

REBIRTH」編は第弐拾四話「最後のシ者」の続きを描いた内容となっています。こちらは完結せずに途中で終わっています。(それを最初から辿り直して完結まで描いたものが新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」になります。「REBIRTH」編は劇場版「Air/まごころを、君に」で言えば「Air」編の途中までの内容に当たります。)

タイトルの「シト新生 DEATH & REBIRTH」は「シト」の部分がカタカナでの表記となっていますが、これは「DEATH & REBIRTH」の部分から言って「死と新生」と当てるのが適当なのだろうと思います。また、「シト」と、態々、カタカナで表記している事から言えば、これは「使徒」とも掛けてあるのかも知れません。「エヴァンゲリオン」で「シト」と言えば「使徒」ですので。(しかし、「シト新生」に「使徒新生」の意味を持たせているとしても...内容を見る限りでは「使徒」の「新生」が描かれているようには見えない(即ち、肝心の内容には掛かっていないように見える)のですが...。)

シト新生 DEATH & REBIRTH : EVANGELION:DEATH

DEATH」編は、単にTV版「新世紀エヴァンゲリオン」を短く纏めるだけで無く、場面を繫ぎ変えていたり、「TV」には無かった「文字列駒」を差し込んでいたり、別の場面での台詞を上から重ねていたり、描画を変更したカットや新規カットを追加したりしていますが、基本的には総集編であると言えます。そのため、取り立てる程のものは、然程、見当たりません。以降では、全体的には場面の移りを追う程度にし、その中で気になった部分を少し掘り下げて行こうかと思います。

これが、「EVANGELION:DEATH」の本来の姿

本編開始前に、「これが、『EVANGELION:DEATH』の本来の姿です。」と書かれた画面が置かれていました(『』は「」であり、「EVANGELION:DEATH」の部分は右に90度転倒しています)。これは「DEATH(TRUE)2」の事を指しているものと思われます。

これが、「EVANGELION:DEATH」の本来の姿です。 : 「DEATH」編

本編開始前。「これが、『EVANGELION:DEATH』の本来の姿です。」と書かれた画面。「DEATH(TRUE)2」の事を指しているものと思われる。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

2000年 南極基地

(文字列) :「2000年 南極大陸」

本編の最初では、南極基地での事故前(2000年8月15日)の記録映像と、事故時(2000年9月13日)の状況とが映し出されていました。

事故前の記録映像では科学者の会話、碇ゲンドウとキール・ローレンツとによる会話、所員(と思われる人々)の雑談が流されていました。この内、キール・ローレンツと碇ゲンドウとによる会話が主として扱われていました。事故時の状況を描いた部分では事故発生時から光の巨人が地上に出るまでが描かれていました。これらはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」の放送時には無かったものであり、「DEATH」編で付け加えられたものです。(ビデオフォーマット版では第21話「ネルフ、誕生」のOP前に差し込まれています()。)

(この南極基地での映像は「DEATH」編と第21話「ネルフ、誕生」(ビデオフォーマット版)とで、多少、異なるものになっています。事故前の記録映像には科学者の会話、碇ゲンドウとキール・ローレンツとによる会話、所員(と思われる人々)の雑談の三つの音声があるのですが、それが、「DEATH」編では碇ゲンドウ、キール・ローレンツの声が大きく、科学者や所員の声が小さくなっているのに対し、第21話「ネルフ、誕生」(ビデオフォーマット版)では科学者や所員の声も大きくなっています。また、「DEATH」編では事故時の状況の描画から録画映像では無く通常の描画になっているのですが(それでも録画映像のように見える部分が少し残っています...)、第21話「ネルフ、誕生」(ビデオフォーマット版)ではそこも記録映像の形になっています(画面に「録画時刻」の表示や、映像によってはそれと共に「REC」の表示があったり(※※)、画質が荒くなっていたり、映像の終わりに「映像が途切れる部分」があったりし、本当の録画映像のように描かれています。)そして、最後には、一連の(恐らく、事故前の記録映像を含む)映像が「機密」である事を示す画面が置かれています。)

(※※事故時の映像は三つの記録映像を繫げたものになっているのですが、録画時刻が入っている事によって、それぞれの映像の出来事にどれくらいの間があるかが分かるようになっています。これに対し、「DEATH」編では(記録映像風で無い事から)時刻表示が無く、三つの映像が一繫がりになっているだけであるため、そう言った事は分からないようになっています。)

南極基地で事故が発生し、光の巨人が地上に出た後、セカンドインパクトが起こります。大爆発が起こり、光の翼が広がる中、赤色の球体(外在化した「魂」か...)が宙を舞っていました。この赤色の球体はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」でのセカンドインパクト時の描画では見られなかったものです。

セカンドインパクトが起こる中、葛城ミサト(幼少)は南極から父親によって脱出カプセルで逃されていました。

2000年8月15日の南極基地の記録映像 : 「DEATH」編

2000年8月15日。南極基地の記録映像。「DEATH」編になって加えられた映像であり、「TV版」には無かった。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

2000年9月13日の南極 光の巨人(アダム)の手 : 「DEATH」編

活動を開始した光の巨人(アダム)。その手。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

2000年9月13日の南極 羽を広げる光の巨人(アダム) : 「DEATH」編

セカンドインパクト時、光の羽が広がって行く場面。周囲には赤色の球体が舞っている。「TV版」でのセカンドインパクト時とは光の羽の形状がやや異なる。また、「TV版」ではこの赤色の球体は見られなかった。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

2000年8月15日の南極基地の記録映像 : 第21話「ネルフ、誕生」(ビデオフォーマット版)

第21話「ネルフ、誕生」(ビデオフォーマット版)より。南極基地での映像は、「TV版」には無かったが、「ビデオフォーマット版」では第21話「ネルフ、誕生」の冒頭(OP前)に差し込まれている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

2000年9月13日の南極の記録映像 光の巨人(アダム)の手 : 第21話「ネルフ、誕生」(ビデオフォーマット版)

第21話「ネルフ、誕生」(ビデオフォーマット版)より。ビデオフォーマット版では、「DEATH」編とは異なり、事故発生後も記録映像の形になっている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

記録映像の途切れ : 第21話「ネルフ、誕生」(ビデオフォーマット版)

第21話「ネルフ、誕生」(ビデオフォーマット版)より。「DEATH」編ではアダムが活動を開始した後に続けてセカンドインパクトの状況が描かれていたが、「ビデオフォーマット版」では記録映像が途切れた形で終わる。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

一連の映像が機密であるである事を示す画面 : 第21話「ネルフ、誕生」(ビデオフォーマット版)

第21話「ネルフ、誕生」(ビデオフォーマット版)より。記録映像が途切れた後には一連の映像が「機密」である事を示す画面が置かれている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

2000年9月13日の南極 羽を広げる光の巨人(アダム) : 第拾弐話「奇跡の価値は」

第拾弐話「奇跡の価値は」より。セカンドインパクト時、光の羽が広がる場面。「DEATH」編とは羽の形状が異なる。また、「DEATH」編にあった赤色の球体は見られない。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

セカンドインパクト後 - 人から人を辿る...

(文字列) :「その15年後――彼女は、男に抱かれていた。」

場面は十五年後へと移ります。そこでは葛城ミサトが、仰向けになっている男(加持リョウジ)の上で俯せになり、その男の胸(?)に頬を寄せていました。

(文字列) :「その9ヶ月前――彼は、星を見ていた。」

場面は九ヶ月前へと移ります。加持リョウジは日本へ向かう空母の甲板で仰向けになって星を眺めていました。そこには惣流・アスカ・ラングレーもいて、二人で会話をしていました。TV版「新世紀エヴァンゲリオン」には無かった場面です。(「ビデオフォーマット版」では第22話「せめて、人間らしく」の冒頭に差し込まれています。)

(文字列) :「その7年前――彼女は、部屋を駆け抜けた。」

場面は七年前、惣流・アスカ・ラングレー(幼少)が、自分がエヴァンゲリオンのパイロットに選ばれた事を母親に伝えに行く場面へと移ります。母親のところへと走って向かい、母親のいる部屋へと着いた惣流・アスカ・ラングレーは、そこで首を吊っている母親の姿を目撃していました。

その後、場面は2015年、惣流・アスカ・ラングレーがネルフでハーモニクステストを行っている場面へと移ります。惣流・アスカ・ラングレーがハーモニクステストを行う中、その観察を行っていた赤木リツコの口から綾波レイの名前が出ると、場面は、五年前、碇ゲンドウが綾波レイ(幼少)を赤木ナオコに紹介する場面へと移っていました。

(文字列) :「その5年後――彼女は、彼に再会した。」

碇ゲンドウによる綾波レイの紹介が赤木リツコに対して行われた後、場面は五年後、2015年へと移ります。そこで綾波レイは(碇シンジが公衆電話を切った後に遠くに綾波レイの姿を見掛けると言う形で)碇シンジと出会っていました。(この場面はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」では「碇シンジが謎の少女(綾波レイ)を見掛けた場面」ですが、新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」では、その前の場面との繫がりと、そこに行く前の文字列とから、「綾波レイが碇シンジに出会う場面」と言う扱いになっています。)

この「その5年後――彼女は、彼に再会した。」がどう言う意味でのものなのか、ここでは特に触れられていません。五年以上前にどこかで綾波レイと碇シンジとの接触があったと言う事を示しているのか...「彼女」が「碇ユイ(綾波レイの身体の元となっている)」である事を示しているのか...気になるところです。

綾波レイと碇シンジとの再会後、碇シンジの前に第3使徒サキエルが現れると、場面は飛び、エヴァンゲリオン初号機の前で碇シンジがエヴァンゲリオン初号機に乗るか乗らないかの決断を迫られる場面へと移っていました。(葛城ミサト、加持リョウジ、惣流・アスカ・ラングレー、綾波レイと人を辿り、ここに来て、漸く、碇シンジの登場へと繫がりました。)

(文字列) :「その数ヶ月後――彼は、決断を迫られていた。」

碇シンジがエヴァンゲリオン初号機に乗るか乗らないかの決断を迫られていた場面から、場面は数ヶ月後、エヴァンゲリオン初号機に乗った碇シンジが、渚カヲルをエヴァンゲリオン初号機の手で握り潰す場面へと移ります。碇シンジは、渚カヲルが遺言する中、渚カヲルを殺害するかしないかの決断を迫られていました。

この場面は最後は碇シンジが渚カヲルを握り殺す場面なのですが、ここでは碇シンジが渚カヲルの殺害を実行する前に次の場面へと移っていました。(新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」の「DEATH」編は、最後、この場面へと戻って来る事になります。)

長野県 第2新東京市(旧松本市)第三中学校講堂内 - 弦楽四重奏 練習開始二十二分前

(文字列) :「その18ヶ月前――」

長野県第2新東京市(旧松本市)第三中学校講堂内に碇シンジがやって来ます。

(文字列) :「Johann Sebastian BACH Suiten für Violoncello solo Nr.1 G-dur, BWV.1007」

(文字列) :「1.Vorspier」

碇シンジは、椅子に座り、チェロを構え、調弦後、ヨハン・セバスチャン・バッハ「無伴奏チェロ組曲 第1番 ト長調 BWV.1007 1.前奏曲」の演奏を開始します。演奏開始と共に画面にはタイトル「EVANGELION:DEATH(反転)」が表示され、続いてスタッフメンバーの紹介が行われていました。

タイトル画面 : 「DEATH」編

タイトル画面。「EVANGELION:DEATH」の文字が反転している。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

第3使徒サキエル戦

スタッフメンバーの紹介後、エヴァンゲリオン初号機の発進場面から本編が再開します。

出撃したエヴァンゲリオン初号機は暴走の末に第3使徒サキエルを殲滅していました(自爆に追い込んでいました)。

第3使徒サキエル戦は、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」では暴走前と暴走後の間に後日の話が挟まれた形になっていたのですが、「DEATH」編では暴走前と暴走後が一続きになっていました。また、「TV」には無かった「文字列齣」が頻繁に挟まれる作りになっていました。

ただいま、おかえりなさい

場面は葛城ミサトの家での碇シンジと葛城ミサトとの生活が開始される場面へと移ります。玄関での「ただいま」、「おかえりなさい」の遣り取りの後、葛城ミサトの失語症時代、葛城ミサトと赤木リツコとの出会いと言った過去の場面を挟んで、碇シンジとの生活での最初の食事場面(葛城ミサトによる独白が重ねられている)へと移っていました。

その後、場面は、碇シンジがエヴァンゲリオン初号機を使って戦闘シミュレーションを行っている場面(碇シンジと渚カヲルとによる会話が重ねられている)、第4使徒シャムシエル戦、その後の碇シンジの家出、ネルフによって保護された後の碇シンジと、葛城ミサトとの遣り取り、新箱根湯本駅での場面と移り、そこに鈴原トウジの台詞や、碇シンジと葛城ミサトとの過去の遣り取り、碇シンジがパイロット復帰した後の映像を挟んで、碇シンジと葛城ミサトとの「ただいま」、「おかえりなさい」の遣り取りへと続いていました。シャムシエル撃破からはところどころで「葛城ミサトによる報告」の音声が重ねられていました。

長野県 第2新東京市(旧松本市)第三中学校講堂内 - 弦楽四重奏 練習開始十分三十秒前

再び、十八ヶ月前。長野県第2新東京市(旧松本市)第三中学校講堂内に惣流・アスカ・ラングレーがやって来ます。

惣流・アスカ・ラングレー :「おはよう、碇君」

惣流・アスカ・ラングレーは先に来ていた碇シンジに挨拶をしますが、そこでは碇シンジの事を「碇君」と呼んでいました。

(文字列) :「Johann Sebastian BACH Partita III für Violino solo E-dur, BWV.1006」

(文字列) :「3.Gavotte in Rondo」

惣流・アスカ・ラングレーは、ヴァイオリンを取り出し、調弦後、ヨハン・セバスチャン・バッハ「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第3番 ホ長調 BWV.1006 3.ロンド風ガヴォット」の演奏を開始します。この惣流・アスカ・ラングレーの奏でるヴァイオリンの調べに乗って場面は本編へと戻っていました。

惣流・アスカ・ラングレー

場面は、夜の葛城ミサト家、惣流・アスカ・ラングレーがトイレに行った帰りに碇シンジの隣に寝てしまう場面へと移ります。

その後、惣流・アスカ・ラングレーの初登場時の場面へと移り、そこから、惣流・アスカ・ラングレーの日常の様子を短い齣で繫いだ白黒映像(鈴原トウジと相田ケンスケとが惣流・アスカ・ラングレーに就いて言った言葉が重ねられている)を挟み、失踪中の惣流・アスカ・ラングレーが衰弱した状態でバスタブに入っている場面へと移っていました。

そして、惣流・アスカ・ラングレーがバスタブの中で虚ろな目をして空を見上げている中(渚カヲルの台詞が重ねられている)、映像は、惣流・アスカ・ラングレーが使徒との戦いで活躍し、調子が良かった頃から、使徒との戦いで失態を見せたり、敗れたりし、自信を失うまでの経緯を辿り、更に、綾波レイとの初対面の場面、碇シンジとのユニゾンの訓練で綾波レイに後れを取った場面、ネルフ施設内のエレベーターでの綾波レイとの遣り取りの場面へと繫がっていました。

ここでも、エヴァンゲリオン初号機の場合と同様に、エヴァンゲリオン弐号機の戦闘場面では「文字列齣」が頻繁に挟まれる作りになっていました。

長野県 第2新東京市(旧松本市)第三中学校講堂内 - 弦楽四重奏 練習開始五分四十三秒前

三度、十八ヶ月前。長野県第2新東京市(旧松本市)第三中学校講堂内に綾波レイがやって来ます。

綾波レイは椅子に座り、ヴィオラを取り出し、調弦を始めます。それと共に場面は本編へと戻っていました。

綾波レイ

場面は、碇シンジが綾波レイ(プールの授業中)を眺めていたところを鈴原トウジ、相田ケンスケの二人にからかわれる場面、エヴァンゲリオン零号機から降りた綾波レイと、そこにやって来た碇ゲンドウとが親しげに話しているところを碇シンジがエヴァンゲリオン初号機から眺める場面(碇シンジ、鈴原トウジ、相田ケンスケの三人による綾波レイに関する会話、碇シンジと赤木リツコとによる綾波レイに関する会話が重ねられている)、碇シンジが綾波レイに更新カードを渡すために綾波レイの家を訪れてから、更新カードを渡しそびれるまでの場面、碇シンジと綾波レイとがネルフ施設内の長いエスカレーターで下へと移動している場面、第5使徒ラミエルとの最初の交戦後、病院で目を覚ました碇シンジに綾波レイが「ヤシマ作戦」のスケジュールを伝える場面、エヴァンゲリオン零号機の起動実験での暴走事故の場面(頻繁に「文字列齣」が差し込まれている)、ラミエルとの二回目の交戦での第二射前からラミエル殲滅までの場面、ラミエル戦後に碇シンジがエヴァンゲリオン零号機のエントリープラグから綾波レイを救出する場面(第二射の少し前から、碇シンジがエヴァンゲリオン零号機のエントリープラグのハッチを開けようとしている場面までの間、碇シンジと綾波レイとによる会話が重ねられている)、エヴァンゲリオン零号機が第14使徒ゼルエルに自爆攻撃を仕掛ける場面(綾波レイの言葉や、綾波レイと惣流・アスカ・ラングレーとによる会話が重ねられている)、エヴァンゲリオン零号機がアダム(リリス)からロンギヌスの槍を抜き、アダム(リリス)に脚部が生える場面(碇ゲンドウと冬月コウゾウとによる会話が重ねられている)、エヴァンゲリオン零号機がロンギヌスの槍を使って第15使徒アラエルを殲滅する場面(碇シンジと綾波レイとによる会話が重ねられている)、エヴァンゲリオン零号機と第16使徒アルミサエルとの交戦場面(赤木リツコが綾波レイに就いて語った台詞や、綾波レイの台詞が重ねられている)、アルミサエルを倒すために綾波レイがエヴァンゲリオン零号機を自爆させる場面...と移っていました。

エヴァンゲリオン零号機がアダム(リリス)の胸からロンギヌスの槍を引き抜く場面では、ロンギヌスの槍を引き抜くと同時にアダム(リリス)に脚部が生えますが、これは「DEATH」編で追加されたものであり、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」の第弐拾弐話「せめて、人間らしく」にある同場面ではそれは見られません。(「ビデオフォーマット版」の第22話「せめて、人間らしく」では、ロンギヌスの槍を引き抜いた後に脚部が生じる様子が差し込まれていて、「DEATH」編と同様になっています。)

ロンギヌスの槍を抜いた直後に脚部が生えるアダム(リリス) : 「DEATH」編

エヴァンゲリオン零号機がアダム(リリス)の胸からロンギヌスの槍を引き抜いた場面。「TV版」とは異なり、ロンギヌスの槍を抜くと同時にアダム(リリス)に脚部が生じている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

第16使徒アルミサエルとの交戦場面では、「ビデオフォーマット版」にある「TV」からの変更()は見られず、「TV」に沿ったもの(※※)になっていました。

(ビデオフォーマット版」では、エヴァンゲリオン零号機が第16使徒アルミサエルに浸食された際に、背中から素体が膨れ上がり、その部分が上方へと膨張して伸びて行って「これまでの使徒」を形作ると言う現象が見られました。また、自爆の際には次のような過程が見られました。機体上方へと膨れ上がり、「これまでの使徒」を形作っていた素体が、エヴァンゲリオン零号機へと一気に引き戻される...。アルミサエルがエヴァンゲリオン零号機のコアから体内へと引き込まれて行く...。アルミサエルを引き込んだ事によってエヴァンゲリオン零号機の腹部が妊婦のように(大きさで言えばそれ以上に)大きくなる...。それが瞬時に凹む...。機体が何かに手を引かれるかのようにゆっくりと起き上がって行く...。機体が起き上がって行く中、その姿が白い綾波レイ(リリスにも見える)へと変わる...。起き上がったところで光り輝いて爆発する...。これは、機体が爆発していただけの「TV」や「DEATH」編と比べると、かなり複雑になっていると言えます。)

(※※TV」ではエヴァンゲリオン零号機の素体が膨れ上がる現象が無く、自爆も単に機体が爆発するだけになっています。)

自爆するエヴァンゲリオン零号機 : 「DEATH」編

エヴァンゲリオン零号機の自爆時。「DEATH」編では単に機体が爆発するだけになっている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

「これまでの使徒」を形作っていた素体が引き戻される : 第23話「涙」(ビデオフォーマット版)

第23話「涙」(ビデオフォーマット版)より。エヴァンゲリオン零号機の自爆時。膨張していた素体(「これまでの使徒」を形作っていた)が急速に引き戻される。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

エヴァンゲリオン零号機が妊婦のように大きくなる : 第23話「涙」(ビデオフォーマット版)

第23話「涙」(ビデオフォーマット版)より。コアからアルミサエルが体内へと引き込まれた事によって腹部が妊婦のように(大きさで言えばそれ以上に)大きくなる。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

妊婦のような状態から瞬時に凹んだエヴァンゲリオン零号機の腹部 : 第23話「涙」(ビデオフォーマット版)

第23話「涙」(ビデオフォーマット版)より。膨らんでいた腹部が瞬時に凹む。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

何かに引き起こされるように起き上がって行くエヴァンゲリオン零号機 : 第23話「涙」(ビデオフォーマット版)

第23話「涙」(ビデオフォーマット版)より。何かに手を引かれて引き起こされるかのように起き上がって行く。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

エヴァンゲリオン零号機の姿が綾波レイへと変わる : 第23話「涙」(ビデオフォーマット版)

第23話「涙」(ビデオフォーマット版)より。起き上がって行く中、その姿が白い綾波レイ(リリスにも見える)へと変わる。この後、輝き、爆発する。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

姫がこの区画で気になったのは以上であり、他には特に無かったのですが...あやちゃん曰く「劇場版になった事が上手く活かされている場面がある」との事なので、そこにも少し触れておきたいと思います。

...その場面は綾波レイの家で碇シンジと綾波レイ(全裸)とが縺れて倒れた場面です。そこでは、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」(第伍話「レイ、心のむこうに」)では画角の悪戯によって見えなかった綾波レイの乳頭が、画面が横長になった事によって見えるようになっています。これは劇場版(画面が横長)になった事による賜物であり、劇場版を語る上では外せないものだそうです...。姫は気にも留めずに見ていた場面だったのですが...流石にあやちゃんは見る場所が違います...。

全裸で仰向けになっている綾波レイ : 「DEATH」編

綾波レイの家での一場面。劇場版になり横長になった事により、「TV版」には無かった乳頭が画角に収まっている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

全裸で仰向けになっている綾波レイ : 第伍話「レイ、心のむこうに」

第伍話「レイ、心のむこうに」より。「TV版」での同場面。乳頭は画角の悪戯によって見えない。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

碇ユイ

(文字列) :「その12年前――」

第16使徒アルミサエル戦で綾波レイが自爆した場面から、場面は十二年前、湖畔で冬月コウゾウと碇ユイ(赤子の碇シンジを連れている)とが会話をしている場面へと移ります。(碇シンジを守るために自分の命を犠牲にした綾波レイ(碇ユイのクローン体)から、碇シンジの未来を守るためにその身を捧げる覚悟でいる碇ユイへと繫いでいます。)

そこから場面は2015年へと戻り、碇ゲンドウと碇シンジとが碇ユイの墓参りをしている場面へと移ります。

(文字列) :「その5年前――」

更に場面は、五年前、後にネルフの発令所となる場所で赤木ナオコと赤木リツコとが完成したマギを眺めている場面へと移ります(赤木リツコの台詞が重ねらている)。そして、赤木ナオコと赤木リツコとの会話場面、赤木ナオコによる綾波レイ(幼少)の殺害(扼殺)場面へと続いていました。

赤木ナオコが綾波レイ(幼少)を殺害(扼殺)する場面では、赤木ナオコに首を絞められている綾波レイの瞳に渚カヲルが映し出されると言った描画がありました。また、「DEATH(TRUE)2」では、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」のオープニング(「残酷な天使のテーゼ」)にあった「渚カヲルの齣」が差し込まれていました。これらは「TV」には無く、「ビデオフォーマット版」にも加えられていない、「DEATH」編のみで見られる描画です。

赤木ナオコに首を絞められている綾波レイ : 「DEATH」編

赤木ナオコに首を絞められている綾波レイ。瞳には渚カヲルの姿が映し出されている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

「TV版」のオープニングにあった「渚カヲルの齣」 : 「DEATH」編

途中、「TV版」のオープニングにあった「渚カヲルの齣」が差し込まれている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

綾波レイ(幼少)が赤木ナオコに殺害(扼殺)されたところで場面は2015年...第14使徒ゼルエル戦でエヴァンゲリオン初号機が暴走を起こす場面へと移ります。ここでは、綾波レイ(幼少)の命が消える瞬間と、暴走直前に碇シンジがエヴァンゲリオン初号機(碇ユイ)の鼓動を感じる瞬間とを繫げる形で場面が切り替えられていました。

その後、場面は、暴走したエヴァンゲリオン初号機が第14使徒ゼルエルを圧倒するところから、ゼルエルを喰い、S2機関を取り込み、雄叫びを上げるところまで続き、そこから、三人目の綾波レイが登場する場面、碇シンジと三人目の綾波レイとによる会話が行われる場面、綾波レイ(ダミーシステムのコア)の生産工場で赤木リツコが綾波レイやアダムやエヴァなどの説明を行い、その後、そこにある「空の綾波レイ」を破壊するまでの場面(途中、綾波レイが自宅で碇ゲンドウの眼鏡を壊そうとした際に涙を流す場面が挟まっている。その間、赤木リツコの台詞はそのまま流れている)と移っていました。そして、最後の赤木リツコの「人の形をした物なのよ...」の声が響く中、場面は綾波レイが学校の教室で掃除に使うと思われる布を絞っている場面へと移っていました。

生産工場の場面では、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」(第弐拾参話「」)とは異なり、綾波レイ(の形をした器)に乳頭が描かれていました(「ビデオフォーマット版」(第23話「」)でもそうなっています)。これは気にもしていなかったところであり、当然のように見落としていたのですが、その事で後であやちゃんからは「愚か者」と言われてしまいました...。姫としては、見落としても構わないようにも思うのですが...どうやら重要な点だったようです...。(ここでは、あやちゃんに言われて「TV」との比較を行った際に、綾波レイの数が増えている事にも気が付いたのですが...それに就いて何も言っていなかった事から言うと、これは気が付いても気が付かなくても良かった事のようです...。)

綾波レイの形をした器 乳頭が描かれている : 「DEATH」編

「DEATH」編では「TV版」には無かった綾波レイの乳頭が描かれている。また、綾波レイの数が「TV版」よりも多くなっている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

綾波レイの形をした器 乳頭が描かれている : 第23話「涙」(ビデオフォーマット版)

第23話「涙」(ビデオフォーマット版)より。「DEATH」編と同じく、乳頭が描かれている。こちらも綾波レイの数が「TV版」よりも多くなっている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

綾波レイの形をした器 乳頭が描かれていない : 第弐拾参話「涙」

第弐拾参話「涙」より。「TV版」では乳頭は描かれていない。また、はっきりと描かれている綾波レイの数が「DEATH」編や「ビデオフォーマット」版よりも少ない。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

長野県 第2新東京市(旧松本市)第三中学校講堂内 - 弦楽四重奏 演奏練習開始時間

四度、十八ヶ月前。長野県第2新東京市(旧松本市)第三中学校講堂内に渚カヲルがやって来ます。

ここでは、渚カヲルが講堂に入って来た際に惣流・アスカ・ラングレーと渚カヲルとの短い言葉の遣り取りがあるのですが、それを見る限り、二人は顔見知りのようであり、遠慮のいらない間柄であるように感じられました。

(文字列) :「弦楽四重奏」

(文字列) :「JOHANN PACHELBEL」

(文字列) :「Kanon D-dur」

碇シンジ(チェロ)、惣流・アスカ・ラングレー(第二ヴァイオリン)、綾波レイ(ヴィオラ)、渚カヲル(第一ヴァイオリン)が揃ったところで、音合わせの後、四人による所謂「パッヘルベルのカノン」の演奏が始まります。演奏が始まると、その調べに乗って学校の風景が色々と映し出されていました。

鈴原トウジ

「パッヘルベルのカノン」が流れ、学校の風景が映し出されて行く中、鈴原トウジが登場します。(やっと四人が揃い、演奏を開始した「パッヘルベルのカノン」でしたが、この鈴原トウジの登場と共に止んでいました...。時間にして僅か四十五秒程の事でした。)

鈴原トウジの登場後、場面は...エヴァンゲリオン3号機が第13使徒バルディエルに乗っ取られる場面、エヴァンゲリオン3号機(バルディエル)が松代から第3新東京市へと向かって歩を進める場面、エヴァンゲリオン初号機とエヴァンゲリオン3号機(バルディエル)との交戦場面(相田ケンスケの台詞が重ねられている)、エヴァンゲリオン初号機の操縦がダミープラグに切り替わってから、エヴァンゲリオン3号機(バルディエル)を沈黙させるまでの場面、エヴァンゲリオン3号機(バルディエル)沈黙後、エヴァンゲリオン3号機(バルディエル)に乗っていたパイロットが鈴原トウジである事を碇シンジが知る場面...と移っていました。

碇ゲンドウ

エヴァンゲリオン3号機(バルディエル)戦の後、場面は、エヴァンゲリオン初号機の起動実験中の暴走事故で碇ゲンドウが綾波レイを助け出す場面、碇ゲンドウ(六分儀ゲンドウ)が警察署から出て来た場面、碇ゲンドウと赤木ナオコとが唇を重ねている場面と移っていました。

加持リョウジ

場面は、碇ゲンドウと赤木ナオコとが唇を重ねている場面から、ネルフのエレベーター内で加持リョウジと葛城ミサトとが唇を重ねている場面へと繫がります。そこから、加持リョウジがスパイ活動をしている場面(白黒)、加持リョウジ、赤木リツコ、葛城ミサトの三人がラウンジで会話をする場面(別の場面での葛城ミサトと加持リョウジとによる会話が重ねられている)、再び加持リョウジがスパイ活動している場面(白黒)、加持リョウジ、赤木リツコ、葛城ミサトの三人の大学生時代の画(二度目の白黒映像からここまで、加持リョウジが葛城ミサトに電話で残した台詞が重ねられている)、加持リョウジが死ぬ場面(葛城ミサトの台詞が重ねられている)、碇シンジが惣流・アスカ・ラングレーに加持リョウジが死んだ事を伝える場面と移っていました。

ここでは途中に「アダムの幼体」が映る場面があるのですが、「DEATH(TRUE)2」編ではその「アダムの幼体」が映った直後に、掌に謎の物体が融合した「碇ゲンドウの手」が映し出されていました。これは碇ゲンドウの掌にある物体が「アダムの幼体」である事を示しているものと思われます()(※※)(※※※)。

(ビデオフォーマット版」では第24話「最後のシ者」の作中に「アダムの幼体」が融合した「碇ゲンドウの手」の画が映るカットが差し込まれています。しかし、作中ではそれが「アダムの幼体」である事をはっきりと示すものは用意されていません。その見た目と渚カヲルの台詞とから恐らくそうだろうと推測は出来るものの、確信は持てないところとなっています。この「DEATH(TRUE)2」編での「アダムの幼体」と「碇ゲンドウの手」とを連続で映し出している場面は、言葉は用いていませんが、「ビデオフォーマット版」を見た者にとっては直接的で分かり易い解答と言えるものであり、「ビデオフォーマット版」での推測を確信に変えるものであると言えるのでは無いかと思います。)

(※※この「碇ゲンドウの手」は、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」には見られないものであり、「TV」から直接「DEATH(TRUE)2」編を見た場合にはここが初出となるのですが、それが何であるかは、即ち、それが、「アダムの幼体」が「碇ゲンドウの手」に融合したものであると言う事は、ここでの「アダムの幼体」を映した齣と、謎の物体が融合した「碇ゲンドウの手」を映した齣との繫がりから、容易に想像出来るのでは無いかと思います。ただ、この段階では「二つの齣の繫がり」以外に判断材料が無く、それだけでは確信は持てないところであるかと思います。(これに関しては、ここで無理に判断を付けなくても、恐らく、「まごころを、君に」編を見た際に、そこでの碇ゲンドウの言葉や行動(「言動」とは書きたく無いところです...)から、確信が持てるようになるのでは無いかと思います。))

(※※※TV版「新世紀エヴァンゲリオン」から「ビデオフォーマット版」を見ずに直接「DEATH(TRUE)2」編を見た場合に、ここで「アダムの幼体」と「碇ゲンドウの手」との関連性を見過ごしてしまうと、その後にある「まごころを、君に」編での碇ゲンドウの言葉や行動に対する理解が難しいものとなってしまいます。「ビデオフォーマット版」を見ていない場合は物語の理解に影響する場面、続編を見る上で見逃せない場面になっていると言えます。一方、「ビデオフォーマット版」から「DEATH(TRUE)2」編を見た場合は、ここで「アダムの幼体」と「碇ゲンドウの手」との関連性を見過ごしても、「ビデオフォーマット版」での「碇ゲンドウの手」の映像や渚カヲルの台詞から、「まごころを、君に」編での碇ゲンドウの言葉や行動を理解する事は可能であると言えます(そこで「ビデオフォーマット版」での推測も確信に変わるかと思います)。「ビデオフォーマット版」を見ている場合は見逃しても取り返しが付く場面であると言えます。))

アダムの幼体 : 「DEATH」編

「DEATH(TRUE)2」編では「アダムの幼体」が映った後に...。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

「アダムの幼体」が融合している「碇ゲンドウの手」 : 「DEATH」編

掌に謎の物体が融合した「碇ゲンドウの手」が映し出される。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

「アダムの幼体」が融合している「碇ゲンドウの手」 : 第24話「最後のシ者」(ビデオフォーマット版)

第24話「最後のシ者」(ビデオフォーマット版)より。「アダムの幼体」が融合した「碇ゲンドウの手」が映る場面は「TV版」には無かったが、「ビデオフォーマット版」になって追加されている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

渚カヲル

場面は、エヴァンゲリオン零号機の爆発跡に出来た湖、その畔で碇シンジが渚カヲルと出会う場面へと移ります。

碇シンジと渚カヲルとの出会いの場面から、場面は、渚カヲルがエヴァンゲリオン弐号機を連れてアダム(リリス)を目指す場面、それを阻止するために碇シンジがエヴァンゲリオン初号機で出撃する場面、出撃後、渚カヲルの後を追い、追い付き、渚カヲルの連れているエヴァンゲリオン弐号機と交戦する場面、エヴァンゲリオン弐号機を倒したエヴァンゲリオン初号機がリリスの前で渚カヲルを握り捕らえる場面と続きます。ここで場面は「DEATH」編の序盤に置かれていた「その数ヶ月後――彼は、決断を迫られていた。」の文字列後の場面へと繫がった事になります。

そこから、エヴァンゲリオン初号機が渚カヲルを握り殺し、渚カヲルの首が落ちたところで「DEATH」編の本編は終了となっていました。

「DEATH」編 エンディング - ヨハン・パッヘルベル「カノン」

エンドロールは縦書きで左から右へと流れて行く形になっていました。

背景音楽には所謂「パッヘルベルのカノン」が使われていました。ここで使われたヨハン・パッヘルベルの「カノン」は、劇中で碇シンジ、惣流・アスカ・ラングレー、綾波レイ、渚カヲルの四人が奏でていた弦楽四重奏では無く、チェンバロが入ったものになっていました。

エンドロール終了後、碇シンジが講堂から去って行きます。碇シンジが講堂から去った後、「続劇」と書かれた「文字列齣」が表示され、「DEATH」編は幕を閉じていました。

碇シンジが講堂から去る場面を見ると、碇シンジが講堂に入って来た時と同じ角度で外光が差し込んでいます。(影の出来る方向、影の伸びる長さが変わっていません。これは惣流・アスカ・ラングレー、綾波レイ、渚カヲルが講堂に入って来た時もそうです。)碇シンジが講堂にやって来たのが演奏開始二十二分前、演奏時間を五分強とし、楽器を片付ける時間も考えると、碇シンジが講堂にやって来てから少なくとも三十分弱は経っているものと思われます。三十分弱もあれば一見して分かるくらいの光の違いは出ていなければならないのですが...。それが無いと言う事は、もしかすると四人以外の時間が止まっている世界なのかも知れません...。(それとも手を抜いているだけなのでしょうか...。)

碇シンジが講堂にやって来た場面 : 「DEATH」編

碇シンジが講堂にやって来た場面。二十二分後に演奏が開始される。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

碇シンジが講堂から去って行く場面 : 「DEATH」編

演奏終了後、碇シンジが講堂から去って行く場面。碇シンジが講堂にやって来た時と同じ角度で外光が差し込んでいる。碇シンジが講堂にやって来てから少なくとも三十分弱は経っているものと思われる事から考えると、一見して分かる程度の光の違いは無ければならないところだが...。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

休息(INTERMISSION)

DEATH」編終了から「REBIRTH」編が開始されるまでの間に休憩時間が設けられていました。(「DEATH(TRUE)2/Air/まごころを、君に」では「Air」編が開始されるまでの間の事となります。)

画面には上から「休息」、「INTERMISSION」、「00:04:24」と表示され、曲が流れる中、「00:04:24」が「00:00:01」まで減ったところで休息時間の終了となっていました。

ここで気になったのは「00:04:24」と言う数です。これは、単に曲が終るまでの長さと言う事も考えられますが、何か意味があってのものと言う事もありそうです。

そこで、姫なりに色々と考えてみたのですが...これは、結果から言うと...あれこれと試してみたものの、それらしい答えを何一つ見つける事が出来ずに終わりました...。

その中で言えば次のものが、多少、それらしくあるかと思います。それは、「00:04:24」を「4」と「24」との組み合わせとし、「4」を「し」と読み、「24」に五十音の二十四番目である「ね」を当てて「しね」と読むと言うものです。漢字を当てるとするなら「死ね」や(後ろで音楽が流れている事から)「死音」になるのでしょうか...。(「DEATH」編の後である事を考えると(「死ね」に関しては動詞になってしまいますが...)それらしくはあるように思います。)また、カウントダウンが「00:00:00」まで行かずに「00:00:01」で止まる事から、「00:04:24」を実質「00:04:23」であると見做し、後は同様にして「しぬ(死ぬ)」と読むと言う解釈も出来ます。何にしても今一つですが...。

他にも、「00:04:24」を「424」としたり、秒に直して「264」としたり、それらを分解したりするなどし、変換方法も、語呂合わせ、暦(年月日や日数)や五十音やアルファベットやアスキーコードを当てる、ヘブライ語やギリシャ語での数価を使うなどしてはみたのですが...。ここは、今後、良い解釈を思い付いたら書き足そうかと思います。

シト新生 DEATH & REBIRTH : EVANGELION:REBIRTH

REBIRTH」編では第弐拾四話「最後のシ者」が終った時点からの続きが描かれています。それはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」とは異なる内容であり、もう一つの終わりへと向かう物語となっています。

但し、「REBIRTH」編ではその物語は結末まで辿り着かずに終わっています。それが最後まで描かれるのは新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」での事となります。

「REBIRTH」編は「Air」編で扱う事に

次の作品である新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」では、「REBIRTH」編の終わりから続きが描かれるのでは無く、「REBIRTH」編を最初から辿り直した上でその続きが描かれています。そのため、最初から途中までの内容...「Air」編と「まごころを、君に」編とから成る内の「Air」編の最初から途中までの内容...が「REBIRTH」編と(ほぼ)同じ内容となっています。

記事を書く立場から言えば、ここで「REBIRTH」編を扱い、更に「Air」編でも(ほぼ)同じ内容を繰り返し扱うと言う事は避けたいところです。そこで、「REBIRTH」編の内容はここでは扱わず、「Air」編の方で扱う事にしました。「Air」編を辿って行く中で「REBIRTH」編は消化出来ますし、それで記事を書く手間を減らせればと思います。

タイトル表示

右に90度転倒した「EVANGELION」の文字が表示された後に「:REBIRTH」の文字が表示されていました。(「Air」編ではここで「第25話 Air」と表示されます。)

右に90度転倒した「EVANGELION」の文字 : 「REBIRTH」編

「REBIRTH」編では右に90度転倒した「EVANGELION」の文字が表示された後に...。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

「:REBIRTH」の文字 : 「REBIRTH」編

「:REBIRTH」の文字が表示される。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

「REBIRTH」編 エンディング - 魂のルフラン

  • 主題歌「魂のルフラン」
    • 詞 : 及川 眠子
    • 曲・編 : 大森 俊之
    • 歌唱 : 高橋 洋子

REBIRTH」編の本編は、ジオフロントに九機の量産型エヴァンゲリオンが降りて来て「魂のルフラン」が流れ出したところで終わります。その後、曲がそのまま流れる中、画面を切り替える形でのスタッフ紹介、「EVANGELION:REBIRTH」の表示、「完」の表示、エンドロール(スタッフロール)と移って行きます。

これは「REBIRTH」編独自のものであり、「Air」編では「魂のルフラン」は流れず、エンディングロールも無く、そのまま話が進みます。この辺りも詳しいところは「Air」編の方に回したいと思います。

ジオフロントに降りて来る九機の量産型エヴァンゲリオン : 「REBIRTH」編

ジオフロントに九機の量産型エヴァンゲリオンが降りて来る場面。「魂のルフラン」が流れる中、本編が終り、エンディングへと移る。(「Air」編では同場面で「魂のルフラン」は流れず、エンディングにも移らず、そのまま話が進む。)

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

スタッフ紹介の画面 : 「REBIRTH」編

エンディングではスタッフ紹介の画面表示が行われ...。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

「EVANGELION:REBIRTH」の文字 : 「REBIRTH」編

「EVANGELION:REBIRTH」の表示...。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

「完」の文字 : 「REBIRTH」編

「完」の表示と続き...。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

エンドロール(スタッフロール) : 「REBIRTH」編

エンドロール(スタッフロール)に入る。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」へと続く

以上のように新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」では物語は完結まで描かれずに終わっています。それを完結まで描いたものとして後に出て来るのが、この記事の中でも何度か出て来た新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」になります。劇場版「Air/まごころを、君に」では、「Air」編で「REBIRTH」編の辿り直しと、そこからの続きとが描かれ、「まごころを、君に」編で「Air」編での続きから完結までが描かれています。TV版「新世紀エヴァンゲリオン」の第弐拾四話(第24話)から分岐した物語は、そこでもう一つの終局を迎える事となります。

「シト新生 DEATH & REBIRTH」に就いて

見ずに飛ばして構わない場合、そうで無い場合

新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」は、「DEATH」編が総集編、「REBIRTH」編が新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」の「Air」編の途中までの内容となっています。そのため、物語上は見ずに飛ばしても影響が無い作品であると言えます。

但し、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」から新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」を直接見る場合、「Air」編での「リリス」が映る場面では「リリス」に何時の間にか下半身が生えている事になりますし、「まごころを、君に」編では碇ゲンドウが言う「アダムは既に私と共にある」の意味や、碇ゲンドウが「アダムとリリスの禁じられた融合」と言って綾波レイの身体に手を埋める、その行動の意味が理解し難くなります。「REBIRTH」編は「Air」編で辿り直しているので見なくても全く問題無いのですが、「TV」から劇場版「Air/まごころを、君に」を見る場合には、その辺りの事から「DEATH(TRUE)2」編は挟んだ方が良いように思います()(※※)。「DEATH」編、「REBIRTH」編の両方を飛ばしても物語上の影響が無いと言えるのは「ビデオフォーマット版」の第21話「ネルフ、誕生」から第24話「最後のシ者」を見た場合に限ります。

(DEATH」編では、エヴァンゲリオン零号機がアダム(リリス)からロンギヌスの槍を抜いた際にアダム(リリス)に脚部が生じる様が描かれています(「ビデオフォーマット版」もそうです)。これはTV版「新世紀エヴァンゲリオン」には無かったものであり、そのため、「TV」から新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」を見た場合には、何時の間にかリリスに脚部が生じていると言う事になります。物語上で言えば脚部が生じたのが何時なのかは、さして、重要な事では無く、分からなくても構わない事であると言えるのですが、見ておけばそう言った疑問を持たずに済むようにはなります。)

(※※DEATH(TRUE)2」編では、一瞬しか映りませんが、碇ゲンドウの掌に融合している物体が「アダム」がである事を示すカットが用意されています。「ビデオフォーマット版」を見ていれば「DEATH(TRUE)2」でのそのカットを必要とせずに新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」の「まごころを、君に」編での碇ゲンドウの言葉の意味や行動の意味を理解する事も可能なのですが、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」しか見ていない場合は「DEATH(TRUE)2」でのそのカットだけが頼りとなります。「TV」から劇場版「Air/まごころを、君に」を見るのであれば、そこでの理解を助けるものとして、先に「DEATH(TRUE)2」編を見ておいた方が良いと言えます。)

EVANGELION:DEATH

DEATH」編はTV版「新世紀エヴァンゲリオン」の第壱話から第弐拾四話までの総集編となっていますが、人物を追ったり、人と人との繫がりを追ったり、事柄の関連を追ったりして行く形で話を繫いでいるため、話が飛び飛びになっている箇所も多く、物語の流れが掴み難い作りとなっています。これまでの物語を順に振り返る類のもの、「これを見ただけで続編に入って行く事が出来る」と言う類のものでは無いと言えます。(元々、そう言う類のものとしては作っていないのだと思います。)

ビデオフォーマット版」を見ているならば物語上は見なくても構わないと言えるのですが、見るならば、これまでの物語を全て見た上で「続きを見る前に気持ちを高めるためのもの」として見ると良いのでは無いかと思います。

EVANGELION:REBIRTH

REBIRTH」編は物語を完結させずに途中で終わってしまっていますが、その終わり方が、そこまでの展開もあって、非常に続きが気になる終わり方、続きを見ずにはいられなくなる終わり方になっています。(少なくとも、姫が今まで見たアニメ作品の中では最も「続き」を期待させ、最も「続き」を見たくなる終わり方でした。)

内容が新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」の「Air」編と重複している事から、物語上は見なくても全く問題が無いと言えるのですが、劇場版「Air/まごころを、君に」を見ていないのであれば、それへの期待を高めるために見るのも良いかと思います。

一つの作品として

DEATH」編は、新規カットや演出上の工夫が見られるものの、総集編である事には変わり無く、大部分は既存の素材を組み合わせて作ったものとなっています。「REBIRTH」編は、こちらは新作ですが、新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」の「Air」編と内容が重複している上に、「映画作品」としては、幾ら続編を前提にしているにしても、如何なものかと思えるほど終止感が弱く、非常に中途半端と言えるところでの終わりとなっています()。(姫は当時の事は知らないため(生まれていません...)、これは推測になるのですが、続編の「Air」編を見る限りでは...恐らく、「本来予定していた区切り」に届かない状態で作品を公開しなければならなくなり、そのため、苦肉の策として、既に作り終えていた部分の中から終わりに使えそうな箇所を選んで終わりとしたのでは無いかと思います。或は、作り終える事が出来そうな中から終わりに使えそうな箇所を選び、そこまで仕上げて終わりとしたのでは無いかと思います。終止感の弱さや中途半端な終わり方はそのためであると思われます。)新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」はそれらを合わせたものであり、やはり、一つの作品として見た場合、完成度が低く、これだけで楽しむ事は難しい作品であるように思います。(本当に「繫ぎの作品」でしか無く、元々、一つの作品として見るためのものでは無いのだろうと思います。)

(続編の制作を前提とした作品と言うのは終止感が弱くなりがちかと思いますが、それでも「映画作品」となれば、物語の一つの節目となるところである程度の終止感を持たせて作品を終えなければならないのでは無いかと思います。「REBIRTH」編はと言うと、続編の制作を前提にした「映画作品」にしても如何なものかと思えるほど終止感が弱く、非常に中途半端な場面で終わりを迎えています。これは、新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」の「Air」編を見ると、「本来予定していた区切り」に届かない箇所で終らせなければならなくなり、そうしたものと思われるのですが、もし、本当にそうであるなら、このような終わり方になるのもある程度仕方が無い事と言えるのかも知れません...(※※)。しかし、そうであったとしても、もう少し取り繕えなかったものかとは思います。それほど、終止感が弱く、中途半端な終わり方であるように感じられます。(もしかすると、一作品としての完成度など気にせずに敢えて取り繕わずにこうしたのかも知れませんが...。何にしても「映画作品」として完成度が低い作品である事には変わりが無いと言えます。)その終わり方を見ると、「映画作品」でありながら、次週へ続く「連続TVシリーズ」のような終わり方に見えてしまいます...。)

(※※商業上の作品を世に出すのであれば、やはり、きちんと完成させて世に出すべきでは無いかと思います。また、もし、事情があって「本来予定していた区切り」に届かない状態で世に出すにしても、それを一作品として世に出すからには、物語の一つの節目となる終わりを付けるべきでは無いかと思います。ただ、これは、物語上、それがすんなりと出来る場合は良いとして、そのために物語を犠牲にしなければならないと言う場合には、そうも言い切れなくなるところかと思います。即ち、(強い終止を付けるためにどの程度の犠牲を必要とするか、どの程度の犠牲まで許容出来るかによっても判断が変わって来るところかと思いますが、)物語を犠牲にするくらいならば強い終止を諦めて物語を優先するべきと判断し、敢えて弱い終止のまま終らせると言う事もあって構わないのでは無いかと思います。「REBIRTH」編は如何かと言うと、完成した範囲、或は完成させる事の出来る範囲で終止感の強い切れ目に恵まれなかったのだろうと思われますが、これは、その中で続編に影響が出るような無理はせずに物語を終らせている(中断させている)ように感じられます。即ち、終止の強さよりも物語を優先しているように感じられます。そして、もし、そうであり、そのために中途半端な終わり方になったのであれば、「REBIRTH」編の中途半端な終わり方は仕方が無いものであったと言えるのでは無いかと思います。但し、これは、理解出来ると言うだけであり、それが良い事であるとは、到底、思えません...。(受け手は(少なくとも姫は)、作り手がそれを世に出して来たからには未完成品であっても他の完成品と同じように「作り終えた一つの作品」として見るものであり、このような中途半端な終わり方に対しては、当然、不満が残るものです。)作り手も世に出すからには「未完成なので大目に見て欲しい」と言うのは通用しないと言う事は分かっている事と思いますので、やはり、最初にも書いたように、世に出すからにはきちんと完成させてから出すべきなのだろうと思います。(姫の勝手な感覚ですが...これが「前編」とでもなっていれば、また、終止感の弱さも、幾分、受け入れ易くなっていたのでは無いかと思います...。(「前編」(や「中編」)と言う言葉には終止感の弱さから来る一作品としての完成度の低さを多少は誤魔化せる働きがあるように感じます。)ただ、「REBIRTH」編は、続編の事も考えると、「前編」と付けて済ませるには何かと問題がありそうですが...(※※※)。))

(※※※REBIRTH」編は、そのタイトルの意味(「再生」)から言うと、新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」の「まごころを、君に」編の終わり(碇シンジの「再生」の終わり)が「REBIRTH」編の終わりであると思われ、(即ち、「REBIRTH」編の完成形が劇場版「Air/まごころを、君に」であると思われ、)前後編の形で言うならば...「REBIRTH」編を辿り直し、その後の話も描いた「Air」編が「REBIRTH」編の前編...そこから完結まで描いた「まごころを、君に」編が「REBIRTH」編の後編...と言えるかと思います。そして、その中で言えば、「REBIRTH」編は「前編」としてすら未完成であると言え、後に「Air」編が控えている中でこれを「前編」とする事は無理があると言えるのでは無いかと思います。即ち、終止感の弱さから来る一作品としての完成度の低さを「前編」と言う言葉を使って誤魔化すと言う手段は使えないものと思われます。(その代わり、「前編(未完)」とする事によって、完成度の低さ、終止感の弱さを「仕方が無い」ものとする事は可能です。ただ、その場合、取り繕えなかった事に対する開き直り感や、完成度の低さ、終止感の弱さに対する言い訳がましさを、その有る無しに関係無く、受け手に感じさてしまうところが出て来るかと思います。未完である事は確かであり、正直ではあるのですが、そう言った事は作品の不出来な部分に対する「辯明」をタイトルを使って行っているかのよう思われ兼ねないと言え、作り手としては避けるべき事であるように思います。(そもそも、未完で世に出す事から避けなければならないと言えるのですが...。)結局、「REBIRTH」編の完成度の低さに対して、万事を上手く取り繕う手段は無いのだろうと思います。))

では、見る価値が無い作品なのかと言うと、そうでは無いと思います。TV版「新世紀エヴァンゲリオン」の第壱話「使徒、襲来」から第弐拾話「心のかたち人のかたち」-「ビデオフォーマット版」の第21話「ネルフ、誕生」から第24話「最後のシ者」を見ているのであれば物語上は見ずに飛ばしても影響が無い作品である事は確かだと言えますし、見るにしても、重複している「REBIRTH」編を見ずに、「DEATH(TRUE)2」編を見ておけば十分...即ち、「TV」の第壱話から第弐拾話-「ビデオフォーマット版」の第21話から第24話-「DEATH(TRUE)2」編-新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」と見れば十分だと言えます。しかし、当時の人達の心境に近づくためのものとしては、この新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」は有用であると思われます。特に、劇場版「Air/まごころを、君に」をまだ見ていないのであれば、当時の人達が完結編までの間、如何に大きな期待を抱いていたか、如何にその公開を心待ちにしていたかを感じるための良い材料となるものと思われます(※※※※)(※※※※※)。

(※※※※今になって見たところで、熱狂の渦の中で見たと思われる当時の人達と同等の気持ちを得られる事は無いと思うのですが、それでも何分の一かは似た感覚を得る事は出来るのでは無いかと思います。そして、それは、同等のものでは無いにしても、当時の人達の気持ちを想像する上での大きな手助けになるのでは無いかと思います。)

(※※※※※既に新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」を見ている場合は、当時の人達とは異なり、先に続きを見てしまっている事になり、その違いがある分、当時の人達の心境を感じる取るための材料としての効果は弱くなるかと思います。しかし、知で捉え、想像で補い、分かった気になるための資料としては役立つのでは無いかと思います。)

「シト新生 DEATH & REBIRTH」の感想

姫は新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」を見てから新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」を見たのですが、先に劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」を見た事によって、続編に対する大きな期待や、続編を強く待ち望む気持ちを持って(上手く植え付けられた状態で)劇場版「Air/まごころを、君に」を見る事となりました。そのため、勿論、当時の人達の感覚のままとまでは行かないと思いますが、劇場版「Air/まごころを、君に」をある程度生々しく見る事が出来たように思います。それは、劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」のお蔭であり、非常に良い事だったと思います()。

(当時の人達は、恐らく、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」の第弐拾伍話「終わる世界」-第弐拾六話「世界の中心でアイを叫んだけもの」での終わり方には納得出来ずに不満を持っていたものと思われます。そして、それを解消するものが期待され待ち望まれる中で出て来たのが新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」であったのだろうと思います。しかし、それは期待に反し完結まで描かれずに終わっていたため、当時の人達は、更に、続編(完結編)を待たなければならなくなった筈です。それも、あの終わり方...続編への期待を持たせる終わり方、続きを気させる終わり方を見せられた上で...。恐らく、当時の人達の中にあった続編への期待や、その公開を待ち望む気持ちは、この劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」によって、更に大きく、これ以上無いほど膨らんだのでは無いかと思われます。その中で、やっと、公開された作品が新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」であったのだと思います。劇場版「Air/まごころを、君に」にを見る際に、そう言った気持ちを感じて強い熱を持った目線で見るか、そうで無いか、それによって劇場版「Air/まごころを、君に」に対する感じ方は変わって来るものと思われます。待ちに待ち、期待に期待した続編であった事を多少なりとも感じながら見るか...それとも、劇場版「Air/まごころを、君に」を単なるTV版「新世紀エヴァンゲリオン」の第弐拾四話「最後のシ者」、或は「ビデオフォーマット版」の第24話「最後のシ者」の続編として見るか...姫としては見るのであれば、やはり、前者として見たいところです。そして、そうする事が出来たのは、作品を楽しむ上で非常に良い事だったと思います。)

色々と書きましたが、新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」は新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」をより楽しむためのものとして必要な作品であると言え、これから劇場版「Air/まごころを、君に」を見るのであれば、その前に見ておいた方が良いと言える作品であると思います。

解説サイトとして

このサイトは「エヴァンゲリオン」の解説サイトなのですが...新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」に関しては解説が殆ど無いまま書き終える事となってしまいました...。これは、一つは、「DEATH」編が総集編であった事によります。場面の繫ぎ変えや見せ方の工夫、新規カットの追加はあるものの、総集編である事には変わり無く、結局、大半が場面の流れを追うだけのものとなってしまいました。もう一つは、「REBIRTH」編が新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」の「Air」編と重複した作品であった事によります。こちらは新作であり、解説を付けたい部分は色々とあったのですが、「Air」編との重複を考えると、そちらで扱った方が何かと楽だろうとの判断(書き手の都合)から、ここでは内容を殆ど扱わずに済ませました。それらの結果、解説が殆ど無い記事になってしまったと言う次第です...。解説サイトの立場から言えば、劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」は繫ぎの作品でしか無く、扱う必要があると思える内容が余りに少ない作品であったと言えます。

一視聴者として

一視聴者として感想を言うと...一度目は興味を持って見る事が出来ましたが、二度三度と繰り返し見たくなるような作品では無いと思いました。「DEATH」編は総集編と言う事もあり、退屈に感じる時間が結構ありましたし、「REBIRTH」編は、エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」の「Air」編との重複から、「Air」編を見る前に一度見れば十分であると感じました。先に書いたように、新世紀エヴァンゲリオン劇場版「シト新生 DEATH & REBIRTH」は「エヴァンゲリオン」と言う作品を楽しむためには見ておいた方が良い作品であるとは思うのですが...姫にとっては退屈な作品と一度見れば十分な作品との組み合わせであったと言えます。ただ、先にも書いたように見て良かったとは思います。

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