新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 第26話「まごころを、君に」 【解説】

第26話「まごころを、君に」

新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に THE END OF EVANGELION」から「まごころを、君に」編を扱って行きます。「まごころを、君に」編ではサードインパクトが引き起こされ、碇シンジによる世界の拒絶によって人類は補完へと導かれます。ここでは碇シンジの心とサードインパクト現象の解釈を中心に見て行きたいと思います。

THE END OF EVANGELION

本編開始前。赤い十字の領域内に「THE END OF EVANGELION」と書かれた画面()が表示されます。

(これは旧リリース版の「新世紀エヴァンゲリオン劇場版」(「DEATH(TRUE)2 & REBIRTH」+「Air/まごころを、君に」)に収録されている「まごころを、君に」編と、新リリース版の「新世紀エヴァンゲリオン劇場版」(「DEATH(TRUE)2」+「Air/まごころを、君に」)に収録されている「まごころを、君に」編とでの事であり、旧リリース版の「新世紀エヴァンゲリオン Volume7」(「TV版」の最後の二話と「劇場版」の二話(から劇場版らしさを取り除いたもの)とが交互に収録されている(「終わる世界」、「Air」、「世界の中心でアイを叫んだけもの」、「まごころを、君に」の順で収録されている))に収録されている「まごころを、君に」編では同箇所は「THE END OF EVANGELION」では無く「NEONGENESIS EVANGELION」になっています。)

赤い十字の領域内の「THE END OF EVANGELION」の文字

旧リリース版の「新世紀エヴァンゲリオン劇場版」、新リリース版の「新世紀エヴァンゲリオン劇場版」の「まごころは、君に」編では赤い十字の領域内に「THE END OF EVANGELION」と書かれている。(引用画像は新リリース版「新世紀エヴァンゲリオン劇場版」。)

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

赤い十字の領域内の「NEONGENESIS EVANGELION」の文字

旧リリース版の「新世紀エヴァンゲリオン Volume7」の「まごころを、君に」編では赤い十字の領域の文字が「NEONGENESIS EVANGELION」になっている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

「まごころを、君に」とは?

第26話には「まごころを、君に」と言うタイトルが付けられています。

「まごころ」は本当の心、嘘偽り裏表の無い真の心を表す一方で親身になって相手の事を想う心を表す言葉として用いられる事もあります。ここでの「まごころ」がどちらを指して使われているのかは分かりません。視点によってどちらにでも思えて来ます。

この「まごころ」が誰の「まごころ」なのかに就いても分かりません。世間の上に置かれている「まごころ」なのか、作り手側の用意した「まごころ」なのか、その両方なのか。どれにでも思えます。

また、「君」に就いては誰を指してのものなのか見当が付きません。これは...碇シンジと言う可能性もありますし、夢を見ようと集まり劇場(夢)を後にして現実へと帰って行く人々と言う可能性もあると思います。

「まごころ」に関しても「君」に関しても推測と言うよりはもはや臆測でしか無く、結局、何も分からないに近い状態です...。

ターミナルドグマ リリスの前 : 碇ゲンドウと綾波レイ

以下、ターミナルドグマでの碇ゲンドウの台詞から。

碇ゲンドウ :「アダムは既に私と共にある。ユイと再び会うにはこれしか無い。アダムとリリスの禁じられた融合だけだ」

アダムは既に私と共にある」の言葉の指すところはこの「まごころを、君に」の劇中だけでは理解する事は出来ませんが、第24話「最後のシ者(ビデオフォーマット版)」を見るとアダムの胎児と思われる物体が碇ゲンドウの右手の掌に張り付いている場面がある事から、ここでの碇ゲンドウの台詞はその事を、自分の右掌にアダムが宿っていると言う事を指してのものだと思われます。

アダムと思しき物体 : 第24話「最後のシ者」(ビデオフォーマット版)

第24話「最後のシ者」(ビデオフォーマット版)より。碇ゲンドウと思しき人物の右手に張り付いているアダムと思しき物体。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

碇ゲンドウの人類補完計画は碇ユイと再び会う事を主目的として行われるものであり、それはアダムとリリスの融合によって叶えられるようです。使徒の源流となったアダム(聖書の世界では人類の始祖)と使徒と敵対する人類の源流となったリリス(ユダヤの民間伝承ではアダムの最初の妻であり、リリン(「エヴァンゲリオン」では人類)の母たる存在)を溶け合わせ、恐らくは新たな単体を作り出そうとしているものと思われます。全ては臆測であり、全くの的外れである可能性も多大にありますが...。

主目的は碇ユイとの再会にあると言う事は分かりましたが、アダムとリリスの融合によって果たされる再会がどう言った形のものになるのかは不明です。

碇ゲンドウ :「時間が無い。A.T.フィールドがお前の形を保てなくなる。始めるぞ、レイ」

碇ゲンドウ :「ATフィールドを、心の壁を解き放て。欠けた心の補完...不要な身体を捨て全ての魂を今一つに。そしてユイの下へ行こう」

この場面では綾波レイの左腕は取れて床に落ちていました。この落下した左腕は一見すると(?)肘関節の曲がり方が逆のように見えます。

落下した綾波レイの左腕

落下した綾波レイの左腕。一見すると(?)肘間接の曲がり方が逆に見える。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

綾波レイの左腕が落ちた後、碇ゲンドウは「A.T.フィールドがお前の形を保てなくなる」と言っていますが、「エヴァンゲリオン」の世界では心としての個(自我)が物質としての個(個体)を形成していると言う前提のようです。

渚カヲルはA.T.フィールドの事を「心の壁」と言っていましたが、ここでは碇ゲンドウも同じように表現しています。個としての境界、個としての領域の外壁のようなイメージで捉えると良いのかも知れません。

人類補完計画に就いては「...全ての魂を今一つに」と言っているところを見ると碇ゲンドウは碇ユイに会う事だけで無く...それが主目的なのは間違い無いようですが...人類の補完の事も考えてはいるように思えます。

碇ゲンドウは(アダムの胎児の付いている)右手を綾波レイの左胸(心臓)に埋め込み、そのまま綾波レイの下腹部(子宮)へと腕を下ろしていました。これが碇ゲンドウの行おうとしている人類補完計画の最初の段階のようです。子宮へと腕を下ろされた綾波レイは小さな声で呻いていました。

碇ゲンドウの右手

綾波レイの体内に埋め込む前の碇ゲンドウの右手。この場面からでは掌のアダムが確認出来ないが恐らくアダムが宿されているものと思われる。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

物語の流れとは関係ありませんが、ここではリリスからLCLらしき液体が再び流れ出していました。(これは前回(第25話「Air」)の終わりの方では流れ止んでいました。)

リリスから流れ出るLCL

リリスから流れ出るLCLらしき液体。流れ止んだかのように見えたが再び流れ出している。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

タイトル表示 - 第26話 まごころを、君に

ここでタイトル「第26話」、「まごころを、君に」が表示されます。

(タイトル「まごころを、君に」に対する考察は既に上記で扱っていますので、ここでは扱いません。)

「第26話」の文字

「第26話」の文字が表示される。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

「まごころを、君に」の文字

続いて「まごころを、君に」の文字が表示される。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

ネルフ本部上空 : エヴァンゲリオン初号機と碇シンジ

エヴァンゲリオン初号機の中の碇シンジはエヴァンゲリオン弐号機の残骸を見て絶叫します。それと共にエヴァンゲリオン初号機の拘束具が外れ、それまで羽根のようだったオレンジ色の光は四方へと展開されてエヴァンゲリオン初号機を中心に十字型を形成していました。

続いて月面からはロンギヌスの槍(オリジナル)が高速で飛来します。僅かな時間で地表に到達しているところを見るとかなりの速度のようでした。

ロンギヌスの槍(オリジナル)は、飛来後、そのままエヴァンゲリオン初号機の喉元へと突き付けられていました。カバラ的に言えばダート(知)に剣を突き付けられた状態として捉える事も出来ます。

ロンギヌスの槍がどのような力によって戻って来たのかは不明です。この事に関するSF的な説明は一切ありません。オカルト的な謎の力...なのかも知れません。

碇シンジは全く抵抗を見せずにいました。未だに自分からは何もしようとしない状態が続いているようです。

ネルフ本部上空 : 生命の樹の出現

ゼーレが儀式の開始を告げるとエヴァンゲリオン初号機はエヴァンゲリオン量産機によって両手を槍で貫かれ、光の羽根を噛まれ、その状態のまま上空へと連れて行かれていました。ゼーレはエヴァンゲリオン量産機を思ったように動かせるようです。

これを見た冬月コウゾウは「初号機を依代とするつもりか」と言っていました。この言葉からするとゼーレにとっては初号機は、この状況では利用する価値はあるようですが、「最初から絶対に必要な要素だった」とは言えないもののように感じます。

以下、ゼーレの台詞と、儀式の続きです。

ゼーレ :「エヴァ初号機に聖痕が刻まれた」、「今こそ中心の樹の復活を」、「我らが僕、エヴァシリーズは皆、この時のために」

この後、エヴァンゲリオン量産機はエヴァンゲリオン初号機を中心(ティファレト)に生命の樹のセフィラの配置に並び、S2機関を解放してアンチA.T.フィールドを展開。10機のエヴァシリーズの周囲には円形が出現し、生命の樹(セフィロト)が形成されていました。このセフィラの配置は上下を逆さまにした配置になっていました。

更に単純な円形の配置だった生命の樹の上に生命の樹の図が重なり出現します。この図もエヴァシリーズの配置(セフィラの配置)に合わせる形で逆さまにした状態で重ねられていました。

上空のエヴァシリーズに重ねられた図はキルヒャーの「エジプトのオイディプス」からの図であり、姫もこれと、これの英語に訳されたものとを資料として持っています。

空中に出現した「生命の樹」の図(「エジプトのオイディプス」より)

「生命の樹」の図が空中に出現。但し、上下は逆さまの状態になっている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

姫としてはここでの空中でのこの図の描画は余り感心出来ません。

そもそも「生命の樹の概念図」を空間に出現(具現化)させる事、それ自体の意味が理解し難いのですが、3次元空間に出現させるのであれば、せめて3次元なりの工夫をして欲しいと思いました。例えば...セフィラ(球)を「円形」では無く「球形」にする...などと言ったように。(それでも「概念図」を空間に具現化する事の意味が出る訳ではありませんが。無意味なりにも工夫があった方がまだ良かったと思います。紙媒体に書くような資料的概念図を3次元空間にただ浮かび上がらせるだけよりは。)

また、図を出現させるにしても基本的にはセフィラだけでも事足りそうですし、セフィラ以外に描くとしても神名、天使名、パスぐらいまであればそれほど違和感は無いように思いますが、ここでの空中での図にはセフィラのヘブライ語のラテン表記とその訳語、パス番号、パスに対するヘブライ語アルファベットの対応など、更には生命の樹の各所の説明部分までが含まれています。ここまで行くとどこからどう見ても「ただの資料図」に見えてしまいます。もしかするとこの場面では敢えて資料的な図を空中に描き出したのかも知れませんが、その深い意味を姫は見付けらず、そのためかどうしても...デザイン重視...それも中身など関係無く、ただそれらしく見えれば良いと言う安易な感覚に基づいての事であるよう思えてしまいました。(もし、本当にそうだとするなら残念でなりません。)空間に生命の樹を具現化するとしても既存の資料図を殆どそのまま使うような事は避けた方が良かったのでは無いかと思います。

「生命の樹」の図(「エジプトのオイディプス」より)

手元の資料より「生命の樹」の概念図。出典はキルヒャーの「エジプトのオイディプス」。劇中では(一部の箇所が削られてはいるが)この図が上下逆さまの状態で上空に出現している事になる。この図は「TV版」のオープニングや、執務室の天井にも見られる。

「生命の樹」の図(「エジプトのオイディプス」より)(英語訳)

手元の資料より「生命の樹」の概念図。こちらは前出の図の英語訳版となっている。こちらも見掛ける頻度が高い。(手元にあったので序に掲載。)

ここでは生命の樹の上下が逆転していますが、以下ではその事に就いて少し考察してみます。

本来、生命の樹は樹を模して根、幹、枝、葉を使って描かれる場合は、根(ケテル)を天に持ち、地へと伸びる、倒立した樹として描かれます()。それが上下を逆転させた形で描かれていると言う事は、ここでの生命の樹は、根(ケテル)を下に持ち、そこから上へと伸びる樹、(天(根源)が下に来て、地が上にありますので、そう言う意味では普通ではありませんが、樹を模した絵としては)通常の天地を持った樹と言う事になります。

(但し、中には枝葉を上、根を下に持ったもの、即ち、通常の樹と同じ上下を持ったものも見掛けます。)

倒立した樹として描かれた「生命の樹」の図

手元の資料より「生命の樹」の図。出典は「神聖哲学」。天に根を張り、地に枝葉を伸ばした「倒立した樹」として描かれている。この図は「TV版」のオープニングにも見られる。

これは樹の上下を逆転させる事で意味合い的な部分の逆転を狙ったものかも知れませんが...文字情報の表記までが逆さまになっているところを見ると単純に「上下が逆さま」と言う以外の意味は無いと捉えた方が良いのでは無いかと思います。

「逆さま」と言う言葉からは「クリフォト(逆しまの樹)」が思い起こされるかも知れませんが...以下、それに就いても少し。

生命の樹にはクリフォトと呼ばれる状態が仮定されています。これは生命の樹の最も神性を失った状態を指し、「逆しまの樹」と呼ばれる事もあります。しかし、クリフォト(逆しまの樹)は「上下逆さまの生命の樹」では無く、均衡の取れた生命の樹を反転させた状態、神性の枯渇した状態であると言え、ここで登場したこの単なる上下逆さまの生命の樹がクリフォトだと言う事は考え難いと思います。

クリフォト(逆しまの樹)は生命の樹の虚数的な側面と言う捉え方も出来ます。(適切かどうかは深い考察が必要になりますが、クリファには虚数が与えられています。)アンチA.T.フィールドが展開されたこの場面では性質の反転、虚数の顕現と言う部分で生命の樹をクリフォトとして描くと言う選択肢もあったのかも知れません...。だた、ここで描かれているのはクリフォトでは無く、「生命の樹が上下逆さまになっているただそれだけの図」ですが...。

次に生命の樹の上でのエヴァンゲリオン初号機に就いての考察を少し...。

エヴァンゲリオン初号機(碇シンジ)のいる位置は生命の樹の中心、「ティファレト」になります。これは第二のアダム、キリスト(受肉した神)、死して復活する神、童子神のセフィラであり、深淵下でケテルに繫がる唯一のセフィラで天と地を仲介するセフィラでもあります。魔術で言えば魔術の聖なる守護天使、錬金術で言えば哲学者の石(賢者の石)、ユング心理学で言えばセルフ(自己)に当たります。

このティファレトには重要な作用の一つとして「魂の浄化」と言うものがあります。魔術的カバラらしく言えばティファレトは聖なる家族(IHVH)の娘(マルクト、最後の「H」)が息子(ティファレト、「V」)と結婚して母(ビナー、「H」)になるプロセスの中核であり、娘(花嫁、処女)を母にする役割を持っていると言えます。娘(魂)(マルクト)を孕ませて天上の母(ビナー)、天上の玉座(ビナー)へと導く役割、自然なる魂(マルクト)を浄化した魂(ビナー)にする役割です。

物語上ではもう少し後の事になりますが、先に書いてしまうと...この魂の浄化、ビナーに至るプロセスはこれからサードインパクトによって引き起こされる人類補完計画の過程及び結果と同種のものだと言えます。

サードインパクトによって引き起こされる現象は肉体を捨てリリス(人類の原初の母、原初の子宮=ビナー)へと還って行く現象、「個としての形を(強制的に)無くし、個としての分化の無い状態に還る」と言う現象です。これをカバラ的に表現すると「マルクトからビナーへの上昇、帰還」と言う事になります。また、物語では人類は肉体を失った後に全ての心が溶け合う状態へと至りますが、「形だけで無く全てにおいて分化の無い状態へと還る」となると「ケテルへの帰還」と言える事になるかと思います。

マルクトは物質世界であり、そこでは個は個としての形を保った状態(肉体の中に魂がある状態)にあります。ビナーは原初の女性原理のセフィラであり、深淵上にあり、個としての形を与え奪うセフィラです。それは大いなる海、原初の子宮です。そこは「個としての形」と言う分化の無い世界であり、マルクトからビナーへと上昇した個はそこでは個としての形を与えられる前の状態(ビナー=形を与え奪うセフィラ)へと還ります。物語上ではこれがリリス体内への帰還に当たります。

そして、この「物質的分化の無い状態/ビナー」へと導くのは生命の樹で言えば「ティファレト」、物語の中では碇シンジになります。

人類の魂を肉体と言う牢獄から解放し、生命の生まれし大いなる海、原初の母の胎内へと導く役目を持たされた碇シンジ...それがティファレト(仲介者)に配属された事は適当(適切で妥当)だったと思います。

黒き月(リリスの卵)の出現

エヴァシリーズのS2機関の臨界によって分子間引力が維持出来なくなり、ジオフロントは地表堆積層が融解し、外郭部が露呈して行きました。(ここでの生命の樹の図は天地を元に戻した状態になっていました。見る角度が変わったためなのか、上下を反転して通常の状態に戻ったのかは不明です。)

天地が通常の生命の樹の図

ここでの生命の樹の図は天地が通常に戻っているように見える。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

そして、上空から見た地球にはその爆発によって大きな目(女陰)が形成されていました。

「目」は「破壊」と「再生」の象徴であり、また、「女陰」でもあります。

この「まごころを、君に」の中ではこの後も数箇所で(直接的なものから暗に含むものまで)「目」、「女陰」、「目=女陰」としての表現が見られる事から、ここでの「破壊=目」としての表現も意図的に行われているものだと思われます。

地上の巨大な目(女陰)

地上に形成された巨大な目(女陰)。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

以下、ゼーレの台詞と、儀式の続きです。

ゼーレ :「悠久の時を示す」、「赤き土の禊を以て」、「先ずはジオフロントを」、「真の姿に」

この言葉の後、地球の表面には黒い大きな月が出現していました。

「赤き土」は通常で言えばアダム(アダマ(土)から造られた人)、人間(アダムの子孫)の事を指す場合にも使われますが、物語上ではアダムは使徒の祖なので「アダム=人間」を指してでは無く「アダム=使徒」の事を指して使われている可能性が考えられます。また、「禊」と続く事からアダムとその子孫に亘る「原罪」の比喩のようにも受け取れますし、「赤き土の禊」で「アダムに由来する使徒の全滅」と取る事も、「(原罪に勝利する)神の業」や「(キリストを通しての)神と人の和解」と取る事も出来ると思います。

リリスを最初の女性とする場合、リリスはアダムと一緒に土から造られた存在だともされます。この場合、上記のアダムに当たる部分をリリスに置き換えて考える事も可能では無いかと思います。

冬月コウゾウ :「人類の生命の源たるリリスの卵、黒き月。今更その殻の中へと還る事は望まぬ。だがそれも、リリスしだいか」

ネルフ本部施設が置かれていたジオフロントが黒き月(リリスの卵)だったようです。物語上ではリリスが人類の祖と言う事になっているので黒き月は人類の魂がやって来た場所と言う事になりそうです。冬月コウゾウの台詞からもそう見て取れます。

ここで冬月コウゾウが言っている「リリスしだいか」のリリスは綾波レイ(の心)の事だと思われます。ターミナルドグマのリリス(綾波レイが戻る前のリリス)はこの段階ではまだ抜け殻の状態ですので。

冬月コウゾウの言葉からするとゼーレの人類補完計画では人類は黒き月(リリスの卵)へと還る事になるようです。碇ゲンドウ側の人間である冬月コウゾウがそれを望んでいないと言う事は、碇ゲンドウの人類補完計画では黒き月への帰還は起こらないと考えられます。

ジオフロント=黒き月

ジオフロント=黒き月。人類の魂がやって来た場所。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

ターミナルドグマ : 碇ゲンドウ

碇ゲンドウの人類補完計画にとって邪魔なはずのロンギヌスの槍が戻り、エヴァンゲリオン初号機が捕らえられ、生命の樹が出現し、ジオフロント(黒き月)が露出したこの段階でも碇ゲンドウは全く慌てていないようでした。ゼーレの計画(黒き月への人類の帰還)が着々と進んでいる中、碇ゲンドウの人類補完計画はここからでも十分に間に合うようです。冬月コウゾウが「リリスしだいか」と言っていた事もありますが、碇ゲンドウの人類補完計画はリリス(綾波レイ)さえ碇ゲンドウ側に付いていれば問題無いのかも知れません。

ターミナルドグマ : 綾波レイの造反

碇ゲンドウ :「事が始まったようだ。さあ、レイ、私をユイのところへ導いてくれ」

碇ゲンドウは自分の願いを叶えるべく、それを綾波レイに促しますが...。

綾波レイ :「私はあなたの人形じゃない」

綾波レイは碇ゲンドウに従う事を拒否します。

ここで綾波レイの腹部付近(恐らく子宮)に入り込んでいた碇ゲンドウの右手は刈り取られて綾波レイの体内(恐らく子宮)へと取り込まれて(飲み込まれて)いました。この碇ゲンドウの右手はアダムが宿されていると思われる手です。

アダム(男根)の手(男根)を体内(子宮)へと取り込む際の取り込み口は女陰状になっていました。

碇シンジの手に付着した精液

アダムを子宮に取り込む際の取り込み口に女陰としての表現が使われている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

碇ゲンドウ :「なぜだ...」

綾波レイの造反に戸惑う碇ゲンドウに対して綾波レイは...。

綾波レイ :「私はあなたじゃないもの」

...と答えていました。これが綾波レイが碇ゲンドウに従わなかった理由のようです。碇ユイに再会すると言う願いは碇ゲンドウの願いであって綾波レイ自身の心が願うところではありません。それ故、自らの意思を持った人間の行動としてはこれは当然の内だと言えると思います。ただ、自分自身と言うものを持たずに心の中心に碇ゲンドウを据えていた綾波レイが自分自身としての行動を(それも碇ゲンドウに造反する行動を)取った事は碇ゲンドウにとっては驚きだったようです。

自らの意志を示した綾波レイは、失いかけていた個としての形(A.T.フィールド)を再び取り戻したのか、落ちて失われていた左手が再生されていました。

綾波レイは碇ゲンドウに背を向け、空中へと浮遊して上昇。(何気無く浮いていましたが不思議な現象です...。)

碇ゲンドウ :「頼む、待ってくれ、レイ」

碇ゲンドウは綾波レイに戻るように求めますが...。

綾波レイ :「だめ、碇君が呼んでる」

これまでは主体性の薄かった綾波レイですが、自分の意志に従う事を選んだようです。

エヴァンゲリオンの開始当初は碇ゲンドウに対して非常に帰属的だった綾波レイですが、ここでの綾波レイは主体としての意識が強く見られ、昔の綾波レイと比べると別人のようになっていました。これまでの碇シンジとの接触による心的変化が大きく影響しているように思われます。(三人目と言う事の影響もあるとは思いますが。)

碇ゲンドウが存在理由とも言えた頃の綾波レイであれば人形のように従ったのかも知れませんが、この事は今まで自分のシナリオ通りに事を運んで来た碇ゲンドウにとって大きな誤算だったようです。

ターミナルドグマ : リリス(綾波レイ)

碇ゲンドウと決別した綾波レイは碇ゲンドウに背を向け、空中へと浮かび上がり、そのままリリスの前へと行き着きます。

綾波レイ :「ただいま」

リリス :「おかえりなさい」

挨拶を交わした後、綾波レイはリリスの胸部へと飲み込まれていました。

この「ただいま」と「おかえりなさい」の遣り取りはリリスが綾波レイの還るべき場所、或いは綾波レイがやって来た場所である事、そしてそこへと戻って来た事を示しているものと思います。

この場面ではリリスから流れ出したLCLらしき液体が再び流れ止んでいました。どう言った条件で流れ出したり止んだりしているのかは見当が付きません。

リリスとLCL

リリスからのLCLが再び流れ止んでいる。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

ここでは綾波レイを取り込んだ(飲み込んだ)際に女陰的な表現が見られました。

碇シンジの手に付着した精液

綾波レイを取り込んだ後のリリスの胸部。ここでも女陰的な表現が見られる。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

綾波レイ

綾波レイに就いては、それがどう言った存在なのかがはっきりしないままだったのですが、これまでの事に加え、この場面(綾波レイが「リリスのコア」としてリリスに還った場面)での事を考えると、綾波レイは「碇ユイの肉体の複製にリリスの魂を宿らせた存在()」だと言えそうです。

(第弐拾四話「最後のシ者」では、前話で真実の一端を知った碇シンジがその事によって綾波レイと碇ユイとを同一の者として認識するに至ったと受け取れる場面がありました(※※)。この事から少なくとも綾波レイの肉体か魂かのどちらかは碇ユイを元にしたものなのでは無いかと思われます。また、「まごころを、君に」でのこの場面、「ただいま」、「おかえりなさい」の遣り取り(「リリスの魂」が還るべき場所である「リリスの肉体」に還って来た事を表していると思われる(※※※))や、その後の場面、綾波レイを取り込んだリリスの活動開始(魂を取り戻した事により活動を開始したと思われる。即ち、綾波レイの中に「リリスの魂」があったと思われる(※※※※))(後述)を見ると、綾波レイは「リリスのコア」となる存在であり、少なくとも「リリスの魂」を持った存在であるように思われます。これらの事から考えると、綾波レイは「碇ユイの肉体の複製にリリスの魂を宿らせた存在」と言う事になるのでは無いかと思います。)

(※※綾波レイと碇ユイとが同一の者あるかのように扱われる場面は作中の他の箇所にも見られるのですが、判断材料として使えるものはこの場面くらいしかありません...。第弐拾壱話「ネルフ、誕生」では赤木ナオコが綾波レイ(一人目)に碇ユイの姿を見る場面が2度ありましたが、一度目(始めて会った時)は碇ユイに似ている綾波レイの容姿にその姿を思い浮かべただけのようであり、二度目(綾波レイ扼殺時)は、赤木ナオコが平常心を失っていた事と、それを齎した者(綾波レイ)がその理由となっている者(碇ユイ)に似ていた事とが相俟って、そこ(綾波レイ)にその(碇ユイの)姿を投影しただけのように思います。綾波レイと碇ユイとが同一だと認識している上での事だったかと言うとそうでは無いのでは無いかと。勿論、そうでは無く、何か知っていての事だと言う事も考えられますが、しかし、それを感じ取れる要素が見当たらない場面であるため、綾波レイが何者であるかを探る材料としては当てにはならないと言えます。(赤木ナオコは、この後、綾波レイの首を絞めながら「あんたなんか、あんたなんか死んでも、代わりはいるのよ、レイ。あたしと同じね」と言っていますが、これも綾波レイの出自(複製体と言う事)を知っていての言葉と言うよりは、碇ユイの代替でしか無いと言う意味での言葉に聞こえました。また、第拾伍話「嘘と沈黙」他では、他碇シンジが綾波レイに母親の面影を重ねる場面がありましたが、これは綾波レイの中の碇ユイ(自分の母親)の部分にそれを見たのか、綾波レイの中の女性的な部分、母親的な部分にそれを見たのかまでははっきりとは分かりません。それ以上のものを思わせるものは無く、これも判断の材料としては当てにはならないと言えます。)

(※※※リリスが人類の起源となった生命体、人類の故郷である事を考えると、綾波レイとリリスとのこの遣り取りは、綾波レイに宿る魂が「リリスの魂」で無くても(人類(リリスの子孫であるリリン)の魂であれば誰の魂であっても)成立する遣り取りだと言えます。しかし、ここではそこまで考えを広げず、その他の判断要素からの判断もあり、それを...「リリスの魂」がその還るべき場所である「リリスの肉体」へと還って来た事を表しているもの...として話を進めています。この辺りは(これはここだけの事では無く、この記事全体に亘っての事ですが、)解釈者が話を進め易いように、解釈者にとって都合の良い解釈を選んでいます。)

(※※※※綾波レイを取り込んだ事でリリスの活動が開始された事から、綾波レイは「リリスのコア」となる存在であり、その内には「リリスの心(魂)」が宿してあったのだろう...との判断ですが、本当のところは「リリスのコア」が「リリスの心(魂)」である必要があるのかどうかまでは分かりません。「リリスのコア」となるのに「リリスの心(魂)」である必要が無いとするなら、綾波レイの魂が「リリスの魂」では無いと言う事も考えられるところとなります。(但し、後述で扱う「渚カヲルの言葉」から、やはり、綾波レイの魂は「リリスの魂」だと思われます。))

第弐拾四話「最後のシ者」では渚カヲル(サルベージされた「アダムの魂(※※※※※)」を「アダムの複製体(※※※※※※)」に宿した存在、或いは、サルベージされた「アダムの魂」を「人間の複製体(※※※※※※※)」に宿した存在)が綾波レイに向かって「君は僕と同じだね(※※※※※※※※)」と言っています。また、第24話「最後のシ者」(ビデオフォーマット版)ではそれに加えて「お互いに、この星で生きて行く身体はリリンと同じ形へと行き着いたか」と言っています。これに就いては第弐拾四話「最後のシ者」の時点では判断要素が少なく、そのため不可解な部分を残した台詞だったのですが、これらも綾波レイの中にある「リリスの魂」に向けてのものだったとするなら不可解では無くなりそうです。綾波レイの中に「リリスの魂」が宿っていて、それを渚カヲルが知っていた、或いは感じ取っていたとするなら、「アダムの魂」を持つ渚カヲルが綾波レイに対して「僕と同じ」、「お互いに」と言う表現を使ったのも納得が出来るところとなります。(リリンに都合良く利用されていた渚カヲルがどこまで真実を正しく把握していたのか...渚カヲルの言う事をどこまで信じて良いのか...これは悩むところですが、しかし、これらの台詞を言った時の渚カヲルの口振りは、それが知識によるものにしろ、感覚によるものにしろ、何か掴んでいるもの、或いは何か掴んだものが無ければ言えないような口振りであったと言え、例え、綾波レイに就いて正しく把握出来ていない部分があったとしても、全く的外れの話と言う訳では無いように思います。)

(※※※※※渚カヲルの魂に就いては、それがアダムからサルベージされた魂であり、渚カヲルの中にしか無い事が分かっています(第24話「最後のシ者(ビデオフォーマット版)」より)。)

(※※※※※※渚カヲルがエヴァンゲリオンに就いて「エヴァは僕と同じ身体で出来ている。僕もアダムより生まれし者だからね」と言っていた事(第弐拾四話「最後のシ者」より)、そのエヴァンゲリオンが(「リリスの分身」である初号機(劇場版「Air」より)を除き)「アダムのコピー(魂はアダム以外のものをサルベージした)」だと言う事(第弐拾参話「」より)...また、渚カヲルが、アダムの再生された肉体を宿している碇ゲンドウの事を「シンジ君の父親、彼も僕と同じか」と言っていた事(第24話「最後のシ者(ビデオフォーマット版)」より)...これらの事から渚カヲルの肉体はアダムの複製であると言えそうです。)

(※※※※※※※渚カヲルの言う「僕と同じ」が「本来の僕と同じ」と言う意味で言ったものだとするなら、今の渚カヲルはその肉体が人間の複製体であると言う事も考えられます。もし、渚カヲルが「「(アダムでは無く)人間の複製体」に「アダムの魂」を宿した存在だとするなら、その場合、第弐拾四話「最後のシ者」にあった「エヴァは僕と同じ身体で出来ている。僕もアダムより生まれし者だからね」と言う台詞は、「エヴァは本来の僕(アダム)と同じ身体で出来ている。僕も魂に就いてはアダムより生まれし者だからね」と言う解釈になりそうです。)

(※※※※※※※※これは肉体も魂も自分と「同じ」と言う意味で言ったのでは無いと思います。「アダムの魂」は渚カヲルの中にしか無く、その事は渚カヲルも知っています。それは、少なくとも綾波レイの魂は「アダムの魂」では無いと言う事を知っていると言う事になります。では、何に対して「同じ」だと言ったのか。綾波レイが何者なのかに就いて渚カヲルがどこまで知っていたのか、或いはどこまで感じ取ったのかは分かりませんが、「アダムとリリスと言う同じような存在」と言う意味や、「自分と同じく、人によって作られた身体(複製体)に人によって魂を宿された存在」と言う意味で「同じ」と言ったのでは無いかと思います。)

綾波レイとリリス

綾波レイがリリスの胸部へと取り込まれた後、リリスは活動を開始します。

この事から綾波レイはリリスのコア、即ち、リリスの魂、或いはリリスの心(魂と霊)を持った存在だったのでは無いかと思われます。

ここでのリリス(綾波レイを取り込んだ後のリリス)は、魂が無意識(霊)へと沈みかけているのか、自我意識が薄いように感じられますが、薄っすらとではあっても心の働きは持っている()と言えそうです。それまでの空っぽだった状態から、その内に綾波レイの魂(リリスに由来すると思われる魂であり、綾波レイと言う肉体の中で人間の世を体験した魂)を持った存在になったと言って良いと思います。

ターミナルドグマ : リリスの巨大化

綾波レイの魂、リリスの本質を得たリリスは十字架から抜け出します。リリスの顔に付けられていた七つの目の仮面は落ち、そして綾波レイを吸収する前(無性別にも見えた状態)とは違い女性的な形へと変化していました。碇ゲンドウはただそれを見つめるだけでした。

このターミナルドグマのリリスに対する第二発令所での分析パターンは「青」、日向マコト(マギ?)はこれを使徒では無く「ヒト」、「人間」と判断していました。

綾波レイを得て十字架から抜け出したリリスは巨大化して行き、その途中で第二発令所をすり抜けていました。十字架から抜け出した場面やこの第二発令所の場面を見るとリリスはそれまでのような物質的制限は受けていないようです。マルクト的では無く本来のビナー的、霊的な性質を取り戻したのかも知れません...。

ネルフ本部上空 : 碇シンジとリリス

上空では先ほどまで出現していた「生命の樹」の図は消えていましたが、碇シンジ(エヴァンゲリオン初号機)は上空で捕らわれたままの状態で、その周りを9機のエヴァシリーズが囲んでいました。

碇シンジの左手の上には葛城ミサトの十字架があり、未だにその紐の部分は左手の薬指(心臓)に引っ掛かっていました。聖跡が刻まれた時点では碇シンジの手の上に十字架は無く、その後、碇シンジが自分で十字架を手にしたものと思われます。

この場面では碇シンジは(恐らく自分で手にした)十字架を見ていたものと思われます。その後、両手で顔を覆って苦悩していたところを見ると葛城ミサトの言葉を思い出していたのかも知れません。

葛城ミサトの十字架

碇シンジの左手の上にある葛城ミサトの十字架。その紐は碇シンジの左手の薬指(心臓)に引っ掛かっている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

碇シンジの両手に刻まれた聖跡

前の場面。聖跡が刻まれた時には碇シンジの手には十字架は無かった。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

碇シンジの前には綾波レイの姿をした巨大リリスが現れます。リリスの肌や髪の部分には色素が無く、目だけが赤い血の色をしていました。これはアルビノのようにも見えます。

碇シンジは巨大な綾波レイ(リリス)の姿に絶叫していました。

ネルフ本部上空 : 生命の樹への還元

ゼーレ :「エヴァンゲリオン初号機パイロットのあきれた自我を以て人々の補完を」

ゼーレ 01 :「三度の報いの時が今」

エヴァシリーズの羽根の内側に六つの目(片方の羽根に付き三つの目)が出現し、その後、エヴァシリーズはATフィールドを共鳴させ、リリス(綾波レイ)との同化を始めます。その不気味な姿を見た碇シンジは発狂状態となり、それと同時にエヴァンゲリオン初号機のコアが露出していました。碇シンジの自我は崩壊寸前で現実からの逃避を切望する状態に追い込まれていましたが、この碇シンジの自我の弱さや逃避傾向はゼーレの折込済みのところのようです。

現実からの逃避を願う碇シンジの前には渚カヲルが姿を現します。これは綾波レイ(リリス)から姿を現しているようでした。同化前の綾波レイがアダム(碇ゲンドウの右手)を取り込んだためによるものだと思われます。

碇シンジが渚カヲルの声に顔を上げると、碇シンジは巨大な渚カヲルの姿に恐怖する事、自分の方へと手を伸ばす渚カヲルに安らぎとも取れる表情を見せて目を閉じていました。発令所の観測では、ここでの碇シンジは...自我境界が弱体化、ATフィールドもパターンレッド...自分としての形を失う寸前のようでした。

この時、碇シンジが安らぎの表情を見せたのは、渚カヲルが自分を救ってくれる存在に見えたのか...それとも自分が殺した渚カヲルが目の前にいるのを見て自分の罪が一つ消えたように感じたのかは分かりませんが、少なくとも自分を裏切った存在としては見ていないように見えました。

更に9機のエヴァシリーズが共鳴を始め、ロンギヌスの槍がエヴァンゲリオン号機(ティファレト)のコア(ティファレト)に突き刺さり、融合。ロンギヌスの槍は拡大してエヴァンゲリオン初号機を包んで行き、エヴァンゲリオン初号機は生命の樹へと姿を変えていました。そして生命の樹の中心付近には多くの「目」が出現していました。

「ロンギヌスの槍」はロンギヌスがキリストの死亡を確認するためにキリストの脇腹(一説によれば右脇腹)に刺したとされる槍であり、(キリストを殺した訳ではありませんが)キリスト殺しの槍とも呼ばれています。これは「象徴的」には「キリストの心臓を刺した槍」と解釈される事があります。ここではその槍が2000年の刻を経て再びキリストの心臓(エヴァンゲリオン初号機(ティファレト、キリスト)のコア(ティファレト、キリスト、心臓))を突き刺した事になります()。

槍は喉元(人間の罪の証)(ダアト(知識)、偽りの王冠)に突きつけられた後、ルアク(その中枢がティファレト)の破壊へと移り、再生のための(かどうかは碇シンジ次第ですが)死がここから開始されたように見えます。

(ここではコアは女陰の中から出現しているため(コアが露出する前のコアの外部は明らかな女陰として表現されています)、槍がコアに刺さる表現に就いては「男根(槍)と女陰(コア)の結合」と言う解釈の方が適当かも知れません。コアは(エヴァンゲリオンそのものも)無意識的で女性的であるかのように見える事からもそう思います。ただ、ロンギヌスの槍は地球から月へと到達し、その後、エヴァンゲリオン初号機の下へとやって来た事を考えると生命の樹の中央の径を辿ってマルクト(地球)、イェソド(月)と上昇した後にティファレト(太陽)へと上って来たと言う捉え方もあると思います。)

エヴァシリーズの羽の目

エヴァシリーズの羽の内側に無数の目(破壊、再生の象徴)が出現。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

エヴァンゲリオン初号機の胸部の女陰

コア露出前のエヴァンゲリオン初号機の胸部。こちらは今までとは違いはっきりとした女陰の形状をしている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

十字架の目(女陰)

エヴァンゲリオン初号機が掛けられている十字架にも目(女陰)が見られる。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

女陰の形に開いたコア

ロンギヌスの槍が刺さる前のコア。槍を受け入れるために女陰の形に開いている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

生命の樹に現れた目

生命の樹の中心付近には無数の目が出現。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

生命の実と知恵の実

以下、ロンギヌスの槍がエヴァンゲリオン初号機のコアを捉えてエヴァンゲリオン初号機が生命の樹へと姿を変えて行く間の冬月コウゾウの台詞。

冬月コウゾウ :「使徒の持つ生命の実と人の持つ知恵の実、その両方を手に入れたエヴァ初号機は神に等しき存在となった。そして今や、命の胎芽たる生命の樹へと還元している」

知恵の実は「善悪の知識の木(知恵の木)」の実、生命の実は「命の木」の実の事だと思われます。この2本の木はエデンの園の中央に生えていた(生えている)とされる木で、聖書(ユダヤ教の聖典=キリスト教の旧約聖書=イスラームの聖典)の中にもその記述が見られます。

「善悪の知識の木」は人がまだエデンの園で暮らし、神の下で永遠の時を生きていた時代に、唯一、神によってその実を食べる事が禁じられていた木です。エヴァは蛇に唆されて、アダムはエヴァに渡されてこの実を食べてしまい、善悪を知る者となった代わりにエデンの園を追い出され、限りある命を生きる存在となったと言われています。

「生命の木」は人が「善悪の知識の木」の実を食べた後に神が人から遠ざけた木で、その木へと至る道は神によって置かれた「ケルビム」と「きらめく剣の炎」によって守られていると言われています。この実を食べると人は永遠に生きる者となるとされ、神の1人のように善悪を知る者となった人が更に「生命の木」の実によって神と同じく永遠に生きる者となれば、それはまさに「神に等しき存在」と言えるのかも知れません。

ここでは冬月コウゾウがエヴァンゲリオン初号機の事を「神に等しき存在」と表現しています。そしてそれはエヴァンゲリオン初号機が善悪を知る知識と永遠の生命とを持ち合わせた存在だと言う解釈に繫がります。

エヴァンゲリオン初号機の中には人...コア(無意識)の中には碇ユイの魂(個、勢力)が沈んで霊化していると思われ、更に意識の座には(今や崩壊寸前の自我を持つ)碇シンジが置かれています...が取り込まれています。これが、どちらか一方か双方合わせてかは分かりませんが、「知恵の実」と言う事なのかも知れません。(楽園追放の話は人間の自我の誕生と解放、無意識からの自我の分化、個としての自由意志の獲得とも取れる話である事から、無意識の領域に沈んでしまっている碇ユイよりは、例えそれが崩壊寸前の自我であっても、「知恵の実=碇シンジの事」と捉えた方が自然なのでは無いかと思います。)人の文明の産物、人間の知恵の結晶と言う解釈も出来なくもありませんが、ここでは違うように思います。

エヴァンゲリオン初号機の中には使徒から取り込んだ「S2機関」があり、外部電源無しで活動出来るようになっています。この「S2機関」が「生命の実」なのでは無いかと思われます。

リリスのコピーである身体に人間の心と使徒のS2機関を取り込んだエヴァンゲリオン初号機、知恵と永遠の生命を持った存在と言う意味では「神に等しき存在」と呼べるものなのかも知れません。唯一、肉体(物質的制限)を持っている点では異なりますが(ここが「等しき」の持つ幅のようにも思えます)。

十字架に掛けられ槍に貫かれる神(神人)

十字架(オレンジ色の羽で作られた十字架)に掛けられ、ロンギヌスの槍との融合を果たしたエヴァンゲリオン初号機...この神(神人、肉体を持った神)が十字架に掛けられ槍によって刺される姿には約2000前のキリスト(受肉した神(イスラームからの視点では預言者の1人でしかありませんが...))の磔刑が思い起こされます。

約2000前のキリストの磔刑ではキリスト(肉体を持った神)が人類の罪の全てを背負って死ぬ事により天(神)と地(人間)の和解が為され、人類は原罪を背負って生まれながらもキリストを通す事によって許される可能性を(一方的に)与えらました(後の世で付けた都合の良い解釈のように聞こえます)。神と人類の関係の大きな変換点となった(変換点として利用された)出来事だったと言えます。

それに対し、キリストから2000年後の十字架の上での神(肉体を持った神)の死は、人類の魂を肉体の牢獄から強制的に解放して直接的に天上の楽園(肉体を持つ前に人がいた場所、原罪の無い世界)へと帰還させるため、神など頼らずに自らの手で人類を原罪から解放する(罪を犯す前の状態に戻す)ために、それを望む一部の人間によって求められ起こされたものです。キリストでは邪魔者を罪人として処刑した事が結果として(後の人々の解釈があって)神と人類を和解させ、救済の可能性を人類に齎す事となりましたが、こちらはそれとは違い最初から原罪からの人類の解放と言う明確な目的を持って行われたものだと言えます。

人類が神を当てにせずに自らの手で強制的、急速的に救済に至ろうとするこの行為は、2000年前にキリストの死によって人類に一方的に与えられた回りくどい救済を捨てる行為のように見えます。姫は信仰心と言うものを持っていないので感覚的には分からないのですが、高い信仰心を持った人からすれば神様から与えられた機会をありがたがらずに無下にしている冒涜行為と言えるのかも知れません。

生命の樹と碇シンジの意思

以下、冬月コウゾウの台詞の続き。

冬月コウゾウ :「この先に、サードインパクトの無から人を救う箱舟となるか、人を滅ぼす悪魔となるのか、未来は碇の息子に委ねられたな」

人類が肉体を捨ててリリスの内へと還るには「生命の樹」を出現させただけではいけないようです。ゼーレの望む結末へと行き着くには「生命の樹」に加えて人類の存在を否定する心(方向付け)が必要なようであり()、ゼーレはこれに碇シンジ(の心)を選んだと言う事になります。

(この後、生命の樹へと還元したエヴァンゲリオン初号機の中で碇シンジは世界の拒絶に至りますが、全人類の肉体を強制的に奪い去る事が出来るだけの巨大なアンチATフィールドを生じさせるためにはそれ(生命の樹へと還元したエヴァンゲリオン初号機の中で碇シンジに世界を拒絶させる事)が必要なようです。)

ゼーレは人類を導く方向を決める重要な役割に碇シンジを据えましたが、そこには...あの碇シンジならば間違い無く人類のいない世界を願うに違い無い...と言う判断、それも碇シンジの心(選択)次第では望んだ状態が得られない可能性がある事を考えると相当の自信を伴った判断があったのでは無いかと思われます。碇シンジの事をどこでどう調査してその結論に至ったのかは気になるところですが...。

ここまで来ると渚カヲルの殺害が初号機の手によって行われる事を願ったのも碇シンジの精神状態を追い詰めるためのものだったと考えられます。

ネルフ本部上空 : 碇シンジの内的(心的)世界

渚カヲルの姿を目にした碇シンジは安らいだような表情で目を閉じて行きます。そして、碇シンジが目を閉じると碇シンジの前方にいた渚カヲルは再び綾波レイへとその姿を変えいました。渚カヲルが綾波レイに変わって行くと共に後ろにいた綾波レイの乳房が消えて行ったところを見ると前後で入れ替わったようです。

直ぐに綾波レイに入れ替わったところを見ると渚カヲルは利用されたのかも知れません。

これ以降、しばらくは碇シンジの内的世界が舞台となります。

人を導く方向を決める役に据えられた碇シンジ...彼がここで何を願うか...その結果が人類の未来となるようです。

夕暮れの公園 : 砂場

場所は夕暮れの公園。幼い姿をした碇シンジが2人のお友達に誘われて砂場で一緒に砂の建物(お城)を作り始めます。建物は作りかけで、お友達が先に作っていたようです。お友達は人形の姿をしていました。

この公園の場面では照明器具や組まれた骨組みが見られ、何か舞台のような印象も受けました。心的な領域を表現している舞台と言う事かも知れません。

その後、お友達(人形)は迎えに来た母親と共に帰って行きます。碇シンジには迎えに来る母親はいないらしく、公園に一人残されていました。

「碇シンジのいた公園」と「お友達が母親と一緒に帰って行った方面」との間には大きな溝があり、碇シンジはその向こうへは行けないようでした。恐らくはこの溝の内側が碇シンジの世界、溝の向こう側がそれとは別の世界と言う事なのでは無いかと思います。

砂場で作っていた製作物は未完成でしたが公園に一人残った碇シンジは作業を続け、砂場の中心にピラミッド(四角錐)を完成させていました。

ピラミッドの完成後、碇シンジはそれを足で蹴り付けて破壊します。そして、破壊後、再び自らの手で作り直していました。この時の碇シンジは泣いているようでした。

ここでのピラミッドは砂場の中心、そしてこの舞台の中心に立てられいるようでした。また、このピラミッドは美しく均整の取れた状態で非常に安定しているように見え、子供が作ったとは思えないほど完成度が高いもののように見えました。

この場面では心理療法で用いる箱庭が思い起こされます。それは作り物のような舞台である公園(溝の内側の世界全て)に対してもですが、特にものを作る事の出来る領域として与えられた砂場に対して強く感じられました。そう考えるとここでの碇シンジは「箱庭の中に作ったもの(自己なり父性なり(後述))を壊しては作り直す子供」のように見えます。箱の中のお友達(人形)を「お母さんが来て、帰って行った」と言って撤去し、その後、箱の中央でただ山を作っては壊している子供です。

碇シンジが破壊してまた作り直しているピラミッドは理想的な自分(曼荼羅)、欠けたるものの無い完全性を表したものかも知れません。完成度が高く、内的世界の中心に作られているためです。そう捉えると、この場面は理想的状態への憧れと破壊の繰り返しに見えて来ます。

また、このピラミッドは父親の象徴である可能性も考えられます。ピラミッドの破壊は「自分を捨てた存在であり、母親を失った原因でもある父親」に対し、自分の悲しみ、苦しみ、不満をぶつけている行為、破壊後の作り直しはその存在を完全に拒絶しているのでは無く「憎みながらも求めている」状態の表れのようにも見て取れます。

ピラミッドがセルフであっても父性であっても、この場面はこの後の個の放棄や父親殺しの展開へと繫がっているように感じられました。

勿論、もっと単純に...一緒に作っていたお友達が途中で帰ってしまい、途中で投げ出す理由も無く作業を続けて完成させてみたものの、それが一人で作っても無意味なものだと感じ、不満をぶつけているだけ...と言う事も考えられると思います。

この場合、共同作業に誘われた時の碇シンジは嬉しそうにしていた事から、優しくされた、仲間になれた、必要とされたと感じていたものと思われますが、それが作業の途中で置き去りにされて一人残った事で仮初めのものであったと感じ、この気付きが孤独感を生み、それが攻撃衝動を起こさせたとも考えられます。他者から一方的に優しくされる事、他者に一方的に受け入れて貰う事を望む碇シンジの事なので勝手な期待が叶えられなかった事に対して裏切られたとさえ思っているのかも知れません。そこまででは無くても「そっちから誘っておいて先に帰るなんて...」くらいは...。

また、碇シンジの見せた破壊行動には、迎えに来てくれる者も帰る場所も無い自分の悲しみと、それを持っているお友達への妬みが込められているようにも見て取れます。

裏切られ置き去りにされた碇シンジが完成させたピラミッドは仮初めの絆の延長の産物ですが、それは碇シンジから見たありもしない理想(仮初めでは無い絆)、そして碇シンジがありもしないと思いながらも望み求めている理想なのかも知れません。破壊後に再び作り直していたのは否定しながらも未だそれを求めているため、あるいは、破壊と言う行為への罪悪感から作り直していただけにも見えます。

以上、はっきりと言えない時は「数を撃てば当たる事もある」を狙って色々と解釈を付けて見ました。どれかは当たっているかも知れません...。(勿論、全て的外れの可能性も大いにあります。)

溝の向こうで子供達(お人形)を迎えに来ていた母親は顔はありませんが葛城ミサトのように見えました。碇シンジの母親では無く他人の母親と言う役になっています。これが碇シンジから見た葛城ミサトに対する距離...葛城ミサトがどんなに碇シンジの母親になろうとしても他人でしか無いと言う事なのかも知れません。

人形達の母親(葛城ミサト)

人形達の母親は顔は無いが葛城ミサトのように見える。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

葛城ミサト

葛城ミサト :「結局、シンジ君の母親にはなれなかったわね」

この葛城ミサトの台詞と共に葛城ミサトの性行為()の場面に移ります。

(ここでの葛城ミサトの性行為も第25話「Air」での碇シンジの自慰行為と同様に間接的な表現が取られています。そのため姫にとっては非常に事態の把握が難しい場面でした。直接的に表現したところで分かるかと言われればそうでは無いと思うのですが...。結局、ここでもお友達に意見を聞き、「性行為」と言う結論に落ち着きました。)

葛城ミサトの性行為の相手は加持リョウジと思われます。時代は学生時代のようです。

碇シンジは葛城ミサトの性行為を横から眺めていました。碇シンジの内的な場面と言うよりは碇シンジが葛城ミサトの記憶の中にいるような感じに見えました。ただ、碇シンジが作り出したイメージである可能性もあるとは思います。

この場面での碇シンジの左手には死亡する前の葛城ミサトに渡された十字架がありました。

碇シンジの母親代わりを買って出ていた葛城ミサト、十字架を渡して戦う事を言いつけた葛城ミサト、碇シンジはその葛城ミサトの知らない一面を見て嫌悪の表情を浮かべていました。

子供の最初の性の対象となる母親。その母親への性的欲求は幼児期に抑圧され、その間に母親は性とは関係の無い存在となり、抑圧されていた性的欲求が思春期になって現れた時には性的欲求は最初の性対象であった母親では無く母親以外の女性へと向けられるようになります。母親も子供の前では(理想的な母親を努めようとする限り、)性的な面を持ち合わせていないかのように振舞い続けるため、子供は自分が母親と父親の性行為によって生まれた事を知った後も母親は肉欲的なものと縁の無い存在である事をどこかで望み続けます。(処女懐胎したマリア(キリストを生んだ一般人女性(ダビデの血筋ではあるものの))を崇める訳です...。)思春期の子供は性的な事に関心を持つ反面で嫌悪を覚える事があるそうですが、特に母親の性的な部分と言うのは思春期の子供にとっては分かっていても知りたく無い部分であり、そうであって欲しく無いとどこかで望んでいる分だけ、そして母親が隠していて見せなかった分だけ、その行為が当然の事であるにも関わらず、汚く見えてしまうものなのかも知れません。

この場面は葛城ミサトの「結局、シンジ君の母親にはなれなかったわね」から始まりますが、子供にとって自分の母親や身近な女性にはあって欲しく無い性的快楽を貪る姿を碇シンジはここで見ている事になります。碇シンジの感じた嫌悪には勝手なイメージの押し付けが破られた事による嫌悪も含まれているかも知れませんが、身近な女性、それも母親代わりともなれば(これに関しては葛城ミサトが思っているだけで碇シンジはそうは思っていないように感じますが)、思春期の碇シンジにとってはここで感じた嫌悪は小さなものでは無いように思います。

結局、シンジ君の母親にはなれなかったわね」は碇シンジと葛城ミサトとの別れの場面にも繫がります。葛城ミサトは確かに碇シンジの家族(子供の躾も行う母親)として碇シンジに接しようとしていた時期があったと思われますが、第25話「Air」での碇シンジとの別れの場面の最後では男性を送り出す女性、無気力な男性を奮い立たせようとする女性、男性の帰って来る場所となる女性(※※)としての振る舞いを見せていました。これは自分が碇シンジの母親にはなれない(※※※)と言う事を感じ取っていたからこその行動であり、ならばと碇シンジのために取った(母親では無く)女性としての行動だったように思います。その中にも碇シンジを引き止めずに戦場へと送り出す厳しさ(相手の事を思っての厳しさ)をきちんと持っている辺りは葛城ミサトらしくありますが。

(※※碇シンジは「葛城ミサト」を自分が帰るべき場所だとは感じていないように思われ、葛城ミサトもその事は分かった上で碇シンジの帰るべき場所を演じていたように見えます。葛城ミサトは既に自分の死を予期していたように思われますし。(例え、葛城ミサトが碇シンジの帰るべき場所になったところで自分が碇シンジを迎える事は無いと言うのも分かっていたと思います。)ただ、どこであっても碇シンジの帰る場所があれば、誰であっても碇シンジの帰還を待つ者がいれば、それは生きて帰ろうと言う思いを生み出す助けに、生や現実世界への執着を生み出す助けになるかも知れません。ここでの葛城ミサトは碇シンジが現実で生きる事を望むようになるための助けとして、自分(葛城ミサト)では無くても「誰か」を望むようになるための助けとして働こうとしたのだと思います。帰って来る場所が自分のところでは無くても良いので生きて戻って来るようにと。そう考えると、ある意味では、それは部分的にかも知れませんが、碇シンジに味方する「他者」、「現実」、「世界」の代表であったようにも思えます。)

(※※※碇シンジが求めていたのは優しい母親であり、優しさと厳しさを持った母親では無いように思われます。それに対し、葛城ミサトは優しさだけで無く厳しさも持ち合わせた女性であったため、血の繫がりが無い事、思春期に入ってから出会った女性(それも思春期の碇シンジから見て性の対象になり得る若い女性)である事、母親代わりとしての自覚も無く恋人と復縁した事(母親には不必要な性的な側面を感じさせた事)とは別に、優しさだけを求めている碇シンジからすると最初から母親としては不適格な人物、理想の母親の投影先とはなり得ない人物であったように思います。)

葛城ミサト :「本当の事は結構痛みを伴うものよ。それに耐えなきゃね」

葛城ミサトの性行為を眺めて嫌悪する碇シンジに語り掛けるような葛城ミサトの声...。

碇シンジにそれが出来れば「ここ」には至っていないと言う台詞のように思いました。

惣流・アスカ・ラングレー

葛城ミサトの性行為の場面の後は惣流・アスカ・ラングレーとの遣り取りに移ります。

惣流・アスカ・ラングレー :「何も分かってないくせに私の傍に来ないで」

碇シンジ :「分かってるよ」

惣流・アスカ・ラングレー :「分かってないわよ、馬鹿」、「あんた私の事、分かってるつもりなの。救ってやれると思ってんの」、「それこそ傲慢な思い上がりよ。分かるはずないわ」

碇シンジ :「分かるはずないよ。アスカは何にも言わないもの。何も言わない、何も話さないくせに分かってくれなんて無理だよ」

碇シンジは最初は相手に合わせてその後に自分の心を吐露する事があり、ここでもその傾向は見られます。

ここでの惣流・アスカ・ラングレーは碇シンジの内面世界の惣流・アスカ・ラングレー(碇シンジの内面で自律的に活動するアスカイメージ)であるように思えます。場面が碇シンジの内的世界である事と補完前である事、それに碇シンジの事を(外的存在の惣流・アスカ・ラングレーよりも)把握していて見透かしているところがある事から考えてそうでは無いかと思われます。

その碇シンジの内的世界の惣流・アスカ・ラングレー(自分の中の他人)は姿や(攻撃的な)性格は惣流・アスカ・ラングレーのそれですが、そこには、碇シンジが捉えているアスカ像に加え、碇シンジの心的な側面が注がれているようにも見え、この内的世界での惣流・アスカ・ラングレーと碇シンジの遣り取りは碇シンジの心的側面の対立として見て取る事も出来るのでは無いかと思います。

綾波レイ :「碇君は分かろうとしたの」

碇シンジ :「分かろうとした」

碇シンジは相手を個として尊重しない自分勝手なものの見方、自分の都合しか無いものの見方を取る事があり、この「分かろうとした」も碇シンジの場合は、例え本当にそうだったとしても、それは自分の都合の中だけでの話しでしか無いように聞こえてしまいます...。

ここで思い出されるのが第拾八話「命の選択を」、加持リョウジが父親の事が分かって来たと言う碇シンジに対して言った「それは違うな。分かった気がするだけさ。人は他人を完全には理解出来ない。自分自身だって怪しいものさ。100パーセント理解しあうのは不可能なんだよ。ま、だからこそ人は自分を、他人を知ろうと努力する。だから面白いんだな、人生は」と言う台詞です。

碇シンジも加持リョウジのように構える事が出来れば(加持リョウジが14歳時に第拾八話「命の選択を」でのように構える事が出来ていたかどうかは分かりません。紆余曲折があって経験を重ねて行く事で至ったのかも知れませんが、それはまた別の話です。)もう少し楽に生きて行けるのでしょうけれど、碇シンジ(特に今の碇シンジ)が他人に求めるのは自分にとって都合の良い安らぎや快楽と言ったものであり、苦痛が伴う可能性があるものを面白いと感じる余裕はなさそうです。

惣流・アスカ・ラングレー :「バーカ、知ってんのよ、あんたが私をおかずにしてる事」、「いつもみたくやってみなさいよ。ここで見ててあげるから」

ここで言う「おかず」とは自慰行為の時に性的対象とする素材の事のようです。(アニメを見ていると、普段、知る機会の無い言葉の使い方を知る事が出来るのは嬉しいのですが、これに関しては未だに良く理解の出来ない言い回しです。)

ここでの惣流・アスカ・ラングレーが自分が碇シンジの自慰行為の「おかず」になっている事を知っているのは、この惣流・アスカ・ラングレーが碇シンジの内的存在であるためだと思われ()、外的存在としての惣流・アスカ・ラングレーが自分が碇シンジの自慰行為の「おかず」になっている事を知っているかどうかとは関係が無いように思います。

(ここでは(そして、この先も)碇シンジの中に登場する他者を碇シンジの内的イメージと言う前提で解釈を進めていますが、その一方で実際的な他者が謎の仕組みによって碇シンジの中に入り込んで来ていると言う可能性も捨て切る事は出来ません。例えば、エヴァンゲリオン初号機がロンギヌスの槍と融合した際にコアの付近に無数の目が出現していましたが、これがあらゆるものを見通す目であって、碇シンジに(時間や空間を越えて)他者の内面を見せているのかも知れませんし、また、生命の樹へと還元したエヴァンゲリオン初号機は神経網のような姿へと形を変えていましたが、これによって他者と碇シンジとが(時間と空間を越えて)内面で繫がった状態になっているのかも知れません。こう言った部分に就いては具体的な説明が行われていない中では「何でもあり」の状態であると言え(アニメですので...)、当然、これらの可能性もあれば、そうで無い可能性もあり、また、全く別の謎の仕組みが置かれている可能性も考えられるところです。そして、これはそれによって後に続く解釈が変わって来る部分でもあります。もし、外的他者が入り込んで来るような何らかの謎の仕組みがあって、この場面での他者が碇シンジの中に流れ込んで来ている外的な他者だったとすなら、例えば、ここでの惣流・アスカ・ラングレーは碇シンジの中に入って来た実際的な他者としての惣流・アスカ・ラングレー(の心)であると言う事になり、惣流・アスカ・ラングレー本人が碇シンジの自慰行為とその「おかず」が何であったかとを知っていると言う事になります。ただ、こう言った部分に就いては、謎の仕組みがある事による別の可能性が気になる場合を除き、謎の仕組みは無いものとして、(補完完了前の)碇シンジの心的舞台に登場する人物を(エヴァンゲリオン初号機と共にある碇ユイ(出番はありませんが...)を除き)内的他者として解釈を進めて行きたいと思います。例え外的他者が入り込んで来るような謎の仕組みがあったとしても、作中ではそれに就いての説明は何も無く、どこまでがどうなっているのかが分からない状態であると言えますし、そのような見えない謎の仕組みを取り入れなくとも内的他者としての扱いで解釈を進めて行く事は十分に可能であるように思えますので。)

ここでは「自分以外の相手の事も考えている」と言う振りを見せた碇シンジに対し、惣流・アスカ・ラングレーが碇シンジの行った相手の事を無視した自分勝手な行動を責めているように見えます。

惣流・アスカ・ラングレー :「あんたが全部私のものにならないんなら、私、何もいらない」

他人の全てを望むと言うのは非常に強欲な事だとは思いますが、これは他人が自分の思い通りにならない事に対して感じる苦しみや痛みを嫌っての事からかも知れません。他人による充足を望みながらも他人による痛みを嫌っている...わがままで臆病な心に見えます。

碇シンジ :「だったら僕に優しくしてよ」

だったら」と言っていますが...「何でも良いから優しくしてよ」と言っているように聞こえます。ここでも碇シンジは自分の事しか考えていないように見えます。

女性達 :「優しくしてるわよ」

碇シンジ :「嘘だ。笑った顔で誤魔化しているだけだ。曖昧なままにしておきたいだけなんだ」

綾波レイ :「本当の事はみんなを傷つけるから。それはとてもとても辛いから」

碇シンジ :「曖昧なものは僕を追い詰めるだけなのに」

碇シンジが(受動的に)求めているのは確かな優しさや確かな繫がりのようなものであり、曖昧な優しさや曖昧な絆などは逆に不要なようです。曖昧さの中に勝手な期待を抱き、勝手に裏切られたと感じ、勝手に傷付き、勝手に追い詰められているだけなのかも知れませんが...その自分勝手な部分を理解した上でこの台詞を言っているのであれば、自分勝手さを起こさせるところも含めて曖昧さを嫌っているのだと思います。

ここでの碇シンジは曖昧さを嫌っていますが、曖昧さを取り払ったら払ったで碇シンジにとって苦しい事は沢山あるように思います。碇シンジの求めているものは曖昧で無いもの、はっきりしたものでは無く、一方的に与えられる確実な優しさと言う自分にとって最も都合の良いものであり、確実な拒絶であったり嫌悪であったりは都合が悪く、曖昧で無いとしてもそう言ったものは欲していないように見えます...。

少し先の話になりますが、自-他の間にある曖昧なものを嫌っている碇シンジは、この後、他者からの曖昧では無い拒絶によって世界を放棄し、自-他の無い曖昧で完全な世界へと行き着きます。そして、それも自分の求めていたものでは無いと感じ、客体の中で個として生きて行く事を選び、曖昧なものが生み出す期待と裏切りの中で自分の望むものを探し続けて生きて行く覚悟(覚悟と言えるほどの強さを持ったものには見えませんが)を持つようになります。その「世界を巻き込んでの遠回り」の原因の一端がここに見られます...。

「曖昧さ」は人間関係(だけではありませんが)におけるアブソーバーの役割を果たしますが、物事をはっきりさせない事は良い面もあれば悪い面もあります。特に日本人は(良くも悪くも)「曖昧さ」を利用する場面が多いように感じられ、それは意識的にであったり、無意識的にであったりしますが、碇シンジのように「曖昧さ」を嫌うのであれば日本と言う国は生きるのにはより不都合の多い国のように思えます。

綾波レイ :「その場しのぎね」

碇シンジ :「このままじゃ怖いんだ。いつまた僕がいらなくなるのかも知れないんだ。ザワザワするんだ。落ち着かないんだ。声を聞かせてよ。僕の相手をしてよ。僕に構ってよ」

場面は電車の車内で外には夕日が見えます。夕暮れは人々が自分の帰るべき場所へと帰る時間であり(実際にはそうでも無いのですが)、夕焼けの中を走る電車は自分が帰るべき場所へと戻って行く人々を運ぶ乗り物です(こちらも...)。そう考えるとこの場面は帰るべき自分の場所を持たない碇シンジの心を表しているように見えます。最初の夕暮れの公園と同じです。公園の場面では迎えに来てくれる人(親)が無く、ここでは降りる駅(帰るべき場所、家)が無いようです。

碇シンジにとっては少し前までは葛城ミサトの家が「ただいま」、「おかえりなさい」と言える場所、「夕暮れに自分が帰る場所」だったのですが...それも今はありませんし...その当時から「ここが自分の帰る場所」だと心の底から思えた事は無かったのかも知れません...。恐らく、母親を失ってから一度も「自分の帰る場所」と言うものを得た事が無いのでは無いかと思います。

この電車内での場面、そして前の公園の場面で共に夕日が見られましたが、これは寂しさや孤独であったり、その中で死に行く自我であったりを表しいるようにも見えます。

電車の中にいた惣流・アスカ・ラングレー、綾波レイ、葛城ミサトは少し離れたところで碇シンジを見ているだけで何も言わずに立っていました。碇シンジは一人で自分の勝手な願いを吐き出し、他の三人はそんな碇シンジを相手にしていないようでした。

世界は碇シンジのために存在している訳ではありませんし、世界が碇シンジに優しくしてあげる必要は全く無いのですが、その世界に対して碇シンジはここでも何かして貰う事ばかりを望んでいます。世界に何かを求める前に変わらなければいけないのは自分なのですが...碇シンジの数々の幼稚な発言を聞いていると「幼児が14歳の言葉で喋ったのなら恐らくこのような感じになるのでは無いか」と感じてしまいました。(姫よりも年上の人間に対して幼児と言ってしまうのは失礼な事だとは思いますが、率直な感想です。)

ですが、これも幼い頃に都合の良い世界を失ってしまった事の影響なのかも知れません...。母親の愛情(無償の愛)を幼い頃に失わずにそこ(居心地の良い世界)からの自立を経験していればこのような甘えた事を言うようにはなっていなかったのでは無いかと思います。また、碇シンジの場合は母親を失った後に碇ゲンドウに捨てられた事から強い見捨てられ感を持つようになってしまっているようであり、父親に捨てられた事の影響もこの場面では見られます。

ここでは碇シンジは「いつまた僕がいらなくなるのかも知れないんだ」と言っていますが、取り敢えず今のところはゼーレに必要とされています。とは言っても必要とされているのはその「生きるのに不都合の多い自我」だけですが。それは碇シンジの知らないところでの事ですし、知ったとしても嬉しくは無いのでは無いかと思います。碇シンジは碇シンジ自身として他人に受け入れてもう事を願っているようなので。

...救われたいけどそれは完全に救われるので無ければ嫌だ、他人による充足を求めるけどそれは完全なもので無ければ嫌だと言うのは高望みであり、自と他、個と全の世界の中でそれ(他人の不安からの解放)を望み続ける限りは苦しみ続けなければならないのですが、苦しみを嫌い、生きる事に対しての戦う意志も無いのですから...ここまでの碇シンジを見るともう世界から退場するしか無いのかも知れません。(碇シンジの場合は他を巻き込んでそれを行ってしまうので余計なお世話なのですが。)

母親の剥奪の影響

夕暮れの公園の砂場からここまでの流れ...母親が向かえに来ない夕暮れの公園、理想の母親とは掛け離れている葛城ミサト、そして、自我の発達の遅れ、愛情への強い欲求、見捨てられ感、不安や恐れを見せる碇シンジ...を見ると、ここでは「幼児期の碇シンジに起こった母親の剥奪が現在の碇シンジにまで大きな影響を与え、現在の碇シンジを作っている」と言う事が改めて表されているように思えます。

愛情への欲求不満に就いては、思春期にあるためか、母性愛(母親から無償で与えられ続けるはずであった愛)への欲求だけで無く女性への性的な欲求(と嫌悪)も含まれて来ているようです。

見捨てられ感、不安や恐れに就いては幼児期の母親の剥奪によって起こり、母親剥奪後に父親である碇ゲンドウが母親役を放棄した事、他に母親代わりの者が出て来なかった事により、現在まで強く残ったままになってしまっているのでは無いかと思います。

また、父親が母親代わりを放棄した上に碇シンジを遠ざけた事も余計に碇シンジの見捨てられ感、孤立への恐怖を強めているように見えます。(更に再会後も別居状態で、あるのは職場での上下関係と言った状況でしたし、今の碇シンジにとっては確実と言える親子の血の繫がりすらも碇シンジの嫌う「期待と裏切りを生み出して自分を苦しめるもの」になってしまっているようです。)

母親がいなくなって直ぐ後に誰か母親代わりがいれば母親剥奪による碇シンジの症状も、例えば惣流・アスカ・ラングレー(アスカの認証欲求の強さは幼児期の母親剥奪の影響によるものと思われます)のように、まだ深刻なものにはならなかったかも知れません。そう考えると母親剥奪に続いて碇ゲンドウが母親役を放棄した事、代わりの母親を用意しなかった事が今の碇シンジに大きな影響を与えているように思います。

葛城ミサトは碇シンジが大きくなってから出て来た母親代わりですが、碇シンジにとっては出て来るのが遅かったように思います。

碇シンジは思春期を迎えていますし、葛城ミサトはまだ若く、加持リョウジと言う恋人もいました。血の繫がりが無いと言う事だけで無く、子供にとっては母親に不要な性的な面を葛城ミサトに感じ取っていたでしょうし、葛城ミサトを(女性として見る事は出来たとしても)母親として見るのは難しかったのでは無いかと思います。

また、葛城ミサトを見るとその言動には優しさよりも厳しさが強く出て来る場合があり()、そう言ったところでも「碇シンジが求めている母親像」とは大きく違っていたのだと思います。

(葛城ミサトは碇シンジを受け入れて優しさを見せる半面で、碇シンジに自立を、自分や他人と向き合う事を、能動的、建設的に生きる事を強いて来ます。碇シンジの「帰る場所」を作ろうとする一方で、碇シンジに家の外で出て一人で生きる事まで押し付けて来ます。碇シンジが求めていたのは自分にとっての優しい他人です。女性的な優しさであり、他者による抱擁であり、それを無条件に一方的に与えられる事です。そこに厳しさは必要無く、葛城ミサトが見せる厳しさは碇シンジにとっては不都合なもの(※※)だと言えます。また、葛城ミサトの持つ優しさも碇シンジが求めているものではありません。碇シンジが他人に求めているのは母親が子供に与える無償の愛のような優しさであり、絶対的な繫がりと言うものを持たない他人の中途半端な優しさは碇シンジにとっては不安の種となるものです。結局、碇シンジの求める愛を持っていない葛城ミサトは、例え葛城ミサトが碇シンジに厳しさを見せないようにして接したとしても、碇シンジの「帰る場所」にはなれなかったのだろうと思います(※※※)。葛城ミサトは傍から見ていると他人である碇シンジに対して親身になって考えてくれている方だと思えるのですが、碇シンジにとっては不安の種である(他人の)中途半端な優しさと、全く必要としていない厳しさの二つの持っている存在だと言えるのでは無いかと思います。)

(※※葛城ミサトの見せる厳しさは碇シンジの事を思っての厳しさであり、親身さの現れなのですが、それすら、自分の事を考えてくれているが故の厳しさすら、碇シンジは自分を生き難くするものだと感じているのだと思います。そして、自分の事を思ってくれているのなら、それが親身さからのものであっても、厳しさなどいらないから、余計な事などせずに自分が望んでいる形で自分が必要なだけの優しさを与えて欲しいと願っているのだと思います。幼少期から思春期に至るまで母親の愛に包まれて生きると言う事を経験出来なかった碇シンジからすると、他者の厳しさに触れる前に何よりも先に確実な優しさを得なければならない、「そうで無ければならないはずだ」と感じているのかも知れません。)

(※※※これは母親としても女性としてもだと思います。碇シンジの母親にはなれなかった葛城ミサトは、最後(死亡前)には碇シンジのために女性として碇シンジを奮い立たせようと試みましたが、それでも碇シンジにとっては「帰る場所」とはなりませんでした。)

葛城ミサトに就いては碇シンジがまだ幼い頃に出会って母親代わりになっていれば(※※※※)今とはまた違った関係になっていたのでは無いかと思いますが、物語上(実際の本編)では葛城ミサトには最初から(碇シンジと出会った時点からでは)母親代わりとしての出来る事はそれほど無かったように思います。

(※※※※これには年齢的な問題や状況的な問題も出て来るので、碇シンジの幼い頃に母親代わりになると言うのは実際には無理だと言えますが、その辺りの問題が無いものと仮定した上での(無意味な)話です。)

碇シンジの言っている事は非常に甘えた事ばかりのように聞こえますが、母親の愛情の保護下で育っていない事が根本的な原因だと考えると、なるべくしてなった部分もあると理解する事は出来ます。だからと言って碇シンジの甘えた態度が(碇シンジのためにある訳では無い世界の中で)認められる訳ではありませんし、(世界の中で生きて行くのであれば)改善しなければならないのは確かだと思います。

人は母親の愛(安全な自分の世界)の下で育ちながら外の世界(他者の待つ世界)での適応能力を身に付けて行き、自我の確立が進むと共に母親の下から自立して世界へと出て行きますが、幼い頃に母親を失った碇シンジには自分を包んでくれる存在もその暖かな場所からの自立もありません。ですが、この後、碇シンジはサードインパクトによってそれを経験する事になります。世界と言う他者を巻き込んで...。

惣流・アスカ・ラングレー : 殺害(扼殺)

夕暮れの電車内の場面の後、葛城ミサトの家での碇シンジと惣流・アスカ・ラングレーの遣り取りの場面に変わります。曖昧さを嫌った碇シンジが曖昧さの無い状況に置かれる場面です。

碇シンジ :「何か役に立ちたいんだ。ずっと一緒にいたいんだ」

惣流・アスカ・ラングレー :「じゃあ、何もしないで。もう傍に来ないで。あんた、あたしを傷つけるだけだもの」

碇シンジ :「アスカ、助けてよ。ねぇ、アスカじゃなきゃ駄目なんだ」

惣流・アスカ・ラングレー :「嘘ね」

惣流・アスカ・ラングレー :「あんた、誰でも良いんでしょ。ミサトもファーストも怖いから、お父さんもお母さんも怖いから、私に逃げてるだけじゃないの。それが一番楽で傷付かないもの」

惣流・アスカ・ラングレーの「嘘ね」の言葉に碇シンジは目を見開いて少し驚いたような表情を見せます。惣流・アスカ・ラングレーの言葉に自分の中での気付きが起こったのか、単に惣流・アスカ・ラングレーに見透かされている事に対しての驚きなのかは分かりません。

今までは誰かから一方的に優しくされる事を求めていた碇シンジが、ここでは惣流・アスカ・ラングレーに対して「何か役に立ちたいんだ。ずっと一緒にいたいんだ」と自分から迫って行っています。それも「アスカじゃなきゃ駄目なんだ」とまで言っています。ですが、碇シンジの場合は「自分にとって都合の良いと思われる他者」として惣流・アスカ・ラングレーがいるだけで、惣流・アスカ・ラングレーの言うように実際には(自分にとって都合が良ければ)誰でも良いと言うような感じに見えます。もし、目の前に自分に優しくしてくれる別の存在が現れたら惣流・アスカ・ラングレーでは無くそちらの方に流れて行ってしまうのでは無いかと思います。

碇シンジの心を見透かしている惣流・アスカ・ラングレーからすれば「他の人はみんな僕にとって都合が悪いんだ。アスカでも良いから。何かして欲しい事があったらしてあげるから、だから僕に優しくしてよ」と言われているようなものであり、そんな碇シンジを惣流・アスカ・ラングレー(他者)が受け入れてくれるはずもありません...。特に惣流・アスカ・ラングレーは寂しい者同士で慰め合う事を好まないように見えるので尚更だと思います。

惣流・アスカ・ラングレー :「本当に他人を好きになった事ないのよ」、「自分しかここにいないのよ。その自分も好きだって感じた事ないのよ」

「好き」は自分の中の他人を「代わる者の無い存在」にします。利害を超えて相手の事を思う気持ち、見返りなどを(少なくとも意識的には)求めずに相手のために何かしたいと言う気持ちを起こします。ですが、「好き」の無い碇シンジには他者に対するそう言ったところが見られません。碇シンジが他者に対して向ける目は他者が自分に快楽や安らぎを与えてくれる存在なのか、それとも自分を苦しめる存在なのか...と言う事だけのように見えます。「好き」が無い中での「何か役に立ちたいんだ」、「一緒にいたいんだ」、「アスカじゃなきゃ駄目なんだ」はどれも嘘らしく聞こえ、「誰でも良いから縋り付きたいだけ」のように聞こえてしまいます。

自分の望むものを得ようとばかりし、相手の事など何も考えていない碇シンジ...「自分しかここにいない」と言う惣流・アスカ・ラングレーの言葉はある意味においては適切なように思えます。ただ碇シンジの場合は自分が何をどうしたいかと言うものが無く、「自分すらいない」とも言えると思います。

自分の存在価値を自分自身では無く他者によって作ろうとしている碇シンジには自分がどうありたいかと言うものも無く、自分の存在価値を感じる事が出来ず、恐らく、惣流・アスカ・ラングレーの言うように自分を好きだと感じた事が無いのかも知れません。

惣流・アスカ・ラングレー :「哀れね」

この台詞を口にした時の惣流・アスカ・ラングレーの目線は非常に冷たいものでした。ただ、情を含まない「哀れ」と言う意味では「惨めね」と言った方が適切では無いかと思います。

碇シンジ :「助けてよ。ねぇ、誰か僕を、お願いだから僕を助けて...。助けてよ...。助けてよ...」

碇シンジ :「僕を助けてよ。一人にしないで、僕を見捨てないで、僕を殺さないで」

最初は力無く、その後、テーブルを倒しながら、椅子を投げながら、碇シンジは自分自身の苦しみ(それは言われる相手にとっては身勝手としか感じられないものですが)を吐き出していました。

惣流・アスカ・ラングレー :「―イヤ(文字)」

相手の事も考えずに自分の都合のみで他者に救いを求める碇シンジに対して惣流・アスカ・ラングレーは冷たい視線で見下ろしながら碇シンジを拒絶します。

この言葉を切欠に碇シンジは惣流・アスカ・ラングレーの首を両手で絞めていました。碇シンジの台詞はありませんが...どうして分かってくれないんだ、どうして助けてくれないんだ、どうして僕を傷付けるんだ、僕を救ってくれないんだったら、僕を傷付けるだけだったら、そんなものいらない...と言ったところのように見えます。「自分しかここにいない」...本当にそう感じられる場面です。

他者の事を思わず、ただ(誰でも良い)他者によって生かされる事、他者によって自分が一方的に救われる事、自分の都合ばかりを求める、それが得られなければ不都合な存在(自分を傷付ける存在)として殺害する。他者の存在を尊重する事など無く、他者に対してどこまでも身勝手な思考と行動を通した結果がこの惣流・アスカ・ラングレー(他者)の殺害場面だと思います。

他者との関係を消してしまえば他者によって傷付けらる事は無くなりますが、同時に碇シンジが望んでいた「他者に受け入れられる」と言う事も無くなってしまいます。自分の中に希望を見出せず、他者による救いと言う希望も捨てた碇シンジは、この後、絶望と共に世界と自分自身の存在を否定する事になります...。

碇シンジに首を絞めらた惣流・アスカ・ラングレーは、抵抗する事も無く、碇シンジに殺されていました。碇シンジにとって不都合な他者として動きながらも、無抵抗で殺される(碇シンジが自由に殺せる)その姿を見ると、この惣流・アスカ・ラングレーは、惣流・アスカ・ラングレーそのもの(の心)では無く、碇シンジの内ある心的イメージであるように感じられます。それも、恐らく、惣流・アスカ・ラングレーのイメージそのものでは無く、碇シンジの中にある不都合な他者のイメージが惣流・アスカ・ラングレーのイメージを纏ったもの、不都合な他者が惣流・アスカ・ラングレーの姿をし、惣流・アスカ・ラングレーらしさを持って出現したものなのでは無いかと思います。はっきりとした根拠は無く、何と無くのところが大きいのですが、そう感じられました。

姫は、それが自分の意思とは関係無いにしても、世界に産み落とされたからには、世界の中で個(自分自身)として生きて行くしか無いと思っています。例え住み心地が悪くても、拒絶されたとしても、姫が生きるのは世界の中だけです。死んだ先には苦しみは無いかも知れませんが希望もありません。そしてそれは姫の望むところではありません。姫から見ると碇シンジの心は「分からなくも無いけど受け入れたくは無い心」だと言えます。

Komm, süsser Tod~甘き死よ、来たれ

碇シンジが惣流・アスカ・ラングレーの首を両手で絞めた場面からは背景音楽に「Komm, süsser Tod~甘き死よ、来たれ」が流れていました。

この曲は最初は名前を知らなかったのですが、あやちゃんからこの曲が入った光の円盤(正規記録メディア)を頂いた事で名前を知りました。

この「Komm, süsser Tod~甘き死よ、来たれ」と言う曲も、それが流れ始める頃合いも姫は好きです。姫は部屋でこの曲を流す時がありますが、この曲のイントロが流れて来ただけで人類の補完が始まったかのような気分になります。

曖昧さの無い世界

曖昧なものは僕を追い詰めるだけなのに」と曖昧なものを嫌っていた碇シンジでしたが、ここでは曖昧では無いものに追い詰められ...自分を拒絶する他者、惣流・アスカ・ラングレーの首を絞めて扼殺に至っていました。

碇シンジの求めていたものが「自分にとって都合の良い曖昧さの無い世界(自分に幸福を与えてくれる世界)」であった事がここでは見て取れます。同じ曖昧さの無い世界であっても「曖昧さの無い事が自分にとって都合の悪い世界(自分をはっきりと傷付けて来る世界)」...そのような世界はいらなかったようです。

自分と他人

惣流・アスカ・ラングレーの殺害前、碇シンジは惣流・アスカ・ラングレーの事を理解しようとせずにただすがろうとしていました。その碇シンジを惣流・アスカ・ラングレーは自分を傷付けるだけの存在と位置づけていましたが、惣流・アスカ・ラングレーが求めていたのは(惣流・アスカ・ラングレーにとって良いように)自分を理解し、受け入れてくれる存在だったのでは無いかと思います。そして、それは碇シンジが求めていたものと同じだったのでは無いかと。(ここでの惣流・アスカ・ラングレーは碇シンジの中のアスカイメージ(自律的に活動する存在)であるように見え、そのため碇シンジの捉えているアスカ像に加えて碇シンジの心の一部(無意識的な部分)が反映されているように見えます。自分の中の他者であり、自分の中の別の自分の心です。そう考えると他者に対して不安を抱いている心が主体と客体の二つの姿で自問自答している場面のようにも見えて来ます。解釈のしようによってはそのような解釈も可能なのでは無いかと...。)惣流・アスカ・ラングレーは碇シンジの事を(碇シンジにとって悪いように)理解した上ではっきりと拒絶しましたが、これは都合の良い理解と受け入れを求めていた碇シンジからすると「理解の方向」も理解をした上での「曖昧では無い態度(拒絶)」も求めていたものとは大きく違っていたようです。

ずっと一緒にいたいんだ」、「アスカじゃなきゃ駄目なんだ」と言って(自分を誤魔化しながら)すがろうとしていた存在、都合の良い他者として選んで碇シンジが救済を求めた惣流・アスカ・ラングレーでしたが、それは碇シンジの望んだようには動かず、都合の押し付けに失敗した結果、自分を傷つける存在となったようです。碇シンジにとっては救済を齎すのも絶望を齎すのも他者だったようです。(これは多くの人にとっても多かれ少なかれあると言える部分かも知れません。山奥で仙人になるのでも無ければ...。)

惣流・アスカ・ラングレーが「あんた、あたしを傷つけるだけだもの」、「あんたが全部私のものにならないんなら、私、何もいらない」と言っている場面がありましたが、惣流・アスカ・ラングレーの首に手を掛けた時の碇シンジはこれと同じような事を思ったのでは無いかと思います。だた、惣流・アスカ・ラングレーの言う「あんた」は碇シンジの事を指しているように感じられる部分があるのに対し(そうで無いようにも取る事は出来ますが)、碇シンジの場合は惣流・アスカ・ラングレーを前にしても「アスカでは無く誰でも良い」ように見え、アスカ風に言うとしても「他人は自分を傷つけるだけだ」、「他人が自分の思い通りにならないなら、他人なんかいらない」と言ったようになるのかも知れませんが...。

曖昧な心を嫌った碇シンジに曖昧さの無い心を伝えた惣流・アスカ・ラングレー。これも「真心」と言えるのかも知れません。

碇シンジは惣流・アスカ・ラングレーの首を両手で絞めていましたが、手は意思を実行する器官であり、碇シンジの心を直接的に代行していると言えます。

絶望

碇シンジが惣流・アスカ・ラングレーを扼殺した場面から碇シンジの声と綾波レイの声が遣り取りを行う場面へと移ります。

碇シンジ :「誰も分かってくれないんだ」

綾波レイ :「何も分かっていなかったのね、」

碇シンジ :「嫌な事が何にも無い揺らぎの無い世界だと思っていた」

綾波レイ :「他人が自分と同じだと一人で思い込んでいたのね」

碇シンジ :「裏切ったな、僕の気持ちを裏切ったんだ」

綾波レイ :「初めから自分の勘違い、勝手な思い込みに過ぎないのに」

碇シンジの場合は、母親を剥奪されて母親代わりもいない環境で育って来た影響からか、自我の発達やコミュニケーション能力の発達に遅れが見られますが、通常であればこの会話の内容辺りの事は成長の過程(自我の発達や他者との関係作りの中)で学んで行くものであり、碇シンジの年齢に達する前までには(心の成長には個人差はありますが)解決していても可笑しく無い事だと思います。(碇シンジよりも年齢の低い姫が言うのも変ですが...。)

嫌な事が何にも無い揺らぎの無い世界だと思っていた」はいつ頃までの話なのか分かりませんが、母親を失い、父親にも捨てられ、見捨てられ感を抱きながら生きて来たと思われる碇シンジが最近までこう思っていたとは考え難いと思います。これに関してはここで挙がっている他の事よりももっと早く気が付いていても良いのでは無いかと思われます。恐らく、もっと子供だった頃に思っていた事では無いかと思います。

裏切ったな、僕の気持ちを裏切ったんだ」...これと同じような台詞を第弐拾四話「最後のシ者」で渚カヲルに対しても言っていますが、碇シンジは他者に対する勝手な期待が叶わなかった時にこう感じるようです。相手の事を思わない、自分しかここにいない碇シンジらしいと思います。

初めから自分の勘違い、勝手な思い込みに過ぎないのに」...この台詞は説明的で全体の流れから見ても少々格好悪いように感じます。もう少し言い方を工夫した方が良かったのでは無いかと感じました。

碇シンジ :「みんな僕をいらないんだ」

母親を失い、碇ゲンドウに捨てられた事による見捨てられ感からか、自分の存在であったり自分の価値であったりを他者に必要とされる事によって作り出そうとしているようですが、碇シンジは自分の形や価値を他者のとの関係の中に求める(ただ他人に必要とされたがる)前に、先ずは自分自身の中に自分の形や価値を築く、あるいは見出さなければならないように思います。見捨てられる事による不安を抱き、更に卑怯でずるい自分の事が嫌いな碇シンジには難しい事なのかも知れませんが、誰かが何とかしてくれるような問題では無いと思いますので。

碇シンジ :「だからみんな死んじゃえ」

「僕を必要としない他者などいらない」と言う事のようです。「僕」のために「他者」が存在している訳では無いのですが...今の碇シンジにはそのような事は関係無いようです。やはり「自分しかここにいない」ように見えます。

サードインパクトにおける碇シンジは「世界(客観)の王」となっている状態であり、この碇シンジの台詞は神様が「私を信仰しない(必要としない)人間などいらない」と言い出した状態と変わらないと言えます。人間にとっては非常に厄介な状態です。

綾波レイ :「ではその手は何のためにあるの」

碇シンジ :「僕がいてもいなくても誰も同じなんだ。何も変わらない。だからみんな死んじゃえ」

綾波レイ :「ではその心は何のためにあるの」

碇シンジ :「むしろいない方が良いんだ。だから僕も死んじゃえ」

綾波レイ :「では、なぜここにいるの」

碇シンジ :「ここにいても良いの?」

綾波レイ :「(無言)」

碇シンジ :「うわぁぁぁぁぁ。(絶叫)」

ここでの碇シンジは「ではその手は何のためにあるの」と「ではその心は何のためにあるの」に対してはきちんと答えず、自分の言いたい事を独り言のように話し続けていますが、「では、なぜここにいるの」に対しては言葉を受け止めて相手に対して聞き返しています。ここでの碇シンジにとっては自分が世界の中で何をどうしたいのかと言う事はどうでも良い事であり(これは、元々、それほど見られなかったように思います)、あるのは他人に必要とされているかどうか...それだけが残っているようです。

ここにいても良いの?」...世界にいて良いか悪いかは他人に委ねるものでも他人が決める事でも無く、自分が自分として世界に存在し続けようとする意志を持つ事が大切だと思っている姫からすると「ここにいても良いの?」と尋ねる事がそもそも可笑しな事のように感じるのですが、子供の頃の母親剥奪から続く見捨てられ感や不安を引き摺り、その影響からか他人を求めながらも自分からは他人を受け入れようとはせず、ただ他人に受け入れて貰う事や都合良くして貰う事ばかりを期待している碇シンジからすると、最後まで答えを他人任せにするのも当然なのかも知れません。碇シンジらしいと感じました。

碇シンジの「ここにいても良いの?」に対しての答えは「無言」でした。「無言」と言うのは否定でも肯定でもありません。世界は碇シンジに対して「ここにいても良い」とも「ここにいてはいけない」とも言っていないと言えます。それは碇シンジの問い掛けた内容を判断するのは世界では無いからだと思います。「無言」は碇シンジの問い掛けを碇シンジ自身に反射してもいるのだろうと思います。

ですが、碇シンジはこの「無言」を受けて絶叫します。碇シンジがここで他者(誰でも良い他者)に欲したのは、恐らく、「I need you.」、「ここにいても良い」と言った類の言葉だったと思われますが、自分で存在価値を見出せず、他人からそれを得ようとしている碇シンジ、他者によって生かされようとした碇シンジにとっては自分を必要としている言葉が他者から得られないと言う事は他者に必要無い存在だと言われているのも同然なのかも知れません。惣流・アスカ・ラングレーの時は「―イヤ」と言う曖昧では無いはっきりとした言葉で拒絶されていましたが、「無言」(どちらでも無いと言う曖昧さを含む言葉)もまた碇シンジの期待に叶うものでは無く碇シンジを傷付けたようです。

世界は碇シンジ(特定の個)のためにある訳ではありません。当然、世界は碇シンジに優しくする必要も、碇シンジの期待に応える必要も、碇シンジの心を汲む必要も、碇シンジの都合に合わせる必要も、碇シンジが傷付かないように気を使う必要も無く、碇シンジの呼び掛けに応える必要も、「ここにいて良い」、「あなたが必要だ」と言ってあげる必要もありません。世界に母親(望めばそれを無条件で与えてくれる存在、子に対して無償の愛を注いでくれる存在)のような振る舞いを求める事がそもそも間違いなのですが、碇シンジはそれに気付かないのか、気付いていても受け入れていない状態、不都合な事から目を背けている状態のように見えます。

碇シンジの「ここにいても良いの?」は世界に対しての最後の期待、他人に対しての最後のすがり付きだったのでは無いかと思われます。そしてどこまでも我侭になるしか無い(本当はそんな事は無いのですが...)碇シンジからすると「無言」すら「裏切り」に感じ、「僕の最後のささやかな期待すら裏切ったんだ。やっぱりこんな世界(自分を必要としていない世界)なんか、こんな自分(世界に必要とされていない自分)なんかいらない」と言う最終結論に至ったのかも知れません。碇シンジのためにある訳では無い世界...その世界に対して最後まで自分の都合ばかりを求め、それが叶わずに世界を拒絶、そして世界によって生かされようとしていた自分をも拒絶するに至る...外から見ていると自分で動かずに世界が自分の都合に合わせて動いてくれる事を勝手に期待し、そうはならず、一人で勝手に傷付き、勝手に絶望へと至ったように見えます...。

(サードインパクトの中にある今の碇シンジは「世界(客観)の王様」として君臨している状態ですが、通常は...)世界の王様のつもりでいられるのは子供(世界と自分の区別が付いていない時期)の頃だけです。それが思春期を迎えてもなお「自分の思うようにならないのであれば世界なんていらない」と言ったような態度を見せるのは「あるがままの世界」を受け入れていないためだと思います。人の苦しみや悲しみも幸せや喜びも全てそこにあるのですが、苦しみや悲しみを嫌い、幸せが喜びが何かも分からないのかも知れません。

人は世界に産み落とされた後、母親の保護下(安全な世界)で暮らし、そこを家(ホーム)として自我の発達(分化と個の確立)と外界への適応を進めて行きます。そして、やがては母親の保護下にも別れを告げて個として世界へと旅立ち、世界の中で個としての成長を続けながら(個性化を進めながら)生きて行きます。碇シンジの場合はこの内の幼児期の段階で母親の剥奪が起こっています。幼児期の自と他、個と全、意識と無意識、現実と夢の境目が曖昧で全能的であった心は本来であれば母親の下で守られながら外界と接し、自分が世界の王様では無い事、世界が安全では無い事、自分の思い通りには動いてくれない事、母親が与えてくれていた世界とは違うと言う事を知って行きます。碇シンジはこの母親の保護下で自分を他から切り分けて世界を受け入れて行く時期に母親がいなかった事になります。それは現在の碇シンジの自我の発達の遅れ、適応能力の低さ、苦痛に対する耐性の低さなどに繫がっていると思われますが、世界をあるがままに受け入れずに世界に対してあるはずも無い「母親のような振舞い」を求めるのもまた(退行の影響もあるかも知れませんが)母親剥奪の下で育った影響が大きいのでは無いかと思われます。

世界も自分の存在も嫌い、現実からも自分からも目を背け、世界と自分を拒絶した碇シンジ。幸いな事に(現実での希望を失い、死して苦しみから解放されようとしている碇シンジですが、)これから碇シンジが向かうのは「(個体としての)死(無)」では無く「全(有)」です。死は個体の全ての可能性を奪い取りますが、生きていれば何事も可能であり、碇シンジにはまだやり直せる機会が残されているようです。

今の碇シンジは姫と比較すると真逆の方向を向いている状態にあるように見えます。

姫は自ら望んでこの世界に生まれて来た訳ではありませんが、生まれたからには世界を受け入れ、その中で生きる事の覚悟を持って生きているつもりでいます。そして、世界の中で自分が自分自身として生きて行く事、その事のために生きています。

例え、世界に多くの苦しみや悲しみがあったとしても、世界から目を背けて夢の中に逃げ込んだり、世界を拒絶したりするような事はありませんし()、自ら世界を去るような事も(自らが選択出来る状態にある事が前提ですが)選択しません。生きていると言う事は「可能」と言う事であり、それは人の「希望」だと考え、どのような苦境に陥っても自分の人生を全うするために最後まであがき続けるつもりでいます。

(姫(魔術師)は夢を(積極的に)扱いますが、世界(現実)から目を背けて夢の中に逃げ込むような事はありません。夢は現実への影響でしか無く、人が人(肉体に魂が宿った存在)として生きる場所は現実だけであり(死して文化や創作物や他者の中に沈んで霊(人の生きた証のようなもの)として世界に残る(生きる)のもある意味では「世界の中に生きている」と言えますが、そこには自分自身が無く、人が人として生きている状態とは言えません)、魔術師が生きるのもまた現実だけです。)

その姫から見ると、これまでの碇シンジに見られる態度や状況(抱えている大きな苦しみ、そして、それが既に自分ではどうしようも無くなっている事など)は、解釈による理解は出来ても、到底、受け入れられるものでは無いように感じられました。魔術師的に言うならば(上手い表現とは言えないかも知れませんが)アンチ直立男根的な状態であり、陥りたくは無い状態です。

(以前にあやちゃんに同じような事(姫と世界の関わり方)を話した事があるのですが、「それは小姫が生活環境も容姿も恵まれた状態だから言える事」と言われてしまいました...。姫としてはそうで無くても同じ事が言えるつもりではいるのですが...。それをあやちゃん言うと...「小姫の言っている事は何の不自由も無い環境下に置かれて育って行く中で作られた考え。最初からそうで無い環境で育って同じ事が言えるかどうかなんて分かるはずが無い」と言われ、更には「小姫は強者の考えを振るっているだけ。弱い者に対してそれは通用しない。それどころか横暴で失礼」と叱られてしまいました...。(姫の考えが「強者の考え」であっても、この場合は自分がどうであるかと言うだけの話であり、それ以外の場合でも自分の考えや感覚を物事を計る上での基準の一つとして使いはしますが、他人に(本当の意味で)それを求める事は無いのですが...。)そして最後には「猫並みの脳しか持たない小姫が偉そうに語るな。生意気。思い上がりも甚だしい」と一刀両断されてしまいました...。)

「無言」の前の最後のカットは「泣いている幼い頃の碇シンジの姿」でした。(第壱話「使徒、襲来」から使われているカットです。)母親を失い、父親に捨てられて泣いている場面だと思われます。この幼い頃に起こった母親の剥奪と父親の母親役の放棄とは現在に至るまでの碇シンジに多大な影響を与えている出来事であり、碇シンジの心を辿ると全てはこの出来事へと辿り着くと言えるのでは無いかと思います。

母親剥奪児となった碇シンジ

母親を失い、父親にも捨てられた幼き頃の碇シンジ。この出来事が現在に至るまでの碇シンジに大きく影響しているものと思われる。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

巨大リリスの出現

絶叫後、碇シンジの反応は限り無く0に近づいて行きます。

その中でエヴァシリーズとジオフロントは上昇を続け、E層を通過。ネルフの第二発令所では「現在高度22万キロ、F層に突入」と言う音声が流れていました。E層、F層の指すところが何であるかは分かりませんが、地球から月までの平均距離が40万キロも無い事を考えると既に地球と月の中間地点よりは月側へと進んでいるようです。距離の単位をメートルとした上での事ですが。

碇シンジの「拒絶」を受けてなのか、リリスからのアンチATフィールドは更に拡大されて行き、そして、地球から巨大なリリスが出現していました。この巨大なリリスは青葉シゲルの台詞からするとアンチATフィールドが物質化したもののようです。

この巨大リリス(アンチATフィールドが物質化したもの)も、物質的な制限を受けないのか、出現時にはジオフロントをすり抜けていました。

巨大リリスは地球から出現していますが、それは地上からでは無く天空から出現しているように見えました。更に、その天空の出現面を見ると波紋のようなものが見え、天上の水面から出現しているように見えました。マルクトの「下位の母」では無く、ビナーの「至高なる母」、「天上の母」、「霊の玉座」、「天上のマリア(ここでは天上のリリスと呼ぶべきか)」と言う事で地上では無く天上、そして、天上の水面からの出現になったのかも知れません。(これを土星の天球に出現させるのでは遠過ぎますので...。)

(巨大リリスに就いては出現時に「物質化」と言う表現が使われていますが、例えこれが本当にアンチATフィールドの物質化であったとしても、ここは物質的な面を濁した表現...例えば「顕現」や「可視化」などの別の表現...の方が適していたのでは無いかと思われます。巨大リリスは、この後、アダムカドモン(原初の人間)としての役割を果たしますが、本来、アダムカドモンは物質的な側面を持ち合わせていない形而上の存在であり、これが物質化してしまうと肉体(物質)の呪縛から開放された魂の帰還先がまた物質の器になってしまいます。形而下への顕現であっても「物質化」と言う言葉を使わなければ「その本質を形而上に残した状態での形而下への顕現」、「非物質的な出現」、(オカルト的に)「アエティール体を纏った(伴った)出現」などのこじつけの余地を残せますので。)

巨大なリリスは出現後、両手をジオフロントの両側に置いていました。

日向マコト :「アンチATフィールド、臨界点を突破」

青葉シゲル :「だめです。このままでは個体生命の形が維持出来ません」

アンチATフィールドは「ATフィールドを打ち消すもの」だと思われますが、リリスからのアンチATフィールドは増大を続けた結果、ここで「個がATフィールドを保てなくなる(個としての形を保てなくなる)境目(臨界点)」を突破したようです。

ゼーレはこの「全人類から肉体を強制的に奪い去る事が出来るほどの巨大なアンチATフィールド」をリリスに発生させたかったがためにエヴァンゲリオン初号機と碇シンジを利用したのだと思います。ゼーレの本来のシナリオではエヴァンゲリオン初号機も碇シンジも必要とせずに同じ事が出来たのでは無いかと思われますが、その本来のシナリオとは別の方法が必要となった事によるエヴァンゲリオン初号機と碇シンジの起用だったのでは無いかと思います。エヴァンゲリオン初号機と碇シンジが担わされていたのは、恐らく、リリスから巨大アンチATフィールドを発生させるためのスイッチのような役割であり、そこには碇シンジであればきっと世界に絶望する(それに導くためのお膳立てもしてある)、後はリリスがそれに応えて()アンチATフィールドを発生させる...との計算があったように思います。

(碇シンジの絶望へと向かう心がリリスを通して直接的にアンチATフィールドを作り出しているのか、絶望が引き金となって、あるいはその大きさに呼応、連動する形でリリスがアンチATフィールドを発生させているのかは分かりません。実際に分かっているのは発生源がリリスであると言う事ぐらいです。)

12枚の羽を持ったリリス

ここでの巨大リリスは12枚の羽を広げていました。(その内の2枚は地球(の天上の水面)から生えています。)

12枚の羽を持つ存在と言うとルシファーが思い起こされます。

また、TV版「新世紀エヴァンゲリオン」のオープニングでは12枚の羽を持ったエヴァンゲリオン初号機の姿がありました。

エヴァンゲリオン初号機に就いては、エヴァンゲリオン初号機(碇シンジを含む)がティファレトに位置していた事や、物語の先でリリスの夫としての役割が見られる事から、ルシファー()であると解釈する事も出来ます。そうだとするとオープニングでの(そして、この後の場面に見られる)12枚の羽を持ったエヴァンゲリオン初号機はそのルシファー的な側面を表している姿なのかも知れません。

(ルシファーはリリスがアダムを捨ててエデンの園を去った後のリリスの夫とされる事があります。また、リリスの子であり夫であるとされる事もあります。エヴァンゲリオン初号機もリリスの複製と言う意味ではリリスの子であり、ロンギヌスの槍と同化して男根化している状態(物語の先では碇シンジ(精子とも解釈出来る)を乗せた状態でリリス(女陰)の中へと飲み込まれて行きます)ではリリスの夫であると言えます。因みに、碇シンジもリリンとしてはリリスの子であり、物語の先ではリリスの夫でもあります。)

しかし、エヴァンゲリオン初号機とは違い、リリスに就いては分かりません。ここでのリリス(恐らく「天上の母」としてのリリスの姿)が、何故、12枚の羽を持った姿で描かれているのか...。何と無くなのか、はっきりとした意味があるのか...。

リリスが12枚の羽を広げる場面では太陽と月と地球が縦に一直線に並んでいました。これはティファレト、イェソド、マルクトの並びでもあります。

地球の一部の地域ではもしかすると日食が起こっているかも知れません。

ここでのジオフロントは高度22万キロ(地球と月との中間距離よりも長い距離)を突破しているにしては随分と地球寄りにあるように見えました。

12枚の羽を広げる巨大リリス

12枚の羽を広げる巨大リリス。太陽、月、地球が直線状に並んでいる。ジオフロントは既に高度22万キロ以上にあるはずだが、そうは見えない。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

ガフの部屋

冬月コウゾウ :「ガフの部屋が開く。世界の始まりと終局の扉が、ついに開いてしまうか」

12枚の羽を広げた巨大リリス。リリスの両手はジオフロントの左右の少し離れた位置に置かれていて、その掌には亀裂が浮かび上がっていました。そして、リリスの両手に亀裂が浮かび上がると共にジオフロントの周囲には赤い球体が出現していました。

このリリスの両手に出現した亀裂は「明らかな女陰の形」になってました。

エヴァンゲリオン初号機のコアが剥き出しになった場面や、この後に迎えるリリスの額に第三の目が出現する場面でもそうですが、女陰に就いては象徴的な表現以外にも具体的な形による表現が行われている箇所が見られます。性行為や自慰行為が間接的、部分的な表現であり、男根が象徴的な表現である一方で、どうして女陰だけが形状的に直接的な表現が用いられているのかは気になるところです。もしかするとそこには特別な意味があるのかも知れません。

ここでの巨大リリスはその後の展開を見ると、人類にとっての「アダムカドモン」としての役割を果たします。全ての人間の魂はアダムカドモンに由来します。個々の人間の魂は原初の人間「アダムカドモン」の大いなる魂の欠片であり、人類の魂はこの原初の人間「アダムカドモン」へと還って行きます。アダムカドモンは人類の魂の故郷であり、それは原初の母の胎内、原初の子宮でもあると言えます。掌に出現した女陰はそこへの出入り口と言う意味で女陰の形をしているのでは無いかと思われます。

「ガフの部屋」は肉体に宿る前の魂の住処です。ここでの「ガフの部屋」が比喩で無く具体的な場所を指しているのだとしたら、それは巨大リリス(原初のリリスと言うべきか)の体内か、黒き月(リリスの卵)のどちらかだと思われます。

また、冬月コウゾウの言うところの「世界の始まりと終局の扉」が比喩では無く具体的なものを指しての言葉だとしたら、それはリリスの掌に現れた女陰を指しているのでは無いかと思われます。

リリスの掌の女陰を「ガフの部屋」への直接的な扉(出入り口)だとした場合、リリスの体内が「ガフの部屋」になるのだと思います。

ただ、この後の人類の魂がリリスへと還った場面を見ると、巨大リリスの体内は深淵の上、ケテル、コクマー、ビナー的であるように感じられ、「ガフの部屋(肉体を失った魂の一時保管所)」のイメージとは異なるように思います。(「ガフの部屋」は魂が肉体(物質)を与えられる場所であり、四世界では「アッシャー(物質界)」の直前の世界である「イェツィラー(形成界)」、生命の樹のセフィラでは「マルクト(物質世界)」の直前のセフィラである「イェソド(星幽界)」に照応します。(生命の樹の縮尺によっては「ガフの部屋」をビナーに照応させる事も可能だとは思いますが。))

「ガフの部屋」に就いては黒き月(リリスの卵)をそれとして見る事も出来ます。掌の女陰を「世界の始まりと終局の扉」だとしたとしても、その扉が「ガフの部屋」に直接的に付いているとは限りません。扉は扉、部屋は部屋と言う可能性も考えられます。

この後の場面では黒き月(リリスの卵)を介して人類の魂を巨大リリス内へと吸い上げているように見える場面がありますが、人類の魂がやって来た場所を巨大リリス(アダムカドモン)、魂が肉体を授かる前の場所を黒き月(「ガフの部屋」)と分けた方が先の巨大リリス(アダムカドモン)と「ガフの部屋」を一つに纏めてしまうよりは(扉と部屋の位置が別々になっていて奇妙な感じを受ける以外は)イメージ的な混乱が少なくなるように感じられます。また、その方が解釈を進める上での無理が少なくて済みそうです。

結局、「ガフの部屋」が巨大リリスの体内なのか黒き月(リリスの卵)なのかははっきりしないのですが、イメージ的には黒き月(リリスの卵)の方が近いように思われる事から、ここでは「ガフの部屋=黒き月」で進めて行こうかと思います。

リリスの両掌に出現したガフの扉(女陰)

リリスの両掌に出現したガフの扉。明らかな女陰の形をしている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

人類の補完 : ネルフ施設内

ガフの部屋が開いた後、ネルフ施設内には何人もの綾波レイ(制服姿)が姿を表していました。どの綾波レイも死者の傍に立っていて、死者達の肉体は既にLCL化していました。

この肉体のLCL化は増大したアンチATフィールドによって個を形作っている壁、ATフィールドが打ち消されてしまった事により引き起こされたものだと思われます。

赤木リツコ、葛城ミサトの遺体も既にLCL化していて、遺体のあった場所には衣服だけが残されていました。

この赤木リツコ、葛城ミサトの衣服の傍にも綾波レイの姿がありました。この2人の場合は死に行く最中にも綾波レイが現れています。

ネルフ施設内の死体

ネルフ施設内の死体。傍らには綾波レイが立ち、死体はLCL化している。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

LCL化した赤木リツコ

LCLの水面に浮かぶ赤木リツコの衣服。肉体はLCL化しているものと思われる。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

LCL化した葛城ミサト

LCL化した葛城ミサト。衣服だけが残っている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

人類の補完 : 第二発令所

ネルフ施設内の死体のLCL化に続き、第二発令所の日向マコト、青葉シゲル、冬月コウゾウ、伊吹マヤが次々にLCL化して行きます。LCL化の前にはそれぞれの前に綾波レイが現れていました。

[ 人類の補完 : 第二発令所 - 日向マコト ]

日向マコトの前に現れた綾波レイは葛城ミサトに姿を変えて日向マコトに抱き付き、葛城ミサトに姿を変えた綾波レイに抱き付かれた日向マコトはLCL化して弾けていました。

日向マコトに抱き付く前の葛城ミサトはとても優しい表情を浮かべていました。その表情はどこか虚ろに見えました。

綾波レイ(葛城ミサト)に抱き付かれる前の日向マコトは恐怖と混乱が混ざったような表情を浮かべていました。

[ 人類の補完 : 第二発令所 - 青葉シゲル ]

青葉シゲルの前には無数の綾波レイが現れていました。無数の綾波レイに迫られた青葉シゲルは頭を抱えて怯え、綾波レイに接触されると同時にLCL化していました。

青葉シゲルの前に現れた綾波レイは、他の者達の前に現れた綾波レイとは違い、姿を変える事無く、青葉シゲルをLCL化させていました。

また、他の者達の前に現れた綾波レイが出現時に制服姿であったのに対し、青葉シゲルの前に現れた綾波レイはどの綾波レイも裸でした。

[ 人類の補完 : 第二発令所 - 冬月コウゾウ ]

冬月コウゾウの前に現れた綾波レイは碇ユイに姿を変え、その碇ユイに接触された冬月コウゾウは接触と同時にLCL化していました。

冬月コウゾウは綾波レイの出現にも戸惑いや恐怖と言った表情は浮かべず、最初から喜びの表情を見せていました。想定内の出来事だったように思えます。

綾波レイは出現時に空中に浮いていて、多数の赤い球体を伴っていました。この赤い球体はガフの部屋が開いた時にジオフロントの周囲に出現した赤い球体(そして、この後の場面でキール・ローレンツや地表から出現する赤い球体)と同じものであるように見えます。

[ 人類の補完 : 第二発令所 - 伊吹マヤ ]

伊吹マヤの前には赤城リツコが現れていました。この赤木リツコは、他の者達の場合と同じように、綾波レイが姿を変えたものだと思われます。

赤木リツコに後ろから抱き付かれた伊吹マヤは振り返って赤木リツコに抱き付いた後、赤木リツコの胸で涙を流し、喜びの表情を浮かべながらLCL化に至っていました。

伊吹マヤの場合は他の人と違い、接触後直ぐにLCL化するのでは無く、接触からLCL化までの間に少しのタイムラグが見られました。

赤木リツコは伊吹マヤに対して優しい表情を浮かべていましたが、これもどこか怪しげで虚ろな表情に見えました。

赤木リツコは伊吹マヤに抱き付く前、伊吹マヤの使っていた端末に文字を打ち込んでいました。それは「I NEED YOU.」と言う文字でした。

LCL化する日向マコト

日向マコト。綾波レイの変化した葛城ミサトに抱き付かれると同時にLCL化する。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

LCL化する青葉シゲル

青葉シゲル。裸の綾波レイが数多く現れる。綾波レイに接触されると同時にLCL化。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

LCL化する冬月コウゾウ

冬月コウゾウ。綾波レイの変化した碇ユイに接触されると同時にLCL化する。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

LCL化する伊吹マヤ

伊吹マヤ。綾波レイが変化したと思われる赤木リツコが現れる。赤木リツコに抱き付いた後にLCL化。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

人類の補完 : ゼーレ

第二発令所の人間に続き、ゼーレのメンバーが次々にLCL化していました。

キール・ローレンツ以外のゼーレのメンバーはモノリス状でしたが、そのモノリスは肉体がLCL化して弾ける時に出る水音と共に消えて行っていました。恐らく実体のある場所で他の人間と同様にLCL化したものと思われます。

キール :「始まりと終わりは同じところにある。良い。全てはこれで良い」

キール・ローレンツはこの言葉を残してLCL化します。キール・ローレンツの言葉からするとこれが「ゼーレの望んでいたもの」だったようです。

キール・ローレンツのLCL化の場面では、他の人間のLCL化の場面とは違い、綾波レイは出現せずに終っていました。

キール・ローレンツからはLCL化と同時に赤い小さな球体が出現していました。

キール・ローレンツがLCL化した後には衣服だけで無く機械のようなものも一緒に残されていました。キール・ローレンツの身体は多くの部分が機械化されていたようです。物質世界での生を捨てて魂の救済を願った理由には自身の身体の機械化が関係していたのかも知れません。

LCL化するキール・ローレンツ

キール・ローレンツ。LCL化時に綾波レイの出現は見られなかった。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

キール・ローレンツから出現した赤い小さな球体

キール・ローレンツから出現した赤い小さな球体。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

キール・ローレンツのLCL化後に残された衣服と機械

キール・ローレンツがLCL化した後には衣服と一緒に機械のようなものが残されていた。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

赤い小さな球体

キール・ローレンツのLCL化の際に肉体より出現した赤い小さな球体...これは「肉体の牢獄から開放された魂」を可視的に表現したものでは無いかと思われます。

(肉体から出現した赤い小さな球体は、カバラ的な視点では人間の内で救済(アダムカドモンへの帰還)を待つ魂、グノーシス的な視点では人間の内で救済(プレーローマへの帰還)を待つ(呼び方は色々ありますが)神性の欠片、火花、本来的自己と呼ばれるもの(人間内部の霊的な部分)として解釈する事が出来ます。これらはどちらも肉体からの開放と故郷への帰還を待つ被救済者であり、本質的な部分では同じものを元にしているのでは無いかと思われます()。また、カバラ的視点とグノーシス的視点では主観の違い(カバラは人間主観による魂の救済、グノーシスは天上主観によるプレーローマの回復)はありますが、全体を見た場合には最終的に迎える結末も似ていると言えます。そのため、魂の救済だけで言えば頑張ればどちらでも解釈を進めて行けそうではあります。ですが、ここではカバラ的な視点を用いて解釈を進めて行きたいと思います。「エヴァンゲリオン」では魂の救済(人間主観の救済)が目的であるため、その方が妥当であるように思われるためです。(とは言っても、姫は理論に輪廻転生を取り入れていませんので、魂に就いてはカバラの魂論とは違うところも大いにあるのですが...。))

(カバラでの魂はアダムカドモンに由来するものであり、グノーシスでの神性の欠片はプレーローマに由来するものですが、これはどちらも天上に由来するものと言い換える事が出来ます。また、カバラで言うところの「イェキダー」、「純化した魂」は神性の火花であり、これはグノーシスにおける人間内部の神性の本質、(物質、心魂、霊で言うところの)霊と同等のものと見做して(全く同じものであるとするのでは無く、限定的に)扱う事も可能では無いかと思います。)

赤い球体はこれよりも前の場面でも見られましたが(巨大リリスの両手に女陰状の亀裂が浮かび上がった時ジオフロントの周囲に出現してた赤い球体、冬月コウゾウの前に現れた綾波レイの周囲を囲んでいた(綾波レイが引き連れていた?)赤い球体)、それらもこれと同様のものだったのでは無いかと思います。

この後の場面では赤い小さな球体が地上から大量に出現してリリスへと至りますが、この地上から出現する赤い球体も同じものだと考えて良いと思います。即ち、地上の人間がLCL化した後に出現した魂では無いかと。

地上から出現した魂はリリスへと至りますが、「エヴァンゲリオン」ではこれを以て魂の帰還、魂の救済としているようであり、キール・ローレンツから出現した赤い球体の行き先も同じだと思われます。

(ただ、個のオリジナルの魂は死と共に失われると考えている姫からすると死後(「エヴァンゲリオン」では死後では無く肉体を失っただけで死んではいない状態ですが)に魂が天上へと還って行くと言うのは思想としては受け入れ難いところです。(純粋な輪廻転生や復活は姫の魔術理論からは取り除かれています。この辺りは姫はアンチ伝統的カバラです。)また、無意識の中に溶け込む形での故郷への帰還、分化前の状態(ケテルに近い状態)への帰還を救済と呼ぶ事にも姫としては抵抗を感じます。例えそれで魂の救済が成るとしても、人の心を救済する事にはならないように思われ、もし、魂では無く心が救われる事を願っているのであれば、意味の無い事のように思えます。魂は個の特性を持っていますが、心(個の心の全て)から見れば一部でしか無く、魂を救う事によって心が救われる事は無いと思います。魂が罪の産物であるとして、それを許されたいと願うのであれば魂を消す事がその方法であるのかも知れませんが、生きて魂の安らぎを得たいのであれば、個性化した中にそれを置く事を考えた方が良いのでは無いかと思います。(※※))

(※※こう言った考えには魂の定義が違う事の影響もあると思います。カバラでの魂は「ケテル(イェヒダー)」にあっても(「純化した魂」となっても)個の特質を失いません。「ケテル」に於いては「それ以上は分ける事が出来ない個そのもの」になるのだと思います。ですが、姫の定義する魂は「ケテル」では個としての特性を持たず、故に魂と呼べるものでは無くなります。カバラの範疇で言うなら、魂としての形や勢力を失って神性の海(未顕現の三者)へと還った状態と(顕現か未顕現かの違いを除いては)変わりが無い状態だと言えます。(姫は「ケテル」を解釈するに於いて、無限小の点として扱う場合(1...)、空間に全てが溶けて無分別となっている状態として扱う場合(2...)、両方の性質を併せ持った状態として扱う場合(3...)などがあり、その扱いは他にも縮尺や対象によって変わるのですが、「カバラでの魂(魂単体)」の終着のイメージは一つ目に近いと思われます。(当然、縮尺や視点の違いによっては二つ目も三つ目も考えられますが、一つの魂を主とした場合は一つ目が近いように思います。(未顕現の三者への帰還、「無」への帰還を終着とも出来ますし、それもあるのですが、「有」で無ければそれは(何者でもあり)何者でも無いと言えるため、ここでは考えから外しています。))それに対し、姫の思うところの魂(心の中の魂)の終着のイメージは、カバラに当て嵌めて言うのであれば二つ目であったり、三つ目であったりと、「カバラでの魂」が迎える終着(一つ目)とは(基盤に置く縮尺からして異なるので当然と言えるのですが)異なっています。)それは魂が生まれる前の状態であり、「有」ではあっても(どこにでも点を取る事は出来ますが)そこに「個」は無く、「無」では無いと言っても何も無いのと同じだと言える状態です。この「ケテル」への帰還は、魂は救われるのであれば個としての性質を持ったまま救われるべきだと考えている姫にとっては、望んで目指すような結末では無いと言えます。また、姫は、オリジナルの魂は個体の死(精神活動の終わり)と共に消えると考えているので、輪廻転生や死後の魂の救いなどは取り入れていません(カバラを自分に都合良く扱おうとする際には輪廻転生や死後の魂の救いなどは切り捨て、別の解釈を付けて(個が活きた状態で魂が救われる解釈をカバラに組み込んで)扱っています)。もし、生きている限り(肉体に囚われている限り)魂が救われないと言うのであれば、即ち、この世に魂の救いなど無いと言うのであれば、姫にとっては魂の救済は意味の無いものと言う事になります。このように、魂の定義からしてカバラとは違いますし、魂の救済に関する考え方も違うと言えます。そのため、個体の死を伴う魂の救済や個を失う魂の救済は、到底、受け入れられないものだと言えます。では、「エヴァンゲリオン」での魂の救済は如何かと言うと、それは、人類全体(それぞれの個)がリリス(人類の始祖、故郷)の内で溶け合い、全であり(恐らく、全体として)個である状態になる事(分化前(全てがそこにあるが分化していない状態)に戻る事)によって救済されると言うものです(縮尺で言えばマクロ的であり、マクロ的故郷への帰還と言う点で言えばグノーシス的であると言えます)。個体の物質的な死を経て、魂は(補完後に「どこにも自分がいない」状態になる事から推測するに)個の性質を失い、全へと帰する事となります。(但し、人類補完後を見ると実際にはそのようには見えず、個を有したまま全に溶け込んでいるように見えます...。全が一でありながら、どこもが一となる状態では無く、そこから既に碇シンジと言うものの集中がある程度起こっている状態のように見えます(※※※)。姫が求めるのは個体の内で起こすミクロ的な全-個(魂の分化前の領域を(或いはそこに魂を合わせた全領域を)「全」として起こす全-個)であるため、それとは異なる形、個体の外で起こるこの全-個は、やはり、受け入れ難いと言えます。(因みに、カバラはマクロ的にもミクロ的にも扱えますが、姫は「カバラでの魂」に対する考えを多くの点で受け入れていませんので、カバラで魂を扱う場合には、自分の考えに合わせてそこに手を入れ、都合良く改変して使うようにしています。(更にそれでもカバラが足枷となるようならば邪魔だと言わんばかりにカバラそのものを捨てる事もあります。魔術師ですので。)勿論、そう言った自分の考え方とは別に、カバラでの定説から逸脱せずに魂を扱う事もあります。)))

(※※※補完後の世界での個の状態は絵がある状態ですが、これは、「コクマー」的な世界に、便宜上、キャラクターの絵(物質的では無い形)を付けたように見えます(※※※※)。ただ、それが「コクマー」的状態に、便宜上、絵を付けたものだとしても、絵を付けた事によって「コクマー」と「ビナー」との中間(絵の境界線が弱いため「ビナー」では無く、その手前)のように見えてしまうのですが...。また、絵が便宜上のもので無いとするなら、そのまま「コクマー」と「ビナー」との中間と言う事になります。もし、絵で表しているのが「コクマー」と「ビナー」との中間であり、それでありながら絵では表現出来ていない「ケテル」の状態を有している(個が全に亘っている)と言うのなら、「ケテル」、「コクマー」、「ビナー」の中間と言う事になるのでしょうか。何にしても絵では表現しきれていないところがあると思われます。)

(※※※※「コクマー」的と言うのであれば、ここに至る前の無数の綾波レイが泳いでいる場面の方が「コクマー」的な面が強かったかと思います。そこでは形相はありましたが、どれも同じもの(綾波レイ)であり、個としての形の差は持っていません。これは「個として分化しているが、形相を持たない状態」を表現したもの(形相を持たない状態を綾波レイで表したもの)と捉える事も出来ますので。ただ、その内に個を持つものの、それは発達していない状態(それぞれの意思など無いかのように群体となって泳いでいましたし)、個ではあるが(他と分かれてはいるが)他と差が無い状態であると言えるかと思います。心の差が形の差となると言う考えで言えば、「同じ形」で表しているこの状態は「コクマー」的ではあっても「コクマー」での分化が進んでいない状態と言えるのかも知れません(ここでの綾波レイは「精子」的であり、それを表現したもののようにも見えますが、そこまで進んだものでは無いようにも見えます)。これは、綾波レイの製造プラントにあった形だけの存在(心が無い、物質的な同形体)とは違って見えます(あちらは「ビナー」単体のように見えます)。あれは綾波レイの肉体が沢山あるだけの状態、同じ空の器が沢山あるだけの状態でしたが、こちら(リリスの体内での無数の綾波レイ)はそれぞれ(個々の意思は見られないながらも)活動していましたし、空では無い(未発達の個を持った(精子的、或いはそのやや手前の)状態)ように見えます。)

歓喜と恐怖と、魂の開放

魔術的視点。サードインパクトで強制的に引き起こされて行く肉体の消失と魂の開放(天上世界への上昇)...魔術ではこれと似たような内的状態を意図的に引き起こす事が可能です。姫が扱う範疇では神との合一(恍惚)による方法()と感覚の滅却(無)による方法(※※)とがあります。前者は恍惚によるものであり、後者は無によるものです。

(自我(個)はティファレト(内なる神性、神性の火花、自己(これらはケテルに照応する事もありますが)など...)と結び付いて満たされる事によってその形(自我の形、自我領域の壁)を溶かされ、深淵の上、ビナーへと上昇します。そこでは自分自身の形(自我、物質的な感覚)は消え、意識的にも物質的にも個と全の区別が消失します。自我の境界、肉体の境界が消えた状態だと言えます。定義の違いから自我を直接的に「魂」と言う言葉で表現したくはありませんが、神との合一を以て魂が分化前の世界へと帰還すると言い換える事も出来るかと思います。)

(※※感覚を消して行き無へと至る技です。全ての感覚的な制限が消失します。時間的な感覚が失われ、自-他を隔てる肉体的精神的感覚が失われ、無限小の自分と無限大の自分が同時に存在しているかのような感覚の起こり、そして無(あらゆる制限の無い状態)がやって来ます。何度か試しましたが余り得られるもが無かったので今はもう行っていません。)

第二発令所のメンバーを見ると、青葉シゲルは「恐怖」、日向マコト、冬月コウゾウ、伊吹マヤの3人は「歓喜」の中でLCL化に至っているように見えます。ですが、この「恐怖」や「歓喜」による自我の融解は神による「恍惚」が起こす自我の融解よりも低次のものであるように感じます。下位アニマと接触しただけの「恐怖」や「歓喜(低次の愛による恍惚にも至っていないように見える)」によって引き起こされた個の形の消失によって深淵を越えての魂の開放(神による救済)にまで至る事が出来るかどうかは疑問です。姫にはネツァクの次元での作業、低次の愛との接触で深淵を越える中々難しいのでは無いかと思えるのですが...。

他者(人間)との愛による結び付き、その「恍惚」によって個の融解や十全感が得られる事はありますが、それは神によって満たされ起こる「恍惚」によるものとは別のものです。ここで起こっているのはアニマとの接触による「歓喜(映像(表情)からの判断)」に見えますが、仮にここで起こった事が低次の愛によって起こった「恍惚」による個の融解であったとしても、それは人間を神の下での救済に至らせるものではありません。「エヴァンゲリオン」の中で求められているのは神による魂の救済、神の下での十全です。そして、そのために必要なのは神の愛に満たされる事によって起こる「恍惚」であり、そうで無ければ(個が融解したとしても)神へと還る事は出来ません。しかし、ここにはその神によって与えられる「恍惚」は見られません。

アニメ寄りの考えを混ぜるならば、恐らく、ここでの人間は既に切っ掛け一つで弾ける寸前の状態だったのでは無いかと思います。そして人を弾ける寸前にまで至らせているのは、恐らく、アンチATフィールドだと思います。そう考えると、アニマとの接触によって「人間を溶かすほどの神による恍惚」が起こったと言うよりも、ここではアニマは破裂しそうな風船(臨界点(物質的肉体を保てなくなる点)を突破したアンチATフィールドの影響でアニマ(他者)が与える「歓喜」や「恐怖」によってでも簡単に割れてしまう状態に陥っている人間)を割る切っ掛けであり、神の下への案内人(かと言って水星的には見えない)でしか無いと言う考えも出て来ます。その方がまだ(目の前に出現した綾波レイを直接的な救済者と結び付けて考えるよりは)解釈しやすいのでは無いかと思います。魂がリリスによって自動的(救われるべき魂もそうで無い魂も全てが)に天上へと吸い上げられる(救済される)、その前工程として弾ける寸前の人間を「歓喜」や「恐怖」を使って破裂させにやって来たのが綾波レイであると。

境界線上の綾波レイ

肉体を持った綾波レイを「地上」での綾波レイ、補完後のリリス内での綾波レイを「天上」の綾波レイだとすると、ここでの綾波レイは深淵(物質世界と天上世界の境界線、制限の狭間)の上の綾波レイだと言えるかも知れません。物質世界から天上世界へと至る狭間の者です。

ただ、ここで出現した綾波レイが天上の母の下位の姿の一つであったとしても、それが光のヴェールの前(深淵下)での姿(神と人間を精神的に繫ぐ者かと言うと、そうは見え難く、その人を惑わし、怪しく輝く姿は「処女(処女としての月)」と言うよりは「処女を装った女性」のように見えました。

また、そこから変化した更なる下位の姿(目の前の者が望む女性の姿)は低次の月が金星(具体化した金星)の側面(低次の愛、具象化された低次アニマ)を纏った姿(誘惑する夢魔的アニマ)のように見え、それは人を肉体から開放して天上へと(神の下へと)導く者とは(作中での実際の働きはそうであっても)言えないように感じました。これらは個の融解を齎す存在にはなり得ても、それらが齎すのは肉体を持った状態(物質世界)での地上的な十全までであり、精神の天上的な十全へと導く者、神の下での心の十全へと導く者にはならないように思います。だからと言って、「肉体の消失と天上への上昇」が引き起こされているところを見ると(アニメに寄せる(アニメ内の状況に合わせる)と)、それらを人の心を物質的な負の側面へ縛り付ける者、マルクトのクリファ的側面(リリスはクリファとしてのマルクト(地)にも照応する)へと誘い込む者として扱うのも(アニメ内では)難しいように思いますが。

綾波レイの変化後の姿は、人を惑わせ、形を変えて誰にでも向かい、能動的に誰とでも交わろうとする愛、その性質を持った女性(淫婦)です。(場面としては獣に跨る(獣と結合する)淫婦の穏やかな形の一つと言えなくも無いかも知れません。)ここでは愛が個に死を与えているように見えますが、それも偽りの愛のように見えます。弾ける方は騙されているとしても良いのかも知れませんが。

綾波レイは変化するにしてもその姿が(個の物質的形(制限)を奪う者、ビナー(聖霊の座、天上のマリアの座、形を与え奪うセフィラ)からの使者、魂(赤い球体)を神の下へと運ぶ導き手などにしては)下位過ぎるように感じられ、(解釈を難しくしている原因の殆どは姫にあるとは思いますが、それ以外では)その事が人類の救済を前提とした場合の解釈を難しくしているように思います。神の下への強制的な吸い上げが起こっている中で、吸い上げられる前の切っ掛け程度に考えた方が良いのかも知れません。理性の働きを低下させ心が感情へと傾く瞬間を人間に齎すためにやって来ただけだと。

物質的人間を消滅させるために現れた綾波レイ

ここでの綾波レイは日向マコトの前では葛城ミサト、冬月コウゾウの前では碇ユイ、伊吹マヤの前では赤木リツコに姿を変えています。これは(先に少し書いてしまいましたが)個々のアニマ(それも低次のアニマ)であるように思います。(青葉シゲルの前に現れたのは複数の綾波レイ(裸体)でしたが、これは青葉シゲルには求める特定の女性がいない(ある意味においては女性ならば誰でも良いとも言える)ためかも知れません。青葉シゲル以外の者の前に現れた綾波レイの変化後の姿は(性的な面は薄いものの)どこか夢魔()的に見えますが、青葉シゲルの前に現れた裸体の綾波レイはそれらよりも更に夢魔的に見えました。)

(女性夢魔。スクブス(サキュバス)。リリスや、その娘達であるリリンは、スクブスだとされる事がありますが、ここではどちらかと言えばリリスよりはリリン(作品中ではリリスの子孫が人類であると言う事から人類を指す言葉としても用いられています)であるように(夢魔的であるとするなら、そう)見えます。リリンはリリスとサタンの間に生まれたともされますが、もし、出現した綾波レイがリリンであり、リリスとサタンとの間に生まれた者だとすると、その出現は現在のリリス、人類、エヴァンゲリオン初号機、碇シンジなどの状況と何らかの関係があって起こった事のようにも思えます。例えば、「碇シンジを取り込んだエヴァンゲリオン初号機(サタン)」の自我(碇シンジ)が「零(綾波レイ(リリス))」に行き着いた事で出現した、「人類(リリス)」と「碇シンジを取り込んだエヴァンゲリオン初号機(サタン)」が結び付いた事で出現した...など。はっきりとは分かりませんがこの辺りは何かあっても良さそうなところだと思います。ただ、ここでは自分の子孫(リリスの子孫である人類)を誘惑(しかも、性的な面は少ないように見えます)、殺害している事になるので、出現した綾波レイをリリン(誘惑する夢魔としてのリリン、赤子の殺害者としてのリリン)と結び付ける事自体が的外れである可能性は大いにありそうです。(リリンは(リリスもですが)男性を性的に誘惑するとも、赤子を殺害するともされていますが、誘惑するにしても殺害するにしても対象としているのは他人の子孫(アダムの子孫)です。))

ネルフ施設内に転がる死体の前に出現していた綾波レイは綾波レイの姿のままでしたが、これは姿を下位アニマに変える必要が無かったからでは無いかと思います。個としての精神的な活動を終えている肉体のLCL化にはアニマによる接触(弾ける切っ掛け)は必要無いように思えます。アンチATフィールドの臨界点突破だけでもLCL化は十分に起こり得るのでは無いかと。

死体はどれも既にLCL化した状態でしたが、この事と死体前における綾波レイの出現との間にどのような関係があるのかは分かりません。死体をLCL化するために出現したのか、死体(精神的活動が行われていない)はATフィールドの臨界点突破によってLCL化し、それを見届けるために出現しただけなのか...。姫にはここでの綾波レイは、第二発令所に出現した綾波レイとは違い、事を見届けるために出現しただけの傍観者のように見えました。印象だけですが後者であるように思います。

これら死体のLCL化時に肉体から魂が開放されたかどうかは分かりません。もし、死体のLCL化時に肉体から魂が開放されているとすれば、ここでの綾波レイには魂の出迎えに来ていると言う解釈も出て来ます。

ですが、死体のLCL化と共に魂が開放されたのだとすると、死亡した後も肉体の崩壊が訪れるまで肉体内に魂(赤い球体)が残っていたと言う事になります。これは(ここでは強制的にLCL化させる事による肉体の崩壊でしたが、)通常時であれば火葬するか遺体の腐敗が進むかまでは魂が肉体内に留まっていると言う事です。更に死後に肉体が崩壊しないように工夫すれば赤い球体は何時までも肉体に閉じ込められ続ける事に...。逆に肉体の崩壊を待たずして死亡と共に肉体の束縛からの魂の開放が起こるのであれば、「赤い球体が死後も肉体の壁が邪魔で外に出られない」と言うのでも無い限りは死亡時に死体から赤い球体が(救われるにしてもそうで無いにしても)抜け出している事になり、ここでの死体はLCL化する前から抜け殻だった事になります。後者ならば第二発令所に出現した綾波レイに見られたような魂の先導者としての意味は死体前に出現した綾波レイにおいては薄くなると思います。

(姫は魂(脳(物質)の働きとは完全に切り離して純粋に精神的なものとして扱う場合の魂)に就いては「肉体の崩壊を待たずに個の死と共に消滅する」と言った定義で扱っています。そのため、「死後の肉体に魂が残っている」、「魂(それも可視化された魂)が肉体の外に飛んで出て行く」と言う話は、到底、受け入れ難い話と言えるのですが...ここでは譲歩して既にかなりアニメ側に寄せた考えて頑張って解釈しています。だからと言って普段の魔術理論に「魂が赤い球体と言う形で肉体に閉じ込められている」と言う考えを取り込んだ訳では無く、死後の魂の救済や輪廻転生に就いてはあくまでもアンチカバラです。)

ガフの扉が開いた時にジオフロントの周囲に出現した出所不明の赤い球体はジオフロント内の死体から出現したものなのかも知れません。ジオフロントの周囲に赤い球体が出現した場面の後にジオフロント内の死体が既にLCL化されている場面があり、肉体のLCL化を待って魂の開放が行われたのだとすると、そのLCL化のタイミングで出現しているようにも考えられます。また、個体としての死亡時に既に魂が肉体から抜け出していたのだとすれば、ジオフロント内の死体から抜け出した後、可視化されるまでの間、周囲を彷徨っていたとも考えられます。

葛城ミサトと赤城リツコの前には綾波レイは二度出現していました。一度目は生から死への狭間における出現、二度目は肉体がLCL化した現場への出現でした。

キール・ローレンツのLCL化の際には綾波レイは出現していません。これはキール・ローレンツが肉体のLCL化に綾波レイ(アニマ)を必要していなかったからでは無いかと思います。キール・ローレンツは肉体の束縛から逃れる事を強く望んでいたようですし、アンチATフィールドの臨界点突破後の外部的な切っ掛けは必要としなかったのでは無いかと思います。

人類の補完 : ターミナルドグマ - 碇ゲンドウ

碇ゲンドウ :「この時をただひたつら待ち続けていた。ようやく会えたな、ユイ」

碇ゲンドウは失った右腕を左手で押さえながら床に横たわっていました。そして、その傍には碇ユイの姿がありました。

ここでの碇ユイは綾波レイが姿を変えたものでは無いように感じました。ガフの扉が開いた事によって会えたのかも知れません。

碇ゲンドウのいる場所はライトで照らされていていました。実際のセントラルドグマと言うよりは碇ゲンドウの心的な舞台であるように思います。

碇ゲンドウ :「俺が傍にいるとシンジを傷付けるだけだ。だから何もしない方がいい」

碇ユイ :「シンジが怖かったのね」

碇ゲンドウ :「自分が人から愛されるとは信じられない。私にそんな資格は無い」

渚カヲル :「ただ逃げてるだけなんだ。自分が傷付く前に世界を拒絶している」

碇ユイ :「人の間にある形もなく目にも見えないものが...」

綾波レイ :「...怖くて心を閉じるしかなかったのね」

これが碇ゲンドウが碇シンジを遠ざけて来た理由のようです。

この態度が碇シンジには「自分はいらない人間だ」、「また捨てられるかも知れない」と言う大きなトラウマを残してしまったのですが...母親剥奪児となった幼い碇シンジに碇ゲンドウが「親子の絆」を与えていたならば今の碇シンジに見られる発達障害もここまで大きくはなっていなかったように思います。碇ゲンドウ自身も伴侶を失って辛く苦しかったのかも知れませんが、大人が口にする責任放棄の理由としては甘えた自分勝手な事情であるように感じます。

碇ゲンドウもまた臆病で不器用な人間のようです。碇シンジは絆を求めながらも他人を恐れ、傷付く事を恐れていましたが、それと余り変わりが無いように思います。

碇ゲンドウの傍には碇ユイに続いて、渚カヲル、綾波レイ(全裸)が姿を現していました。

碇ゲンドウ :「その報いがこのありさまか。済まなかったな、シンジ」

この台詞の途中で、突然、碇ゲンドウの前にエヴァンゲリオン初号機が現れます。

碇ゲンドウはいつの間にかエヴァンゲリオン初号機の左手に握り締められていました。そして、贖罪を口にし終えると同時にエヴァンゲリオン初号機に上半身を食われていました。

ここでのエヴァンゲリオン初号機は碇シンジが姿を変えたもの、母親(エヴァンゲリオン初号機)と一体になった碇シンジの姿では無いかと思われます。「済まなかったな、シンジ」の台詞は目の前のエヴァンゲリオン初号機に向けられているように見えましたし、エヴァンゲリオン初号機が「碇ユイでしか無い」のであれば碇ゲンドウを噛み殺すまでには至っていないように思えるためです。

エヴァンゲリオン初号機は拘束具が無い状態で画面左側に位置し、左手で碇ゲンドウを握って噛み殺していました。拘束具が無い、画面左側、左手はどれも無意識的、非理性的である事を表しているように見えます。また、噛み殺すと言うのは直接的で原始的な行為のように見えます。そう考えると碇シンジの深層心理、無意識的な願望を表現している場面であるように思います。碇ゲンドウを手に握って噛み殺すエヴァンゲリオン初号機(碇シンジ)の姿には敵意や憎しみのようなものが感じられ、碇シンジは碇ゲンドウを求めていた半面で強い敵意を持っていたところがあり、これはその「敵意」なのでは無いかと思います。

この場面、母親(エヴァンゲリオン)と一体になっている息子(碇シンジ)が父親を殺害する様子からはエディプスコンプレックスが思い起こされました。

幼児期の子供は母親の愛情を独り占めしようとし、母親の愛の対象である父親に敵意や反感を持ちますが、その願望は結局は叶わずに抑圧されます(エディプスコンプレックス)。そして、思春期には母親以外の異性を求めるようになります。しかし、ここでの碇シンジは思春期にまで成長した段階に入ってから母親への近親相姦願望を叶え、父親に対する復讐を遂げています。通常は成長後に母親の独占や父親への復讐が可能になってもそれを行いはしないのですが、抑圧されていた願望を行動に移したのは退行によるところからかも知れません。

ここでの碇シンジ=エヴァンゲリオン初号機は普通に考えると(オカルト的思考(都合に合わせて究極的には何でもありになる思考)を使わずに考えると)「碇ゲンドウの中の碇シンジ=エヴァンゲリオン初号機」と言う事になると思います。他者との間にある隔たり越えて他者が心に直接的に入り込んで来る事は通常は考え難く、現実的な他者である碇シンジが碇ゲンドウの心的世界に出現するには無理があるように思われますので。

ただ、オカルト的な考えを好む人(あるいは信奉する人)の中には「集合的無意識の奥底(人類的無意識)では全人類が(直接的に)繫がっている」、そして、「集合的無意識を下降、上昇する事によって客観的他者へと実際に入る事が可能」と言う理論()を振るう人を度々見掛けます。これはオカルト好きの人間が都合良くユング心理学を飛躍させた考え方なのですが、この理論を使って解釈するのなら碇シンジの心が直接的に碇ゲンドウの心の中に出現したと言う解釈も可能になるのでは無いかと思います。

(ユング心理学では集合的無意識と言う考え方があります。この集合的無意識は層を奥に進むに連れて個から...家族、血族、地域、国、民族・文化圏、種族、人類...と共通する心的領域が大きくなって行くとされています。オカルト好きの人間の中にはこの考えを利用して客観的他者の心の中に自分自身が実際に入り込む事が出来ると考える者がいます。例えば...集合的無意識を文化圏まで下降し、そこから同一文化圏の他国に上昇し、更に地域、血族、家族、個へと上昇して行く事で他国の他人へと実際に入り込める...と言ったように。しかし、集合的無意識では個々の心が奥底で(直接的に)繫がっていると言う訳では無く、同じもの(基盤)を個々の深いところに持っていると言うだけであり、「集合的無意識を下降、上昇する事によって客観的他者の心の中へと自分自身が実際に入り込む事が可能」と言う事にはなりません。表現的には全人類に共通する領域では「全人類が繫がっている」と表現する事は可能ですが、共通していると言う事と直接的に繫がっていると言う事、個と他の差異が無いと言う事と個と他が直接的に繫がっていると言う事は別の事です。ユング心理学の悪用(都合の良い使い方)のように見えます。(魔術的には集合的無意識を下降、上昇する事によって他者へと上る事は可能だと考えられますが、それは「客観的他者の心の中に自分自身が実際に入り込む」と言うものではありません。))

碇ゲンドウの心的舞台に出現したのが客観的他者としての碇シンジだとすると、それを可能にしているのは(アニメ側に寄せて考えると)アンチATフィールであるように思います。アンチATフィールドが臨界点に達している状況では(肉体的な境界が健在で自我が未だに保たれている段階であっても)他者との間にある心の壁が弱まっている事により他者との間の行き来が可能と言う事になっているのかも知れません。アンチATフィールドの臨界点突破により「(共感では無く)直接的に相手の心と繫がる事が起こり得る」、「集合的無意識を利用して他者へと入り込む事が可能」なのでは無いかと...アニメ内では。

ここでの碇シンジ=エヴァンゲリオン初号機が碇シンジの本来の潜在的な願望だとしても、碇ゲンドウの中の碇シンジだとしても、この場面は無意識の大きな力、無意識の化け物に喰われる自我の図であるように見えます。

碇ゲンドウがエヴァンゲリオン初号機に喰われた後、ターミナルドグマと思われる場所には上半身を失って下半身だけになった碇ゲンドウが立っていました。

下半身だけとなった碇ゲンドウの前にはサングラスを拾う制服包帯姿の綾波レイ(2代目)、幼女の姿の綾波レイ(初代)、全裸の綾波レイ(三代目)の3人の綾波レイが出現していました。

この碇ゲンドウの死亡場面はどこまでが現実なのかが分かり難くなっていますが、倒れている碇ゲンドウを碇ユイ、綾波レイ(裸体)、渚カヲルが囲んでいてスポットライトで照らされている場面、それと碇ゲンドウがエヴァンゲリオン初号機に喰われる場面は碇ゲンドウの心的舞台であるように思います。そして、その後の碇ゲンドウの下半身だけが残されている場面は現実世界のターミナルドグマでは無いかと。

倒れている碇ゲンドウ、喰われる碇ゲンドウの場面が心的世界であり、下半身だけとなった碇ゲンドウが立っている場面が現実世界であるとすると、倒れている碇ゲンドウを囲むように現れた碇ユイ、綾波レイ(裸体)、渚カヲルの3人は碇ゲンドウの内的他者であるか、他者との内的繫がりによって現れた存在、下半身だけとなった碇ゲンドウの前に現れた3人の綾波レイ(初代、二代目、三代目)はネルフ施設内や第二発令所に現れた綾波レイ(肉体をLCL化する切っ掛けとして出現したアニマであったり、魂を案内するために現れた先導者であったり、人間の行く末を見届けに来た傍観者であったりする綾波レイ)と同じ存在なのでは無いかと思われます。

碇ゲンドウの肉体は他の人間達とは違いLCL化されなかったのですが、これは、恐らく、「碇ゲンドウの魂はリリスへとは還る事が出来ない」と言う事なのだろうと思います。

碇ゲンドウがエヴァンゲリオン初号機に喰われる場面を見ると碇ゲンドウには抵抗する素振りは見られず、碇シンジへの贖罪としての死を受け入れているように見えました。(抵抗しようにも出来ない状況、与えられる死を受け入れざるを得ない状況ではありましたが。)碇ゲンドウは楽園への入場を自ら拒否したと言うよりは「碇シンジ(の心)によって楽園への入場(魂の救済)を拒絶された」形になっていますが、恐らくは楽園への入場を最初から(この時点ではな尚更)望んでいなかったのでは無いかと思います。

碇ゲンドウがエヴァンゲリオン初号機に喰われたのは心的世界での出来事だと思われますが、その後の現実世界において碇ゲンドウが下半身だけの姿になっていたのは「心的世界で起こった出来事が現実世界に反映した結果」と言う事なのでしょうか...。(魔術では内的世界の現実世界への反映を扱いますが、例えば「夢、無意識は現実、自我意識への影響となり、その意識は言動などを介して外的世界へと影響して行く」と言う考えから魔術師は内的世界のコントロールを目標にし、それを試みます。しかし、無意識下での出来事のみで上半身を構成していた物質が全て消え去る事は、少なくとも魔術の範疇では、考え難い事だと言えます。心的世界で獣に上半身を喰われ、その後、その無意識下での出来事の影響を受けて自らが上半身を失う原因となる行動を意識的にか無意識的にか行った...と言うような形では有り得ると思いますが...。)

二代目の綾波レイが碇ゲンドウのサングラスを拾っていましたが、3人の綾波レイの内で碇ゲンドウと最も繫がりの深かった二代目の綾波レイがサングラスを拾っているところを見ると綾波レイの心は少なからず残っているのでは無いかと思います。

この綾波レイ(特に二代目の綾波レイ)が碇ゲンドウをLCL化させなかったのは「LCL化させようと出現したけど既に殺害されていて間に合わなかった(碇シンジが碇ゲンドウを殺害する方が早かった)」と言う訳では無く、碇シンジの意思(碇ゲンドウの楽園への入場を拒否)が反映されていての事だったのでは無いかと思われます。綾波レイは見届けに来ただけであり、碇ゲンドウをLCL化させる気は最初から無かったのでは無いかと。

エヴァンゲリオン初号機に喰われ、天上へと迎え入れられる可能性が無くなった(と思われる)碇ゲンドウ。その碇ゲンドウの迎えた結末から見ると「碇ゲンドウがエヴァンゲリオン初号機に噛まれる場面」は「地獄」を表現している場面では無いかとも考えられます。裏切り者の罪人(碇シンジを捨てた碇ゲンドウ)が地獄の最下層であるコキュートス(ターミナルドグマ(※※))でルシファー(エヴァンゲリオン初号機=ルシファー)に噛まれている図です。(噛まれ続けているか噛み殺されたかの違いはありますが。)地獄の門には「この門を潜る者は一切の希望を捨てよ」と書かれているとされていますが、碇ゲンドウは一切の希望(救済や復活)が残されていない状態であり、これは正に「地獄」と言えるのでは無いかと思います。

(※※渚カヲルがターミナルドグマを目指して下降している最中には「コキュートス(第二コキュートス)」と言う言葉が使われていました。その最下層に位置するのが碇ゲンドウのいるターミナルドグマです。コキュートスは地獄の最下層であり、第四コキュートスまであるとされ、ターミナルドグマはその第四コキュートス(ジュデッカ)である可能性があります。(ただ、地獄では第一から第四までの領域が同心円状になっているとされているのに対し、第二コキュートスとターミナルドグマ(第四コキュートスとして)では位置関係が一致しませんが。))

碇ゲンドウの心的世界

スポットライトに照らされる中、碇ユイ、綾波レイ(裸体)、渚カヲルが碇ゲンドウの傍に立っている。碇ゲンドウの心的舞台であると思われる。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

エヴァンゲリオン初号機に喰われる碇ゲンドウ

エヴァンゲリオン初号機に喰われる碇ゲンドウ。これも碇ゲンドウの内的世界であると思われる。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

上半身を失い下半身だけとなった碇ゲンドウ

現実世界(ターミナルドグマ)での碇ゲンドウ。下半身だけの姿になっている。内的世界でエヴァンゲリオン初号機に上半身を喰われた出来事が現実世界に繁反映されたものと思われる。碇ゲンドウに就いてはLCL化は起こらなかった。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

歴代の綾波レイ

下半身だけとなった碇ゲンドウの前に。出現した3人の綾波レイ。幼女の綾波レイは初代、制服に包帯姿の綾波レイは2代目、裸体の綾波レイは3代目の綾波レイだと思われる。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

人類の補完 : 地上

碇ゲンドウの死亡場面の後。ジオフロントと共に上昇していたエヴァシリーズ(綾波レイとの同化状態にある)がロンギヌスの槍(レプリカ)で自らのコアを貫いていました。

エヴァシリーズは自らに与えた死に際して呻き声を上げ、快楽とも見て取れる表情を浮かべていました。これが死の喜び...を表しているのかどうかは分かりません。デストルドーの増大の末にはこのような死が待っているのでしょうか...。

このエヴァシリーズ(綾波レイとの同化同化状態にある)の「自殺」を合図にしたかのように地球上では光の十字架が無数に出現して行き、無数の赤い球体が地上から上って来ていました。

エヴァシリーズと同化した綾波レイ、それを「人類の(個々の)素体(最初の状態)」、「人類」としての綾波レイだとするなら、綾波レイと同化状態にあるエヴァシリーズは人類と結び付いているとも考える事が出来、そのエヴァシリーズのコアにロンギヌスの槍を突き立てると言う事は人類のコア(全ての個々のコアに繫がるコアとも人類全体のコアとも解釈出来る)にロンギヌスの槍(アンチATフィールド)を突き立てているのと同じだと考える事も出来るのでは無いかと思います。そうだとすると、この場面は綾波レイと同化状態にあるエヴァシリーズに死の喜び、死の快楽を与える事によって(同化先である)人類を死(ATフィールドの消失)へと向かわせている場面に見えます。(同化した綾波レイの解釈からして既に見当違いを起こしている可能性もありますが...。)

赤い球体はジオフロント(リリスの卵)に吸い上げられ、ジオフロントを通してリリスの掌の亀裂に吸い込まれていました。(映像的にはそのように見えました。)また、ジオフロント(リリスの卵)の上方の極点からはジオフロント内に赤い球体が流れ込んでいるように見えました。

自らコアを破壊したエヴァシリーズは活動停止に至り、ロンギヌスの槍(レプリカ)に貫かれたままの状態で両手を広げた形で十字架を形勢し、宙を漂っていました。エヴァンゲリオン初号機のコアにロンギヌスの槍(オリジナル)が刺さった時はロンギヌスの槍(オリジナル)とコアとの融合が起こっていましたが、こちらは違うようです。エヴァンゲリオン初号機とは違い、エヴァシリーズの場合はロンギヌスの槍(レプリカ)がコアを背中まで突き抜けていました。

赤い球体は前述でも触れたように「人間の魂」であると考えられます。映像では描かれてはいませんが、恐らく、地上でも全ての人間(全人類)の肉体のLCL化が強制的に起こっているのだと思います。そして、肉体のLCL化に際してはそれぞれの人間に綾波レイ(アニマ的側面)の出現があったのでは無いかと思われます。(これに就いては映像的な表現が行われていないため、当然、綾波レイが出現していない可能性...綾波レイと同化している状態のエヴァシリーズが自殺する事によって綾波レイの出現が無い状態での強制的融解が起こっている可能性...も考えられます。

肉体から解放された魂の上昇先は「リリスの卵」であり、「リリスの卵」を介して「リリス」へと流れ込んでいるようでした。カバラ的に言うのであれば「マルクト(地球)」、「イェソド(リリスの卵)」、「ビナー(リリス内)」と言った流れだと思います。IHVH風に言うと深淵を越えて「ビナー(天上の母の座、聖霊の座、霊の玉座)」への上昇が起こった状態です。ただ、リリス内に関しては「ビナー」と言うだけでは無く、「ビナー-コクマー」的な面や「ビナー-コクマー-ケテル」的な面、そして最終的には単に「ケテル」的とも言える面が見られるため、「ビナー」と特定するよりは「深淵上」とした方が適当かも知れません。

解放された魂を吸い上げる巨大リリスの周辺には10個の光が輝いていました。これは自害したエヴァシリーズでは無いかと思われます。ただ、エヴァシリーズが9体であったのに対し、周辺で輝いていた星の数は10であり、数が一致しない事からエヴァシリーズでは無い可能性も十分に考えられます。

地上に出現した光の十字架と地上から上昇する魂

地上には光の十字架が次々と現れて行き、それと共に赤い球体(個々の魂)が地上から上昇。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

リリスの体内へとガフの扉(女陰)から帰還する魂

肉体から開放され上昇した魂はジオフロント(リリスの卵)へと集まり、リリスの掌の女陰(ガフの扉)よりリリスの体内へと帰還して行く。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

リリスの卵(黒き月)へと集められる魂

地上からリリスへと還って行く魂。宙に見える10個の光は自害したエヴァシリーズだと思われる(が、エヴァシリーズは9機のはずなので数が合わない。)赤い十字架はロンギヌスの槍との融合によって生命の樹と化したエヴァンゲリオン初号機。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

一連の流れの中、十字架を形成するエヴァシリーズが満月の手前に映る場面があります。巨大リリスが12枚の羽を広げた場面では月は地球から見て新月になる状態であり、現在、月が満月として見えるのは月の裏側のはずなのですが。ここでは天体とエヴァシリーズの位置関係が分かり難くなっているように感じました。

満月とエヴァシリーズ

エヴァシリーズの向こうに満月の月が見える。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

碇シンジの入場

全人類が肉体を強制的に剥奪され、その魂が人類の祖、原初の人間、天上のアダム(「エヴァンゲリオン」内ではアダムでは無くリリス)へと帰還して行く中、碇シンジ(エヴァンゲリオン初号機とロンギヌスの槍の融合によって作られた生命の樹)がリリスへと入場します。(映像からの判断は出来ないため全人類がリリスへの帰還を「完全に終えた後」である可能性もあります。)

生命の樹(初号機、碇シンジ、ロンギヌスの槍)がリリスの額へと近づくとリリスの額には第三の目が出現。生命の樹(初号機、碇シンジ、ロンギヌスの槍)はそこからリリスの内部へと潜って行きました。

このリリスの額に現れた第三の目は明らかな女陰の形をしていました。ここでも「目=女陰」と言う表現が見られます。

第三の目から生命の樹が入場して行く場面は女陰と男根の結合を表しているものと思われます。

碇シンジがリリスへと入場すると、そこは水の中になっていました。水中には魚のように群れで泳ぐ無数の綾波レイの姿がありました。

この綾波レイは女性の胸を持った碇シンジの姿へと変化していました。姿が固定されていないのは、これら(個としての形)が未分化の状態であり、何にでもなる可能性を秘めた存在だあるためかも知れません。

魚のように群れて泳ぐ無数の綾波レイはコクマーの勢力、それが綾波レイの形を纏ったもののように見えました。セフィラで言えば形を纏っているのでビナー的に思えますが、ただ、形が定着していなかったり(碇シンジへの変化)、全て同じ姿をしていて「個としての形」が与えられていなかったりする辺りからは(仮初の形は与えられているものの)コクマー的な感じを受けます。真に全てが未分化であればそれはケテル的と言えるのですが、ここでの綾波レイは勢力として分化した状態に(自在であれ部分限定であれ)形は与えられているものの、個の形としては未分化と言え、コクマー(勢力の分化)とビナー(形の限定)の中間ぐらいの印象を受けました。(コクマー的でありビナー的であり...とは言ってもダアト(コクマーとビナーの結合)とはまた違うように思います。)また、形が定まっていない事を「形が無い」、「制限されていない」と考えるのであれば、そして「形の無い形」、「制限されていない形」を表すものとして綾波レイ(碇シンジ)の形が使われているだけだとしたら、綾波レイと言う形は「形が無い」と言う事の表現であると言え、単に「コクマー」的だと言えると思います。

魚のように群れて泳ぐ無数の綾波レイは水の中の生命、精子(I(ヨド))として解釈する事も出来ます。(胸のある碇シンジへと姿を変えて見せていましたが、精子は象徴的には両性併存です。)そして、この魚のような綾波レイを精子(コクマーの勢力、生命力)だとするとそれが泳ぎ回っているリリスの体内はコクマー的であると言えると思います。対して(こちらも少し無理をすれば)リリスの卵は卵子であり、ビナー(形を与えるセフィラ)的であると言え、「リリス-リリスの卵」でコクマー-ビナーを形成していると解釈する事が出来ます。(リリスの卵は縮尺によってはイェソドとして、また、別の縮尺によってはビナーとして見る事が出来ます。)

群れになって泳ぐ無数の魚(のような綾波レイ)は地上から吸い上げられた人間の魂(赤い球体)のリリス内での姿であるとも考えられます。ただ、どれも同じ姿をしていて個性が見られない事から「個としての特質を得る前の魂」、「個としての特質を失った魂」を表現しているようにも見え、個の特質を帯びている事が魂の本質であると思っている姫としては、個としての特質を失っているように見えるこれらの事を魂と呼んで良いものか...とは思います。それでも魂と言う言葉を無理に使うのだとすれば、個の特性を帯びる前の魂の素体...魂の素材...などと言った言い方になるのでは無いかと思います。どれも綾波レイ(リリス)の姿をしている事に就いては、綾波レイ(リリス)の姿は人間の素体としての姿(何も無いニュートラルの形、人の原型)でもあるようなので、個としての特性を持っていない魂(と考えた場合)の姿、魂の素体の姿もその形になる...と言うような考えも出来ると思います。

綾波レイはミクロコスム的に見るとそれぞれが「純化した魂(イェキダー)」、ケテル(収縮した点であり、遍在する点、不可分の個そのもの)であるとも考えられます。ただ、ケテル(イェキダー)はカバラでは個としての特質を完全には失っていない個そのものと言える状態であり、ここでの綾波レイは個としての特性も失っている事から、カバラ的にはケテルとして扱うには適切では無いかも知れません。(姫はケテルに至った個に就いては個として特質を失うものと考えているので()、意識的な方向を持たない遍在する点と言う意味ではこれらをケテル的に(何にも捉われない状態(ケテル)から限定が起こった直後の状態として)見る事は出来ますが。)

(心の解釈に生命の樹を使う場合、姫は魂などの局所的な問題を扱う場合でも、その局所的なものに対応した生命の樹を用いるのでは無く、心全体を扱うための生命の樹(局所を扱う場合と比べると少し大きな縮尺の樹)を用いて解釈するようにしています。また、生命の樹の方を自分の使いやすいように(都合の良いように)改良してもいます(※※)。そのため生命の樹を使った解釈を行っていてもカバラの解釈とは差異が出て来ます。)

(※※そうで無いと、魂の定義からして違うので、そのままでは使えません。本当はそこまでして生命の樹の上での解釈を行う必要も無いのですが、生命の樹には便利な面や有用な面が確かにあり、それを何とかして使いたくなってしまうのはカバラを齧った魔術師の悪い癖かも知れません。)

リリスの額に浮かんだ第三の目(女陰)

リリスの額に浮かんだ第三の目。第三の目は明らかな女陰の形をしている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

生命の樹(男根)と第三の目(女陰)の結合

第三の目からリリス内部へと入場する生命の樹。男根と女陰の結合を象徴しているものと思われる。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

無数の綾波レイの姿が碇シンジの姿に変わったところで映像が重なり激しく流れて行く場面へと切り替わります。そこでは碇シンジの中に「他者(女性)が相手を否定、拒絶する言葉」が無数且つ一斉に流れ込んで来ていました。(水の中を泳いでいた綾波レイ達が流れ込んで来たとも考えられます。カバラ的にはこの状態でもそれぞれ個そのものの部分は残っていると言う事になりますので。)更に、街の中の日常音、女性の快楽の声、笑い声などもそこに加わり、映像も音も複雑に交じり合っていました。

惣流・アスカ・ラングレー :「意気地なし」

交じり合った映像と音は惣流・アスカ・ラングレーの「意気地なし」と言う言葉で閉じていました。

葛城ミサト :「そんなに辛かったらもうやめてもいいのよ」

綾波レイ :「そんなに嫌だったら逃げ出してもいいのよ」

葛城ミサト :「楽になりたいんでしょ。安らぎを得たいんでしょう。私と一つになりたいんでしょ。心も身体も。一つに重ねたいんでしょ」

混雑した映像と音が収まった後、女性(葛城ミサト、綾波レイ)が優しい声で語り掛けて来ます。それは碇シンジの逃避や碇シンジとの融合を容認して許可する言葉でした。これらの容認や受け入れの言葉は、「単に」と言うよりも、どれも碇シンジを誘引、誘惑しているように感じられます。

ここでは日常音、否定の言葉、笑い声は消えていましたが、女性の快楽の声だけは消えずに残って流れ続けていました。また、2度目の葛城ミサトの台詞の箇所からはその言葉と重なるように女性の裸と思わしき映像が重なり流れていました。

ここにある(残った)視覚的刺激と聴覚的刺激とは通常であればリビドーを刺激すると思われるものなのですが、ここでの碇シンジを見ると、それによってリビドー(生への欲望)が喚起されると言った様子は見られません。それは碇シンジを生へと繫ぎ留めるものとしては働いていないようでした。

ここでの言葉や映像はリビドーを呼び起こす類のものである反面、ここまで降りて来た者を更に深く沈み込ませる働きを持ったものでもあるように感じます。そして、それは他者にも自分にも絶望した碇シンジに対しては、前者、個として他者を得ようとする(他者と結び付こうとする)欲望、生への欲望を呼び起こすものでは無く、後者、自身と他者とが同一となり溶け合う(自身が消失する)世界、自他の無い世界へと導き向かわせる(更に沈み込む方向へと誘い込む)誘惑として働くものとなっているのでは無いかと思います。

これらの女性は拒絶され沈んで来た者を誘惑して呑み込もうとしているように見えます。他者に傷付き、他者を否定した者の前に現れた優しい他者、自分を受け入れてくれる他者です。嫌な事、辛い事、全てを捨てて私達と溶け合おうと誘引して来ています。

惣流・アスカ・ラングレー :「でも、あなたとだけは絶対に死んでも嫌」

女性の優しい呼び掛けが続いた後、最後は女性の声(惣流・アスカ・ラングレー)による相手を否定する言葉で終わっていました。

最後の女性の声は惣流・アスカ・ラングレーでした。この惣流・アスカ・ラングレーの「でも、あなたとだけは絶対に死んでも嫌」は素直に見れば相手を完全に拒絶している言葉に聞こえます。ですが、裏を見れば碇シンジの事を好き故の言葉としても捉える事が出来ます。

姫の話になりますが、姫はあやちゃんが好きなので、あやちゃんとだけは一つになりたくありません。一つになってしまうと姫が姫としてあやちゃんと接する事が出来なくなるためです。あやちゃんに愛でて貰う事もあやちゃんと抱き合う事も出来なくなりますし、あやちゃんに好きだと言われて嬉しい気持ちになる事も無くなります。もし、「姫もあやちゃんも区別が付かない状態」が得られるとしても、あやちゃんの事を好きな姫は確実にそれを拒絶すると思います。(そもそも姫はあやちゃんとの間だけの事では無く(即ち、好き嫌いは別にして)他者との間に何も無くなる事を望みません。他者と心も身体も一つになれば他者の心や身体を求める必要は無くなりますし、他者の心に対して不安や恐れを抱く事も、他者から身体的な危害を受ける事も無くなります。ですが、その一方で他者の心に触れて幸せな気分になる事や、他者の手によって愛でて貰う事も無くなります。他人との差が無くなれば「他人の恐怖」も消えますが、「自分自身」も「他人の快楽」も失う事になります。これはあやちゃんも望んでいない事だと思います。あやちゃんは他人との間で得られる優越感を積極的に好みますので。ただ、姫の場合は究極的には他の人間がこの世から消え去ってもあやちゃんだけがいれば良いので、最後には「あやちゃんとだけは一つになりたく無い」と言う気持ちが残るのだと思います。)惣流・アスカ・ラングレーがどう言う意味で碇シンジとの融合を拒絶する言葉を放ったのかは分かりませんが、単に嫌悪の対象であるために拒絶したとうよりは、もしかすると碇シンジの事が好きだから拒絶したのでは...と言う可能性もあるのでは無いかと思いました。勿論、単に嫌悪の対象であるために拒絶しているとも考えられますが。

碇シンジが他者と溶け合って消え行く中で惣流・アスカ・ラングレーが放った拒絶の言葉は碇シンジにとっては自分を消し去る「止め」となる言葉のように聞こえますが、それと同時に(既に自分自身の存在を自分では示そうとしなくなっている)碇シンジを最後に存在させた()他者の言葉でもあるように思います。

(その言葉が碇シンジに世界への未練を捨て去る事を踏み留まらせた...とまで言えるものなのかどうかは分かりませんが、深読みするとその可能性も無いとは言えないと思います。ただ、ここでは単純に「最後に存在させた」とだけしました。)

この場面での碇シンジを飲み込もうとしている女性達の言葉、それは碇シンジと言う存在を消え行かせるものではありますが、その女性達からは「碇シンジ」と言うよりも誰でも良いので誘い込んでいると言った感じを受けました。それに対し、惣流・アスカ・ラングレーの言葉は碇シンジを碇シンジとして拒絶しているように(思い過ごしかも知れませんが、そう)聞こえます。碇シンジが嫌っていた他者による拒絶ですが、既に自分自身の存在を示そうとしない碇シンジにとっては、この他者からの拒絶、他者の認識の中にある「碇シンジ」が唯一の「碇シンジ」となっていると言えると思います。それは碇シンジの望まない形での事ではあると思いますが、そこには碇シンジの存在があったように思います。

誰でも良い存在としてだた他者に受け入れられ、自分も、自分が認識する他者も、自分を認識する他者も消え、どこにも自分が、どこにも他者が存在しないのと同じ状態を迎えるか、拒絶されてでも他者に碇シンジとして扱われる事を望み、自分自身も碇シンジとして他者との関わりの中に存在しようとするか...。拒絶されるくらいなら前者を選ぶと言う人もいるかと思いますが、自分自身として生きて行けるのであれば後者でも構わないと言う人もいるかも知れません。(理想は自分自身として生き、自分自身として他者に受け入れられる事だとは思いますが...。これは他人があっての事なので...。)

ここではエジプト神話にあるオシリス神の死と再生の話を思い起こしました。

オシリスはセトの謀略によって棺に入れられてナイル川に投げ込まれた後、遺体となった状態でイシスに発見されますが、その遺体はイシスの下からセトによって盗み出され、14部に切り刻まれて遺棄されます。イシスはバラバラにされたオシリスの各部を探し出し、それを繫ぎ合わせて復活させますが、この時、オシリスの男根だけは見付ける事が出来ないままでした。オシリスの男根がナイル川(水の中)で魚によって食べられて(呑み込まれて)しまっていたためです。そして、復活した後のオシリス(オリジナルの男根を持たないオシリス)は地上を去って地下の世界の王となり、地上には代わりにイシスを通じて(孕ませて)太陽神ホルス(新たな男根)を残し(新生し)ました。

(イシスがホルスを身篭った経緯に就いては、男根が見付からなかったオシリスにお手製のファルス()を取り付けて復活させ、それを使って身篭ったとされます。また、これにはイシスがオシリスの遺体を発見した後、セトによってオシリスの遺体がバラバラにされる前にオシリスの遺体との間に出来たと言う説も見られます。)

(ファルスは直立男根像。イシス、あるいはトートの魔術の杖であり、身近なところで言えば「ロンギヌスの槍」。)

碇シンジを見ると、生命の樹に乗って(棺に入って(※※))リリスの額の女陰からリリス内(水の中)へと入り、リリス内で客観によって殺害されましたが(セト(他者)によって殺害された。あるいはバラバラにされたとも)、その後にあるこの場面(女陰の中で碇シンジのリビドーを破壊している場面。男根を呑み込み、リビドーを吸い尽くそうとしている場面)では、碇シンジ(の男根)は、男根を魚に食べ尽くされてしまったオシリスとは違い、水の中(女陰の中、リリスの中)で2匹の魚(綾波レイと葛城ミサト)に食べられた(呑み込まれた(呑み込む魚の口=女陰))だけで、3匹目の魚(惣流・アスカ・ラングレー)には食べられなかった(吐き出された)と言えます。

(※※自ら世界を拒絶した碇シンジはゼーレの用意した棺に自ら入ったとも解釈出来ます。オシリスはセトの用意した棺にセトの謀略によって自ら入りました。)

これにより碇シンジの男根(生きる意志であったり、創造的力であったり)は辛うじて残ったとも考えられなくはありません。そして、ここで碇シンジの男根が破壊され尽くされずに僅かでも残された事が、この後の場面での碇シンジの再生に繫がったようにも思えます。もし、ここで碇シンジの男根がオシリスの男根のように魚によって食べ尽くされていたら、この後の場面での碇シンジの復活(神性の海での融解した状態からの再構築。イシス(綾波レイ、リリス)の下からの新生)は無かったかも知れません。合一は零にも新生にも繫がりますが、合一による零を迎えたままだった可能性もあったと思います。

群れを成して泳ぐ無数の綾波レイ

リリスの内部。無数の綾波レイが魚のように群れを成して泳いでいる。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

碇シンジを見つめる綾波レイ

碇シンジを見つめる綾波レイ。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

綾波レイが姿を変えた碇シンジ

その姿は瞬時に碇シンジへと変化していた。身体は女性体のまま。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

夢と現実

惣流・アスカ・ラングレーの声が碇シンジとの融合を拒絶した後、場面は実写パートへと移ります。実写パートでは背景音楽(BGM)にバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」が流れていました。

実写パートでは最初に映画館の館内と思しき場所が映し出されていました。その客席にはお客の姿は無く、全て空席になっていました。

誰もいない映画館が映し出された後、直ぐに場面は切り替わります。そこでは朝を迎え行く街が映し出されていました。朝を迎えた街には人々の活動が見られました。

映画館は夢を見る場所、夢を見るために人が集まって来る場所です。それに対して街の風景はその外の世界であり、日常、現実の世界です。この映画館と街の風景は夢と現実の対比になっているように感じました。

碇シンジ :「ねぇ」、「夢って何かな」

碇シンジの台詞と共に場面は再び映画館に移ります。今度は客席が大勢の人々で埋まっていました。映画開始前のように見えました。

(この現実パートに時間軸がきちんと働いているのかは分かりませんが、時間軸が働いていると言う前提で考えると...最初に映った映画館は街が朝を迎える前の映画館であり、故に客席に誰もいなかったものと思われ、街が朝を迎えて人々が活動を開始した後に映った映画館(2回目)は開館時間を過ぎた後の映画館であり、故に映画(夢)を見ようとする人々が集まり客席が埋まっているものと思われます。)

映画館の客席が映し出された画面には碇シンジの台詞に続く形で「気持ち、いいの?」と言う言葉が表示されていました。

ここでの問い掛けは、碇シンジが(自問的な部分を含み)綾波レイに行った質問と言うだけで無く、映画館の来場者、「エヴァンゲリオン」と言う夢に夢中になっている人達、現実の世界から夢を見るために集まった人達にも向けられているのでは無いかと思います。

碇シンジ :「分からない。現実がよく分からないんだ」

綾波レイ :「他人の現実と自分の真実との溝が性格に把握出来ないのね」

碇シンジ :「幸せがどこにあるのか分からないんだ」

綾波レイ :「夢の中にしか幸せを見出せないのね」

碇シンジの場合...幸せがどこにあるのか分からない...と言うよりは幸せが何であるのかがはっきりしていないように感じられます。

(別のところでも書きましたが...)姫は魔術師ですので夢を積極的に扱うのですが、だからと言って夢の中で生きようとする事はありません。姫が姫として生きるのは現実世界(主体-客体)の中だけですし、夢は現実への影響ではあっても姫の生きる場所では無いと思っています。それ故、現実が苦しいからと言ってそれを拒絶する事はありませんし、夢の中で生きようする事もありません。また、夢を現実に持ち込む事はありますが、現実の中で夢をそのまま(現実に適応させずに)扱うような事はしません。その姫から見ると夢の中に幸せを見出そうとする事の方が難しく感じられます。例え夢の中に幸せを築けたとしてもそれは虚構でしか無いと感じてしまいそうですし、直ぐに夢を現実へと適応させる事を考えるだとうと思います。

碇シンジ :「だからこれは現実じゃない。誰もいない世界だ」

綾波レイ :「そう、夢」

碇シンジ :「だからここには僕はいない」

綾波レイ :「都合のいい作り事で現実の復讐をしていたのね」

碇シンジ :「いけないのか?」

綾波レイ :「虚構に逃げて真実を誤魔化していたのね」

碇シンジ :「僕一人の夢を見ちゃいけないのか?」

綾波レイ :「それは夢じゃない。ただの現実の埋め合わせよ」

碇シンジの言う「夢」は夢は夢でも自分の思い通りになる範囲の夢であり、空想の事を夢と言っているようです。これが現実との区別が失われて現実の中にそのまま持ち込まれてしまうと妄想になるのですが、碇シンジの場合は空想を空想である(現実では無い)と理解しているようであり、妄想が起こっている状態とは違うようです。

この一連の台詞中、人々が行き交う街の映像が流れていたのですが、その中に綾波レイ、葛城ミサト、惣流・アスカ・ラングレーと思しき人物の後ろ姿がありました。現実世界に夢が紛れ込んでいる映像です。

現実世界に現れた綾波レイ、葛城ミサト、惣流・アスカ・ラングレー...この場面は夢を直接的に(即ち、本物の綾波レイ、葛城ミサト、惣流・アスカ・ラングレーを)現実へと持ち持ち込まれた状態を表現している場面として捉える事も出来ますし、単に現実世界の人間がコスプレをして街の中で立っている場面として捉える事も出来ます。

前者であれば現実と夢の狭間のような感覚を受け、非現実的な映像に見えて来ます。それは夢をそのまま現実へと持ち込もうとする事の滑稽さを表現しているようにも、現実での夢の可能性を表現しているようにも見えます。

後者であれば3人は現実の世界で夢を体験している人物と言う事になり、夢を可能な範囲で現実へと持ち込んだ一つの形として見る事が出来ます。これも現実での夢の可能性の一つだと思います。ただ、こちらも前者と同様に日常からは浮き出ているように見え、強い違和感はあります。

この場面を前者として捉えるのが適切なのか後者として捉えるのが適切なのかは判断が付きませんが、恐らくは前者では無いかと思います。

ここでの一連の台詞の終わりと共に場面は映画館の館内へと戻ります。3回目の映画館です。

客席では人々がざわ付いていました。恐らく映画を見終えた後なのでは無いかと思います。

碇シンジ :「じゃあ、僕の夢はどこ?」

綾波レイ :「それは現実の続き」

碇シンジ :「僕の現実はどこ?」

綾波レイ :「それは、夢の終わりよ」

ざわついた人々で埋まっている客席が映った後、映像は直ぐに誰もいない館内へと切り替わっていました。お客は夢を見終えて現実世界(映画館の外)へと帰って行ったのだと思います。

映画館を出た人々が現実は現実、夢は夢として現実へと帰って行くのか、現実の中にまで夢(そのままの夢)を引き摺って帰って行くのか、それは人それぞれだと思います。姫は夢と現実の混同は(意図的にそれを試みる場合を除いては)行わないようにしていますし、夢を現実へと持ち込む場合には現実への適応を図る事によって実現しようとしますので前者ですが、中には後者のような方がいても可笑しくは無いと思います。

ここでの綾波レイは碇シンジの話に付き合い、それだけで無く碇シンジの抱く疑問にもきちんと答えていました。碇シンジを導いているようにも感じられます。

ここでも碇シンジと綾波レイの遣り取りは映画館の来場者、「エヴァンゲリオン」(夢)に夢中になっている人々へと向けられている言葉でもあるように感じました。

開館前の映画館館内

空席の映画館館内。開館前だと思われる。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

朝を迎えた街

朝を迎えた街。人々の活動が開始される。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

客席が埋まった映画館館内

2回目の映画館館内。客席は映画(夢)を見るために集まった人々で埋まっている。映画が開始される前だと思われる。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

現実の中に現れた綾波レイ、葛城ミサト、惣流・アスカ・ラングレー

行き交う人々の中に現れた綾波レイ、葛城ミサト、惣流・アスカ・ラングレー。現実の中に夢が紛れ込んでいる映像。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

映画(夢)を見終えた観客

3回目の映画館館内。客席の人々がざわめいている。映画を見終えた後か。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

観客が帰った後の映画館館内

観客が帰った後の映画館館内。夢を見終えた人々が現実世界へと帰って行った後。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

倒れる巨大リリス

現実パートの終わりと共に巨大リリスの首(ダアト(コクマーとビナーの結合)だとすると偽りの王冠の崩壊とも取れる)が切れて大量の血が噴出していました。

これは夢(リリスの側面の一つは月(イェソド的な月)であり、月の幻想、夢)の終わりの始まり、目覚めを表しているのかも知れません。

首から血を噴出すリリスは右側へとゆっくり倒れて行きました。ここでは倒れるリリスの後ろから太陽が出現していました。リリスの後方にあるかと思われた月はここでは見られませんでした。

この場面が「月(夢)が去って太陽(自我)が姿を現した事の象徴的な表現」だとするなら、リリスは月の代わりとして使われている可能性があると思います。月に隠れていた太陽が姿を現す事を表現するのに現実的な月では無く象徴的な月(リリスは象徴的には月です)を使ったのでは無いかと。その時に本物の月が太陽を隠していたのではリリスが倒れる意味が無くなるので月を映らないようにしたのかも知れません。

場面が切り替わると満月状態の月と活動停止状態のエヴァシリーズが大きく映し出され、そこに巨大リリスからの血飛沫が飛んでいました。巨大リリスからの血飛沫は月にまで届き、月面に付着していました。

この映し出された月はリリスの血や活動停止したエヴァシリーズと一緒に映っている事から月の表側の面(地球側の面)であると思われますが、なぜか満月状態で明るく光を放って(反射して)いました。リリスが羽を広げた時の太陽と月と地球の位置からすると月は表の面が暗く裏の面が明るい状態のはずなのですが...。見ていて月の現在位置が非常に把握し難く感じられる場面でした。

右側に倒れて行ったリリスは、その後、首から血を噴出した状態のままで仰け反るように後方へと倒れていました。

巨大リリスはジオフロントの高度(22万キロ(メートル)以上)から考えると月軌道までの距離よりも大きいはずですが、地球の大きさと比べるとそこまで大きくは無い...と言うよりもそこまでに遠く及んでいないように見えました。そもそも、基準としたジオフロントの位置からして地球の大きさと比べると高度22万キロ(メートル)以上には達していないように感じられます。巨大リリスの出現から羽を広げるまでにも同じ事を感じましたが、ここでも改めてそれを感じました。

首から血が噴出して倒れるリリス

首から血が噴出して倒れるリリス。リリスはゆっくり右側へと倒れて行き、その後、後ろへと仰け反るように倒れて行った。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

満月状態の月と活動停止状態のエヴァシリーズと巨大リリスからの血飛沫

満月状態の月と動停止状態のエヴァシリーズと活巨大リリスからの血飛沫。巨大リリスからの血飛沫は月にまで達し、月面に付着。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

人類補完後の世界 : 綾波レイ-碇シンジ(全-一)

場面はリリス内部と思われる場所に移ります。そこには碇シンジと綾波レイの姿がありました。綾波レイは仰向けになっている碇シンジの上に跨っていて、その身体は碇シンジとの接触部分、前腕部や下半身が碇シンジの身体の中に埋まった状態になっていました。

リリスは自分の上にアダムが乗る事を嫌い、アダムは自分の上にリリスが乗る事を嫌い...これがリリスが楽園を飛び出した理由だとされていますが、ここではリリスが上になっている状況であり、リリスとしては問題の無い体勢になっています。

碇シンジ :「ここは?」

綾波レイ :「ここはLCLの海、生命の源の海の中。ATフィールドを失った、自分の形を失った世界。どこまでが自分で、どこからが他人なのか分からない、曖昧な世界。どこまでも自分で、どこにも自分がいなくなっている、脆弱な世界」

碇シンジ :「僕は死んだの?」

綾波レイ :「いいえ。全てが一つになっているだけ。これがあなたの望んだ世界、そのものよ」

ここでの綾波レイは碇シンジの上に乗っている綾波レイ、唯一人であり、碇シンジがリリス内部に沈んだ時に無数に泳いでいた綾波レイの姿はありませんでした。この状況に至る過程で(あれを個々の魂だとするなら(肉体に続いて)魂の形まで失い)周囲の水に融解したのでは無いかと思われます。

「他者との間にある曖昧なもの」を嫌った碇シンジが辿り着いたのは「他者との間が曖昧」な世界でした。他者との間が曖昧になった事により、碇シンジを傷付けていた「他者との間の曖昧なもの」は消え、碇シンジが求めていた「他者との間にある確実なもの」は無意味なものとなりました。それは曖昧さが全てに及んでしまった事により何も無いのと変わりが無い世界です。そこには他者との関係による苦しみはありませんが、他者との間で得られる喜びもありません。

ここでの綾波レイも優しく、碇シンジの問い掛けにきちんと答えていました。これまでの他人とは違い、どこまでも碇シンジに合わせて接しているように感じます。

この状態はカバラ的に言うなら、恐らくはケテルに相当する状態だと思います。(生命の源の海、大いなる海、原初の母なる海、神性の還る海と言うだけであればビナーでも良いのですが、現在の状態的にはケテルが近いように思います。)ケテルは全てが含まれ、全てが未分化の状態のセフィラです。(ただ、分化して地上を経験した全てが戻って一つになっている事を考えると、ケテルの未分化状態と言うよりは同じ全一でもケテル-マルクトと言った方が適切かも知れません。)

ここでは綾波レイと碇シンジが境界線が曖昧ながらも未だ自分の形を留めています。この事から未だケテルには至っていないとも考えられます。

ビナーはコクマーを伴ってケテル(王冠、絶対者、一者)へと至るのですが、人類は人の形を失い天上の霊の座であるビナーへと至り、碇シンジ(子なる神)はティファレトから天上の子なる神の座であるコクマーへと戻り、双方とも深淵の上(巨大リリスの内部=深淵の上の世界)には達したものの、綾波レイ(ビナー)と碇シンジ(コクマー)が境界線が曖昧ながらも分化されているところを見ると厳密にはケテルへは至っていないのでは無いかと思われます。恐らく、ここから碇シンジも綾波レイも無い状態になって初めてケテルへと至ったと言えるのでは無いかと。そして、(以降の展開を見ると)それを決める権限は碇シンジが握っているようです。

碇シンジの置かれている状態はヌイト(アイン)とハディト(ケテル)の合一()として見る事も出来ると思います。ヌイトはアイン(本来は無として扱いますが、この場合は無限としての扱い)、ハディトはケテル(遍在する点)です。この場合、リリス(体内)がヌイト(アイン)であり、碇シンジがケテル(碇シンジを無限小にした点、碇シンジが収縮した点、遍在する点の一つ。イェヒダー、純化した魂(※※))になります。無限空間に碇シンジの心的無限小の点、碇シンジ(個)そのものがある状態です。

(姫の定義(一部に独自の改修を加えて都合の良いように使っている定義)では...アインは無であり、全てが未顕現の状態であり、全ての可能を含むけれど何も無い状態...ケテルは顕現した無限(無では無く有)の中に全てを未分化未顕現の状態で含み、どこにでも点を取れる状態...と言ったイメージを適用させる事が多く(場合によっては変わります)、上記のヌイトとハディトの合一で用いたアインとケテルの定義とは少し異なる部分があると言えます。そして、その姫の定義内で見た場合、碇シンジの置かれている状態(全体的な状態)は「ヌイト(アイン)-ハディト(ケテル)」と言うよりは「ケテル」に近い状態と言う事になります。(そう見た方が扱いやすいので。)実際には「ケテル」とも違うので、敢えて選ぶとすればになりますが。)

(※※カバラ的には魂はケテル(イェヒダー、純化した魂)に至っても個である部分、個としての特性を持ち続けます。ですが、姫が用いている魂の定義と姫が心を扱う際に好んで用いている縮尺の「生命の樹」では、魂はケテルにおいては個である部分を失い、故に魂とは呼べないものになります。(魂と呼べなくなると言うのは姫の中に「個なる部分を持っている事」が魂の定義の前提としてあるためです。)カバラ的はここでの碇シンジをイェヒダー(ケテル)に相当するものとして(「これ以上分化出来ない碇シンジそのもの(カバラ的なケテルに近い状態)」を表現しているものとして(余りそうは見えませんが...))扱う事も出来るのですが、姫としてはこれ(全体では無く個としての碇シンジ)をケテルとして扱うのは少々難いところだと言えます。合わせるように努力すれば可能だとは思いますが。)

グノーシス(キリスト教グノーシス)の一つで見ると、これは天上の座のイエス・キリスト(碇シンジ)と聖霊(綾波レイ)として見る事や、或いは天上の「婚礼の座」で待っていた天使(綾波レイ)と「婚礼の座」にやって来た救済されし者(碇シンジ)として見る事も出来ると思います。(前者と後者では両者の役割が逆転していますが...どちらに見る事も可能であるように思います。カバラ的に見るとここまでの過程も含めて前者として見た方が解釈は楽です。)

後者として考えるとリリス内に群れで泳いでいた無数の綾波レイは「救済された魂の天上でのそれぞれの伴侶」であったと言う考えも出て来ます。救済される魂を「婚礼の座」で迎える霊的結婚相手です。魂はこれを得て(即ち、リリス内部に入った魂がリリス内で綾波レイを得て)最終的な救済が果たされた言う事になります。描かれてはいませんが他の魂もそれぞれの綾波レイを得て「婚礼の座」に着いているのかも知れません。(群れで泳ぐ綾波レイを「リリス内に吸い上げられた魂」として考える場合とこれとでは綾波レイの性質が逆転していますが...どちらも解釈可能だと思います。努力次第では。)

碇シンジの左手には葛城ミサトが碇シンジに渡した十字架が握られていました。この世界において、これが碇シンジのイメージとして形を残しているのか、それとも物質として残っているのかは不明ですが、碇シンジにとってはこの十字架が元の世界(地球であったり物質世界であったり他人であったり)との唯一の繫がりであり、果ての果てにまで来ても残っているものだったようです。世界に対する未練が碇シンジの奥に残っていてそれを表現したのがこの十字架なのかも知れません。

碇シンジ :「でも、これは違う、違うと思う」

綾波レイの「これがあなたの望んだ世界、そのものよ」に対しての碇シンジの台詞です。

世界と自分の存在を否定した際の碇シンジの台詞を直接的に受け取るなら、碇シンジは他者の死と自らの死を望んだと言う事になります。それは生命体としての死であるように感じられましたし、その死によって自も他も無くなる事を望んでいたように感じました。ですが、ここで訪れたのは生命体としての死による自他の関係の消滅では無く、自他の間の壁を取り除く事による自他の関係の消滅(死)でした。

傷付く者、傷付ける者を嫌って自や他の死を願った碇シンジからすると、生命体の死によるものでは無かったとしても自他の関係が消えればそれは望んでいた世界と変わらないと言えるのかも知れません。傷付ける者、傷付く者がいない世界、他人も自分もいない世界と言う意味では。

ただ、死して自他の関係を消滅させれば可能も消えますが、死する事無く自他の関係を消滅させているのでここにはまだ可能が残っていると言う事になります。このゼロかゼロで無いかの差は非常に大きいと言えます。

絶望の行き着く先が死であり、可能の消滅だとするなら、ここは絶望の果てとは言えないと思います。ここにはまだ可能が残っていますので。世界や自分に絶望しても生きていれば希望(可能)はあると言う事なのかも知れませんが...絶望の果てにも死が無く可能が残っていると言うのは...少し優しいように感じます。(碇シンジは人間に絶望しながらも別の場所に(綾波レイによって?碇ユイによって?)導かれたのかも知れません。自分も他人もいない世界、母親の胎内を経験させるために。ゼーレの視点に立てば全人類を巻き込むほどのアンチATフィールドを発生させるために碇シンジの心を利用しただけなのかも知れませんが。)

もし、全てが一つになる世界だけで無く全て死滅する世界に行き着く事も可能だったとするならば、碇シンジは他者の存在や自らの存在を拒絶しながらも最後の部分では人間に対する期待(希望)を持っていたのかも知れません。それが、人々が死滅した世界では無く、人々が融合した世界に辿り着かせたのだとも考えられます。自他の存在を拒絶しながら心のどこかではまだ他人を求めていたのでは無いかと。

碇シンジが画面中央で頭部を左側に向けて仰向けになり、その上に綾波レイが乗っている場面。この場面では画面の上側と下側にそれぞれ水面があり、画面上側(綾波レイ側)に月(満月)、画面下側(碇シンジ側)に地球、画面右側(碇シンジの下方)に太陽、画面左側(碇シンジの上方)にリリスの卵(ジオフロント)が見られます。巨大リリスの首から血が噴出して倒れた際には月の位置が不明瞭になっていましたが、これが巨大リリスの内部(と思われる場所)から見た現在の4天体の位置関係なのでしょうか。

この画面では月(※※※)も地球も丸く照らし出されていますが、太陽との位置関係からして不自然な感じがしました。天体が自ら光を発しているように見えます。また、地球は光の無数の光の十字架のために地表が確認出来くなっている状態の筈なのですが、ここでの地球には光の十字架は確認出来ず、現在の地球の状態とは異なっているように見えました。

(※※※グノーシスの中の一つでは月が満ちて行く時は神性の欠片を回収している時、月が欠けて行く時は回収した神性の欠片を太陽へと送っている時と言う考え方もあり、この月は魂を回収して収容許容量に達した月なのかも知れません。実際に魂を回収しているのは黒き月であり、リリスなのですが、そこは月の満ち欠けと連動していると考える事も出来ます。と...アニメの状況に寄せるために力技で頑張って見ましたが...無理があるように感じられます。)

位置の不自然さは黒き月にも感じられます。(月と地球の中間距離よりも高い高度に達していながら)あれほど地球の表面に近い位置に見えものがここでは地球からかなり離れた位置にあるように見えます。

碇シンジと綾波レイのいる場所を巨大リリスの内部だとすると地球の位置が遠過ぎるように感じます。それを考えると、この場所は巨大リリスの内部では無い可能性もあると思います。(巨大リリスの「見た目の大きさ」を無視して「月軌道にまで達する大きさ(※※※※)」として扱うのであれば地球までの「見た目の距離」はこれぐらいになるのかも知れませんが...。)

(※※※※黒き月の高度を22万キロ(メートル)以上とした場合、それを元に考えると巨大リリスは月軌道よりも大きい事になります。一方、地球との大きさで比較すると黒き月の高度は22万キロ(メートル)を越えているようには見えませんし、巨大リリスも月軌道まで達しているようには見えません。)

この場面は、天体の位置関係、天体の状態(月も地球も丸く照らし出されている。地球に光の十字架が見られない)から、到底、リリスの内部だとは思えません。ここでは潔く「イメージ世界の映像」としておいた方が無難なのでは無いかと思います。

融合している碇シンジと綾波レイ

重なり合う部分が融合している碇シンジと綾波レイ。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

地球と太陽と月とリリスの卵(黒き月)

画面上側には月、画面下側には地球、画面右側には太陽、画面左側にはリリスの卵(黒き月)が見える。上方と下方にはそれぞれ水面がある。リリス内部から見た光景と言うよりは、恐らく、イメージ世界の景色だと思われる。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

綾波レイ :「他人の存在を今一度望めば、再び心の壁が全ての人を引き離すわ。また、他人の恐怖が始まるのよ」

碇シンジ :「いいんだ」

綾波レイの台詞からすると碇シンジには、まだ、元の世界へと戻れる可能性があるようです。死んでしまっていれば選択し直す事は出来なかったと思われますが(※※※※※)、絶望の果てであっても死に至らなかった事の重要性がここに感じられます。これは実現世界でも同じですが、全ては望む事から始まります。死んでしまえば可能は消滅します。何かを望む事は出来ません。ですが、生きてさえいれば可能はあり、何かを望む事も出来ます。望めば何事も不可能では無いのが生きていると言う事だと思います。

(※※※※※そもそも個体生命としての死を迎えていればこのような状態にはなっていなかったと思います。(姫はカバラや魔術理論の中に死後の世界や輪廻を取り入れていないため特にそう感じます。)深淵は肉体を持った状態では越えられないとされていますが、個体を中心に見た場合、生命体としての死は「死と再生」の死では無くただの死でしかありません。(地球規模などのように尺度を広げれば「死と再生」の死として捉える事も出来ますが。)死後に個人が客体や文化などの中に沈んで霊(生命体として存在していた事を感じさせるもの)化しても、そこには個そのものはいませんし、(そこに架空の世界を見る事は出来ますが、)固体が蘇る事はありません。碇シンジには(ケテルへの回帰以外にも)まだ再生の可能性が残されているようなので、碇シンジに与えられた死は生命体としての死では無く「死と再生」の死(再生のための死)であったものと思われます。(ビナーは「土星の天球」が照応し、土星は「死と再生」の死を象徴します。))

元の現実世界も、生きている中での可能性も、一度は碇シンジが放棄したものです。それを絶望の果てで再選択出来るのですから、碇シンジは恵まれているように感じます。

いいんだ」と言う碇シンジの顔はとても穏やでした。自他の関係が無い世界を求めて人類的無意識の領域(夢の底)まで辿り着き、その場所に対して「これは違う」と感じた碇シンジ。その碇シンジにとっての「ここでは無い世界」は元の現実世界しか残されていない(※※※※※※)のですが、ここに至って碇シンジはそれでも構わない、現実世界を生きてみようと思えるようになったようです。碇シンジの心が現実の痛みに耐えられるほど強くなったと言う訳では無いと思いますが、体験した事による「気付き」はあったようです。

(※※※※※※この段階で死と言う選択肢が残されているかどうかは分かりませんが、ここでの碇シンジは死を望んでいるようには見えません。死の先には何もありません。死は個そのものとしては無であり、そこに世界はありません。生きて行こうとするのであれば、世界を望むのであれば、残りは現実世界を生きて行くしか無い事になります。)

話は逸れますが、魔術の話を少し。魔術の世界を覗きに来た人の中には少し覗いただけで「これは違う」と感じて去って行く人もいるそうです。夢の世界を求めてやって来た人、夢の世界の住人になろうとやって来た人からすると、魔術師のいる世界(魔術師は夢を扱いますが夢の世界の住人ではく、現実世界を生きようとします)は望んでいた世界とは違うものであり、「これは違う」となるのかも知れません。魔術の世界を少し覗いただけで去って行った人達は、その後、別の居心地の良い夢の世界を探しに行くのでしょうか...。都合の良い夢の世界を求めて歩くのでは無く、魔術師のように夢を現実に適応させて現実をより良く生きようとする事を考えた方が前向きだと思うのですが。

碇シンジ :「ありがとう」

碇シンジは綾波レイの腕を掴んで自分の身体から抜き出し、その手と握手します。それまでは自分も他人も無く融合していましたが、ここでは自分の境界と他人の境界が確りとした状態での握手が行われています。それは碇シンジの心が個としての形を望み、取り戻した事、全てが一つになっていて誰もいない状態(碇シンジと綾波レイを映像として描いてしまっているのでそのようには見えませんでしたが...)から碇シンジと言う存在(ここではまだ肉体(物質)を伴っていない心、補完計画上では魂と呼んだ方が良いのかも知れません)が分化した事を表現しているのだと思います。

「エヴァンゲリオン」の中では、これまでに様々な「手」、何も握るものの無い手、自信を掴む手、渚カヲルを殺害した手、自慰行為に使った手、惣流・アスカ・ラングレーの首を絞めた手などが出て来ましたが、ここでは自分と他者の存在を確認するために「手」が使われていました。

現実パート以降の綾波レイは口調が穏やかで、碇シンジを無視する事無く疑問にも答え、非常に優しく接しているように感じました。それはここでも同じです。綾波レイは良い母親、優しい他人の役割を果たしているようでした。

巨大リリスの額の女陰(第三の眼)からリリスの内部へと潜った後、攻撃的に拒絶を示す女性達、容認し誘惑して来る女性達を経て、最後には唯一人の優しい他人(母親)が待っていてくれたようです。

人類補完後の世界 : 碇シンジと綾波レイと渚カヲル

碇シンジ :「あそこでは嫌な事しかなかった気がする。だからきっと逃げ出しても良かったんだ。でも、逃げたところにも良い事はなかった。だって、僕がいないもの。誰もいないのと同じだもの」

碇シンジが綾波レイの膝枕で横になっている場面へと変わります。碇シンジと綾波レイの接触部分は溶け合ってはいませんでした。

綾波レイの上で横になり身を縮めている碇シンジは羊水の中の胎児にもロータス(女陰=綾波レイ)の上の赤子にも見えます。赤子と同じ姿勢の碇シンジの身体は6(太陽、息子)を形作っているようにも見えますし、アルファでありオメガであるようにも見えます。あらゆる可能性が潜在している状態(顕現前の胎児)です。

碇シンジが他人の存在も自分の存在も拒絶した結果が今の状態なのですが、自身や他者を強く拒絶していても碇シンジの心のどこかには、(剣で分解されて(エヴァンゲリオン初号機とロンギヌスの槍の融合)、その後、女陰の中(リリスの額の女陰からの入場後から全-一に至るまでの場面)で欲望を消失させられたかに見えましたが、)まだ、自分や他人を望む心、自分や他人に対する期待が残っていたようです。自分が望んでいたもの、それが朧気ながらも何であったのか、そして、それがどこにあるのかが分かったようです。

逃避した先に自分の望んでいたものが無いと知った碇シンジ。自分の望んでいるものが逃避によって得らる事は無いと分かっていても逃避を行う人はいますし、碇シンジの逃避しやすい心がこれで完全に改善されたと言う訳では無いと思いますが、逃避前の場所に戻ろうと思うように変化しただけも進歩だと思います。この先、再び逃げ出したくなる事はあっても、今度は今までよりはもう少し頑張れるでしょうし、逃避したとしても(再びここまで逃げて来ようと思ってもその手段は今後の展開で失われてしまうのですが、それとは別の手段があったとしても)ここ(果て)まで逃げて来るような事はもうないのでは無いかと思います。

逃避して初めて自分が本当に求めていたものが何であったかに気付く者もいれば、自分が何を求めているのかを知っていてそれでも苦しみから逃れるためにそれを放棄して逃避する者もいます。そして、逃避先に望んでいたものが無いと分かって戻って来る者もいれば、望んでいたものを放棄して逃げて来たはずが後悔して戻って行く者、不満足が解消されない中でそれでも逃避を続ける者もいます。碇シンジの場合は自分の形がはっきりとせず、幸せの形も見えず、苦しみから逃れるために逃避を行いましたが、その逃避の末に行き着いた先が自分の望んでいたものでは無いと知り、現在は逃避前の場所(自分が捨てて来た場所)へと戻ろうとしています。逃避は根本的な解決策にはならず、不満足が残るものですが、逃避しなければそれが分からないと言う人もいるのでしょう。碇シンジもそうだったようです。

ここでは葛城ミサトの十字架は碇シンジの右手の薬指に引っ掛かっていました。これまでは碇シンジの左手に握られていたり、左手の薬指に引っ掛かっていたりしていたのですが、それが右手に移った事は物質世界や他者への心的な引っ掛かりが無意識側(左)から意識側(右)へと移った事を表現しているのかも知れません。

碇シンジは生命の樹(碇シンジとエヴァンゲリオン初号機とロンギヌスの槍)(男根、十字架)としてリリスの額の目(女陰、薔薇)から入場し、水中(巨大リリスの内部の水中)に沈んだ後、水の住人(碇シンジに流入して来た他者。恐らく、魚のように群れて泳いでいた無数の綾波レイ)に殺され、綾波レイ(リリス)によって蘇ったように見えます。そう言う意味では碇シンジはオシリス(セトにバラバラにされナイル川に流され(一つの象徴的解釈では水死)、イシスによって再生された神)であり、綾波レイ(リリス)はイシス(オシリスの妹であり、伴侶)であると言えると思います()。また、魚のように群れて泳いでいた無数の綾波レイはある意味ではそれぞれがセト(他者であり、碇シンジを殺害する者)(ケテル(※※))であると言えます。

(リリス(地球から出現した月)は自然と月の女神イシス(低次のヌイト)です。ヌイトであり、イシスである綾波レイは碇シンジの母であり、妹であり、伴侶であると言えます。碇シンジを産み、碇シンジを復活させ、碇シンジと結合し、碇シンジを宿して産みます。)

(※※碇シンジがリリスへと入場した際にリリス内部で魚のように群れて泳いでいた無数の綾波レイは(大きな視点で見ればこの時点でのリリス内部はビナー的、コクマー的であるように見えますが、視点を変えてそれぞれの綾波レイに「生命の樹」を対応させた場合、)それぞれを「ケテル」(それぞれに(ケテルだからこそか)差異は見られませんが、「個そのもの(ケテル)」)として解釈する事も出来ると思います。)

ですが、ここで胎児として復活した碇シンジは、復活したオシリス(男根を失い、地下の王となったオシリス)と言うよりはイシス(妹であり伴侶)(ヌイトと見た場合は母)の内に宿って産まれ直すオシリスであり、ホルスであると言え、そのハーポクラテス(ホール・パアル・クラアト)的な面だと言えると思います。まだ、羊水の中の胎児、顕現する前の潜在的存在です。

リリスはアダム、特にアダムの子の内の新生男児にとっては「敵」ですが、自分の子には優しいようです。その自分の子に対する優しさは本来的なものではあると思いますが、神が物質的な人間(イエス)として地上を体験した事により天上の神が愛の神に変わったように、綾波レイ(リリスのコア)が物質的な人間として地上を経験した事にも影響されているのかも知れません。また、そこで碇シンジとの繫がりがあった事もここでは(碇シンジを対象とした場合では)影響しているのかも知れません。

綾波レイの膝の上の碇シンジ

綾波レイの膝の上で横になる碇シンジ。蓮(女陰)の上の赤子にも見える。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

碇シンジの右手の薬指に引っ掛かっている葛城ミサトの十字架

葛城ミサトの十字架はここでは碇シンジの右手の薬指に引っ掛かっている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

渚カヲル :「再びATフィールドが君や他人を傷付けても良いのかい。また、他人の恐怖が始まるのよ」

碇シンジの前方に渚カヲルが登場します。碇シンジと綾波レイは裸体でしたが、渚カヲルは学校の征服を着た姿でした。

碇シンジ :「構わない」

碇シンジが「構わない」と言ったところから場面は変わります。そこは荒れた田園で、上には青空があり、田園は水没しているようでした。最初に碇シンジ(ここでは制服姿)が姿を現し、続いて碇シンジの前方に綾波レイ(ここでは制服姿)と渚カヲルが姿を現して3人での会話が続けられますが、水没した田園の上に現れた3人は水面に浮かんで立っているようでした。この後、会話が続けられながら背景(地面)は色々と変化して行きます。

碇シンジ :「でも、僕の心の中にいる君達は何?」

綾波レイ :「希望なのよ。人は互いに分かり合えるかも知れない...と言う事の」

渚カヲル :「好きだと言う言葉と共にね」

綾波レイは誰の心の中にもある存在、人の心に最後まである存在であるように思えます。そして、誰の心の中にも同じもの(綾波レイ)があり、それが最後まで残されていると言う事...それは人が分かり合える事の可能性なのかも知れません。

神(ゼウス)が「最初の女性(パンドラ)」に渡した壷、あらゆる悪や災いが詰め込まれていた「パンドラの箱」の底には希望があったと言いますが、人(神の作品である人間(好きな表現ではありませんが))の心の底にも同じように最後には希望が残されている...そう信じたくなる話です。

キリスト教を理論的基盤に置いた魔術的解釈では「人は誰もが神(キリスト)になれる可能性がある」と言う事になるのですが、それは「キリスト後には誰の心にも聖霊(その本質を天界に残して人の内へと降りた聖霊)がある」と言う事に基づいています。全人類の心の内に同じもの(聖霊)があると言うのはここでの綾波レイと同じであり、その綾波レイは聖霊的な側面も持っている事から、ここではその事が思い起こしました。聖霊は魔術的に言えば人が神へと辿り着ける事の希望ですが、人と人とが分かり合える事の希望でもあるのだと思います。

ここで綾波レイと同列の存在として渚カヲルを扱っていると言う事は人間の内には「使徒(アダムの子達)と分かり合える可能性」もあったと言う事なのかも知れません。血の色が違う存在、人間とは分かり合えない存在のはずでしたが、分かり合える希望はあったのでは無いかと。それとも今回の事で(リリスがアダムを取り込んだ事によって)渚カヲルが加わったのだとすると、今まででは無く、これから先か...。(使徒は全ていなくなってしまいましたが...。)

碇シンジ :「だけどそれは見せ掛けなんだ。自分勝手な思い込みなんだ。祈りみたいなものなんだ。ずっと続くはずないんだ。いつかは裏切られるんだ。僕を見捨てるんだ。でも、僕はもう一度会いたいと思った。その時の気持ちは本当だと思うから」

他者の存在を望み、他人への期待が自分勝手なものだと分かっていながらも発した「裏切られた」、「見捨てられた」と言う言葉には、まだ、相手のせいにしようとしているところが残っているように感じられ、他者に対する自分中心の勝手な考えを捨て切れてはいないように思われます。

例えば、姫は他者に勝手に期待を抱く事はあってもそれが叶わなかったからと言って「裏切られた」と思う事はありません。自分が他者に期待している事が本当に自分勝手な期待だと分かっていれば「裏切られた」とは思わないのでは無いかと思います。

また、姫は「他者が自分を助けなければならない」などとは思っていないので、例え助けを求めてそれが叶わなかったとしても「見捨てられた」と思う事はありません。「どうして自分を助けてくれないんだ」と思うところに「見捨てられた」と言う感覚が生まれるのだと思いますが、そもそも「他者が自分を助けなければならない理由」などどこにも無い場合も多々あるのでは無いかと思います。そして、助けるも助けないも他者の勝手だと言う事が分かっていれば「見捨てられた」と言う言葉は出て来ないと思います。「どうして私を助けてくれないんだ」と言えば他者は「どうしてあなたを助けなければならないの」と答えても可笑しくはありません。見捨てたのでは無く他者にとっては拾う理由が無かっただけの事だと思わなければ。他者には他者の勝手がありますので。姫も好きな人が相手であれば「いつでもどこでも助けになりたい」と思っていますが、そうで無い人に対しては「自分には関係無い」と感じる事が多くあります。(法的に助ける義務が発生している場合は「自分には関係無い」と感じても助ける事になると思いますが。)もし、姫が姫に助けを求めて来た相手を助けなかったとして、その助けなかった相手が「見捨てられた」と感じているのであれば、それは逆恨みでしか無いと思います。

この段階での碇シンジは他者に対して強い期待を持たないようになっただけであり、裏切られても「他人なんてこんなもの」と思えるようになっただけなのかも知れません。

碇シンジ、綾波レイ、渚カヲルが話をしている間、背景は次々に移り変わって行きます。最初は水没した田園の水面に死体のようなもの(水害で死亡したのか)が浮かぶように出現し、それからそれらの人が水と共に消え、そして、何も無い赤い土の大地へと変わり、森林へと変わり、街へと変わり、最後には街の道が人で溢れるようになっていました。(碇シンジ、綾波レイ、渚カヲルは水が消える前は水面に浮かぶように立っていました。水が消えてからはきちんと地面に立っているようでした。)この背景の移り変わりは「時の流れ」とその中での「死と再生」を表現しているように見えました。人(の文明)が滅び、大地が赤く枯れたとしても、時が経てば大地には再び木が生い茂り、人が現れればまたそこを切り開いて文明を築く...と言ったような。

でも、僕はもう一度会いたいと思った。その時の気持ちは本当だと思うから」と言う碇シンジの言葉と共に画面は碇シンジが青空の下で仲間達(他者)と仲良く楽しそうにしている場面になっていました。正面に向かってポーズを取っているところを見ると写真であるようにも思えます。

世界の救世主にして破壊者でもある碇シンジ。世界を破壊し、自らの心を破壊し、ざわめくものの無い穏やかな状態になったはずでしたが、その虚空とも充満とも言える心の中に、それは僅かかも知れませんが、揺らぎ、熱、願いや期待のようなものが残っていたようです。それは他者のいる世界への未練であり、その具現化の例がこの写真(と思われる映像)なのでは無いかと思います。

写真(と思われる映像)には碇シンジ、惣流・アスカ・ラングレー、ペンペン、洞木ヒカリ、相田ケンスケ、鈴原トウジ、葛城ミサト、加持リョウジ、日向マコト、綾波レイ、青葉シゲル、伊吹マヤ、赤木リツコの姿がありました。綾波レイは髪が少し見えているだけで本人かどうかは分かりません。髪だけしか映っていない綾波レイは心の片隅に残る「いつかいた人」のように見えました。写真(と思われる映像)の中には碇ゲンドウ、冬月コウゾウの姿はありませんでした。

僅かであっても朧化であっても不確かであっても幸せは確かにそこ(現実世界、他者との間)にあったと言う事、そしてそれはここ(誰もいない世界)には無いと言う事が碇シンジに現実を生きる事を選択させたように思えます。他人の恐怖を克服出来た訳では無いと思いますし、ここで心に浮かんだ映像が自分の望んでいる幸せの最良の形と言う訳では無いと思いますが、他者との間に感じた幸せ、確かにあった幸せが現実への未練として心に引っ掛かっていたのだとしたら、碇シンジにとってはそれがこれからの生きて行く事の希望にもなりそうです。本当に自分が望む幸せが何であるかはこれから人生の中で探して行く事になるのだとは思いますが。

碇シンジと仲間達

碇シンジと仲間達。確かにあった幸せの画に見える。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

巨大リリスの崩壊開始

碇シンジの願いを聞き入れたかのように巨大リリスが後方へと倒れて行きます。

巨大リリスは首から血を噴出した際に後方へと倒れていましたが、ここで再び後方に倒れているところを見ると、首から血を噴出した後に再び身体を起き上がらせていたようです。

(そうなると、綾波レイの「これがあなたの望んだ世界、そのものよ」の台詞があった場面での四つの天体の位置は倒れた巨大リリスからでは無く、再び身体を起き上がらせたリリスから見た位置である可能性もあります。それによって四つの天体の位置にどの程度の違いが出るのかは分かりませんが...。)

巨大リリスの12枚の羽はここで消失していました。

巨大リリスの周囲を見ると陸も海も関係無く光の十字架で埋め尽くされていました。光の十字架はその出現時に付近での赤い球体(魂)の出現を伴っている事から、補完を強いられた人間が消えた後にその場所に出現したものでは無いかと思っていたのですが、陸も海も人口密集地もそうで無い場所も関係無く出現しているところを見るとそうでは無かったようです。補完発動時の地上の詳しい描画が無いので分かりませんが、人間以外の生命体も消失の対象としていた可能性や、生命体の存在していた跡に出現したものでは無い可能性もあるかと思います。(後の場面で巨大リリスの崩壊時に光の十字架が立っている地上が映りますが、その場面からすると前者では無いようです。)

消えて行く巨大リリスの12枚の羽

巨大リリスの12枚の羽が消えて行く。周囲には光の十字架で埋め尽くされている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

エヴァンゲリオン初号機の帰還

巨大リリスが倒れて行く中、エヴァンゲリオン初号機が巨大リリスの左目を突き破り、リリス内部より帰還します。

人の心理では左は無意識の側と言われます。また、左眼では(リリスではありませんが...)ホルス神において左眼が月(右眼は太陽)であった事が思い起こされます。月は無意識を象徴する天体、無意識と深い関わりがあるとされる天体です。カバラで言えば月(の天球)と照応するセフィラはイェソドであり、それはマルクトに流出する手前のセフィラであり、星幽界(無意識の海の浅瀬)、意識の下の無意識(の浅瀬)の世界です。この左眼からの脱出は無意識からの帰還(無意識から意識下への上昇)、イェソドからマルクトへの下降、星幽界からの目覚め...を表現しているように見えました。

ここでも眼は女陰を象徴するものとして使われています。女陰は胎児が母親の胎内から世界へと旅立つ出口です。(母親の胎内は無意識の象徴でもあります。)

夢から現実への出口としてはこの左眼、女陰と言うのは適当(適切且つ妥当)だったのでは無いかと思います。

エヴァンゲリオン初号機が左眼を「突き破って外へと出て来た」と言う事は、受動的に産み出されたのでは無く、能動的に産まれ出て来たと言う事を表現しているのだと思います。

この左眼を突き破って出て来た時のエヴァンゲリオン初号機の動きは野生的であり、碇シンジの意思に従った形ではあると思いますが、エヴァンゲリオン初号機の意思(自律的に振舞う無意識の意思)によって出て来たように見えます。

エヴァンゲリオン初号機に突き破られた左眼からは涙が流れ出していましたが、通常の涙が透明であるのに対し、ここでの涙は白色をしていました。これは眼を女陰として見るなら精液に当たるのでは無いかと思います。見た事が無いので分かりませんが、白く濁っているそうですので、女陰から出て来た白く濁った液体と言う事で精液と言う解釈も可能のなのでは無いかと。

エヴァンゲリオン初号機がリリスの体内から抜け出した後、巨大リリスの掌にあったガフの扉(女陰)が閉じて消失していました。

リリス体内から外へと出たエヴァンゲリオン初号機は12枚のオレンジ色の光の羽を広げ、雄叫びを上げていました。恐らくは「開放」を意味しているのだと思います。

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」でのオープニングで12枚の羽を広げるエヴァンゲリオン初号機の姿がありましたが、本編中でエヴァンゲリオン初号機が12枚の光の羽を見せるのはこれが初めてです。輝く12枚の羽と言えば「ルシファー」が思い起こされます。

リリス(綾波レイ)の伴侶(同時にリリスの子でもありますが())と言う意味ではエヴァンゲリオン初号機(碇シンジを含む)は「ルシファー」だと言えるのでは無いかと思います。(リリスはアダムとの楽園を飛び出し、ルシファーは天上から落ち、リリスとルシファーは天上外で伴侶になったとされる(説)のに対し、こちらのリリスとルシファーは(アダム側の天上(出入り禁止)では無くリリス側の)天上で伴侶になったと言う違いはありますが。)

(説によってはルシファーはリリスの子であり伴侶であるとされます。)

また、「エヴァンゲリオン」では人類はリリスを祖とする生命体であり、アダムを祖とはしていません。アダムの対立者、敵対者であるリリス、その子孫である人類の救世主であるエヴァンゲリオン初号機(※※)は、人類リリス起源説の世界ではアダムの子孫の救世主である「イエス・キリスト」の名では無く、「イエス・キリスト」の対立者、敵対者(※※※)である「ルシファー」の名で呼ぶ方が適当かも知れません。(思考的努力によっては「アダム-人類-イエス・キリスト」と「リリス-人類(悪魔)-ルシファー」は「エヴァンゲリオン」の中では取替え可能であると感じさせるところはあります。)

(※※リリスの子孫である人類(悪魔)を導く役割を担わされ、人類の救済のための犠牲として十字架に掛かったエヴァンゲリオン初号機(碇シンジ)は、アダムを祖とした場合の「イエス・キリスト(アダムの子孫である人類の救世主)」と同じ役割を持っていると言えます。神様の肉体(リリスの複製)に人間の意識(碇シンジ)を宿らせた存在と人間の肉体に神の意識(I)を宿らせた存在と言う差はありますが。(人間の肉体(恐らくは碇ユイの複製)に神様(リリス)の意識を宿らせた存在と言う点では綾波レイの方が「イエス・キリスト」的だと言えるように思います。地上を体験して天上(リリス内)へと帰って行ったところも同じです。))

(※※※「イエス・キリスト」は神の子、人類の王国の王、神の右の座に着く者ですが、対する「ルシファー」は神の敵対者、悪魔の王、神の右の座に着いていた者、黙示録のアンチ・キリスト(受肉したルシファー、666の獣(ビースト))であり、「イエス・キリスト」と対立する者です。)

カバラではエデンの園の蛇(NChSh=358)(キリスト教ではこの蛇はサタン)を救世主(MShICh=358)と解釈する事が可能です。(但し、イヴ(エヴァ)を誘惑したエデンの園の蛇をサタンとして見る場合でも、それをルシファーとする見方もあれば、サタンを役職と考えてこの時点では別の悪魔だったとする見方もあります。)「生命の樹」では「イエス・キリスト」は「ティファレト」に配属されますが、「ルシファー(元は金星、現在は太陽)」も「ティファレト(太陽の天球/救済者と照応)」への配属が可能です。

グノーシスを持ち出すと、グノーシスの一つでは人類の(内にある神性の)救済者(プレーローマへと至らせようとする者)は「ルシファー」であるとされ、人類を天上へと導いた救済者であるエヴァンゲリオン初号機を(グノーシスの一つでは)「ルシファー」として解釈する事も可能です。

エヴァンゲリオン初号機はサマエルとしての解釈も成り立つかも知れません。

こちらも、12枚の羽を持つ(※※※※)とされたり、サタンでありエデンの園の蛇であるとされたり、リリスの伴侶(サタン=サマエル)であるとされるものが見られます。(救世主と言う面を見るとグノーシス的にはデミウルゴス(物質世界の造物主)(ヤルダバオート)ですが。)

生命の樹の照応で見ると、エヴァンゲリオン初号機は生命の樹の上ではティファレトに置かれていましたが、このサマエルもティファレトに配属する事が出来なくは無いと言えます。サマエルはメタトロンの敵対者であるとされ、そのメタトロンは生命の樹ではケテルに照応しますが、下位では聖なる守護天使、ティファレトとしての働きも見られる事から、メタトロンの対立者であるサマエルを反転した樹の(ケテルの他に、その側面の一つとして)ティファレトに配属する事も出来なくは無い...と言う運び方です。こじ付け感は否めませんが...。(エヴァンゲリオン初号機が置かれていたのは反転したものでは無く上下を逆さまにしただけの生命の樹であり...そこもこじ付けです。)

サマエルは全身に無数の目を持つ(※※※※)とも言われます。ロンギヌスの槍(オリジナル)と融合して生命の樹へと還元した際のエヴァンゲリオン初号機、そのコア付近(エヴァンゲリオン初号機もコアも共にティファレト)にもいくつもの目が出現していました。これを類似点と呼んで良いものなのかどうかと言うと...。

(※※※※TV版「新世紀エヴァンゲリオン」のオープニング(「残酷な天使のテーゼ」)に登場した「12枚の羽を持ち、身体にいくつもの目を持つ者」はサマエルである可能性があります。)

以上、強引に類似点を探してみました...。

リリスの左眼を突き破ったエヴァンゲリオン初号機

リリスの左眼を突き破って外へと出て来たエヴァンゲリオン初号機。ここでも眼を女陰として用いている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

12枚の羽を広げるエヴァンゲリオン初号機

12枚の光の羽を広げるエヴァンゲリオン初号機(12芒の光を放つ太陽)。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

サマエル : 新世紀エヴァンゲリオン OP

TV版」のオープニングより。12枚の羽を持ち、無数の目を持つ姿からサマエルの可能性も考えられる。身体の中心には太陽のようにも見えるコアが見られる。(太陽もコアもティファレトに照応する。)

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

砕け散る黒き月

巨大リリスが倒れ行く中、巨大リリスの上方にあるリリスの卵(黒き月)には縦横格子状の赤い溝が出現して行きます。縦横格子状の赤い溝が出現して行く様は卵子が細胞分裂して行くそれのようでした。リリスの卵に出現した溝からは赤い液体(血のように見えます)が下方に落ちて行き、その赤い液体は巨大リリスの腹部へと流れ落ちていました。(その姿は杯から流れ落ちる血を身体に浴びるイシス(低い次元でのヌイト)にも見えます。これは拡大し過ぎかも知れませんが...。)そして、しばらくするとリリスの卵(黒き月)は細かい破片となって弾け飛んで消えていました。

リリスの卵(黒き月)から流出する血はI(ヨッド)の集合体(吸い上げた魂)のように見えました。(天上的な視点で見ると着床しなかったと言う意味では月経の血、あるいはもう少し進んで流産の血とも言えるかも知れません。)また、リリスの卵(黒き月)からの血の流出はイェソド(イメージの世界)からマルクト(現実世界)への影響の流出と捉える事も出来ると思います。

弾け飛んだリリスの卵(黒き月)の欠片は無数の赤い球体となって地球の地表に飛び散っていました。この赤い球体はリリスの卵(黒き月)が吸い上げていた「魂」であるようにも見えました。地上へと戻された「魂」では無いかと。

巨大リリスの首が切れて血が噴出した場面では月の位置が不明瞭でしたが、ここでは天体の位置をきちんと確認する事が出来ます。それを見ると月は地球と太陽の間にあり、月は地球側から見ると表面が暗い状態のようです。巨大リリスの首から噴出した血は満月の月面へと届いていましたし、エヴァシリーズのいくつかは満月の月面を背景にして漂っていましたが、これに就いては上手い解釈が見付かりません...。

血を滴らせるリリスの卵(黒き月)

縦横格子状の亀裂が入り、血を滴らせるリリスの卵(黒き月)。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

12枚の羽を広げるエヴァンゲリオン初号機

環状に弾け飛ぶリリスの卵(黒き月)。リリスの卵(黒き月)の破片は赤い球体(魂)となって地上へと広がって行く。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

崩れ落ちる巨大リリス

巨大リリスの倒壊は進み、最後は地表に倒れ落ちてていました。巨大リリスの頭部や右手は倒れて行く中で千切れて落ち、それらは地上へと落下していました。

リリスの側面の一つは月(イェソド的な月)です。このリリスの崩壊は幻想、夢の終わりを象徴しているように思われます。

渚カヲル :「現実は知らないところに。夢は現実の中に」

綾波レイ :「そして、真実は心の中にある」

渚カヲル :「人の心が自分自身の形を作り出しているからね」

綾波レイ :「そして、新たなイメージがその人の心も形も変えてゆくわ。イメージが、想像する力が、自分達の未来を、時の流れを...作り出しているもの」

渚カヲル :「ただ、人は自分自身の意思で動かなければ、何も変わらない」

綾波レイ :「だから、見失った自分は、自分の力で取り戻すのよ。例え、自分の言葉を失っても、他人の言葉に取り込まれても」

この場面では綾波レイと渚カヲルが交互に語って行きます。これが「言いたかった事」の纏めであるように感じます。

魔術の話。魔術師は自分自身の心と向かい合い、自分自身として世界を生きて行こうとします。能動的に自分を、周囲を変えて行こうとします。夢を操り、現実の中で夢を実現する手段を探します。魔術とは能動的に(意志を以て)変化を起こすための技術であり、それを(それぞれのところはありますが)内的に外的に用いるのが魔術師です。想像力や意志の力によって自分や世界を作って行こうとするのが魔術師です。(魔術や魔術師を何とするかに就いては人それぞれのところがあるので、ここでの魔術や魔術師は姫が定義するところの魔術と魔術師、姫が扱い、そうあろうとしている魔術と魔術師になります。)ここで語られている事は魔術師の生きて行こうとする姿に通じるところもあるように感じられました。表現の形が違うので言わんとする事がどこまで同じかは分かりませんが、少なくとも似ている部分は多くあるようです。

巨大リリスの顔や手が落下した場面では地上の様子を見る事が出来ます。それを見ると地上に出現した光の十字架は補完された人間とは関係が無いように感じました。人間がいた場所に人間の消失と共に出現したものだと思っていたのですが、光の十字架の出現位置は人間がいた場所とは関係がなさそうですので。

地上に落ちる巨大リリスの頭部

地上に落ちる巨大リリスの頭部。光の十字架の地上での出現位置を見ると人間の存在跡とは関係が無いように思える。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

地上へと倒れる巨大リリス

地上へと倒れる巨大リリス。光の十字架の地上での出現位置を見ると人間の存在跡とは関係が無いように思える。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

石化するエヴァシリーズとエヴァンゲリオン初号機

巨大リリスの外部へと出て12枚の羽を広げたエヴァンゲリオン初号機は口を出口にして体内から体外へとロンギヌスの槍(オリジナル)を吐き出してました。

吐き出したロンギヌスの槍をエヴァンゲリオン初号機が両手に持って前方に構えるとロンギヌスの槍は左右に展開、変形し、光を発します。そして、その光がエヴァシリーズの胸を貫いていたロンギヌスの槍(レプリカ)に届くと、エヴァシリーズの胸のロンギヌスの槍は膨らんで破裂していました。このロンギヌスの槍の破裂した後の欠片はオレンジ色の液体のようであり、LCLのように見えました。

ここでも満月状態の月の前にエヴァシリーズがありました。これは現在の太陽と月と地球とリリスの位置から考えると不自然なように感じられます。

ロンギヌスの槍が破裂した後のエヴァシリーズは十字を形成した状態のまま石のように変化し、その後、地上へと降下し、地上からはそれと入れ替わるように光の十字架が空へと上昇していました。

エヴァシリーズが石化して地上へと降下した後、エヴァンゲリオン初号機(12芒の光を放つ太陽)は12枚の光の羽を折り畳みます。更に、両目の光が失われ、他のエヴァシリーズのように石化していました。役目を終えたのだろうと思います。

石化したエヴァンゲリオン初号機の前には綾波レイ(制服姿)が姿を見せていました。地球での役目を終えたエヴァンゲリオン初号機を見届けに来たように見えました。

リリスの目(創造と破壊の象徴)から復活を遂げたエヴァンゲリオン初号機はロンギヌスの槍(カドゥケスである螺旋の棒)を手に光を放ちましたが、これは創造の光(螺旋は渦巻く力、エネルギーの運動、創造の力の象徴)であり、これによりアンチATフィールド(十字架として固定されていたエヴァシリーズ)を消し、失われた創造のエネルギー(男根的創造力、生命の活動の根源的力、意志の力)の開放を行ったのでは無いかと思います。失われた自我の復活(開放)を表している場面のように見えました。(エヴァンゲリオン的に言えばそれは肉体的な復活をも可能にするもの。)そう考えるとエヴァンゲリオン初号機の手にある二重螺旋の棒、カドゥケス(ロンギヌスの槍)はアンチATフィールド(破壊)と創造の双方の力を持っていると言えます。また、エヴァンゲリオン初号機は破壊のための要でもあり、創造(再生)のための要でもあったと言えます。

リリスの目から復活を遂げたエヴァンゲリオン初号機。目(アイン)は「XV.悪魔(デビル)」であり、バホメットであり、パン(破壊と創造の神、牧羊神)です。支配惑星は土星(サトゥルヌス(土星的な制限する力、形成する力、農耕神)です。リリスの目から出現して創造力、生命の自由の開放を行ったエヴァンゲリオン初号機...その手に螺旋の棒を持った姿は正に悪魔(螺旋の角を持った山羊)だと言えると思います。

12枚の光の羽を広げ、太陽を戴き、生命の自由を開放したエヴァンゲリオン初号機は新たな太陽(戴冠した征服する子)でもあります。また、リリスへの入場後、水の中で他者に(心的に)殺害された碇シンジ(オシリス)をリリス-綾波レイ(イシス)が(心的に)復活させ、碇シンジ(オシリス)の復活後に碇シンジを体内に宿したリリス(イシス)から産まれた存在(息子であり太陽)と言う見方からも、エヴァンゲリオン初号機はホルス(ラ=ホール=クイト)(戴冠した征服する子)だと言えると思います。ヌイトとハディトの結合の結果によって生まれた(碇シンジの)意志を(石化するまでは)宿していたと思われる事からもそうです。

地球での役目を終えたエヴァンゲリオン初号機とロンギヌスの槍(オリジナル)は共に地球を離れて行きます。この時のエヴァンゲリオン初号機は身体で十字架を形成していました。また、ロンギヌスの槍(オリジナル)は無限記号のような形になっていました。

地上を離れた光の十字架は宇宙にまで上昇していましたが、この後、光の十字架は一度も画面には映らず、その行き先は分かりません。

エヴァンゲリオン初号機は、この後、ロンギヌスの槍(オリジナル)と共に地球を離れ宇宙の彼方へと流れて行きます。人類に状況を強制していた制限を破壊して人類の解放を行った(人類に生きる自由を与えた)エヴァンゲリオン初号機は、新たな神とはならずに、人類(それぞれの人間)にこれからの全てを任せ、自ら冠を置き(自ら石化し)、地球(人類の下)を去って行った...ようにも見えます。

もし、人類を制限から解放した時点で碇シンジがこの先もエヴァンゲリオン初号機と共にある事を願えば、エヴァンゲリオン初号機(碇シンジ)は新たな神として人類の世界に残る事も出来たのかも知れません。(碇シンジとして他者を望んでリリスの体内から復活した状態で碇シンジがエヴァンゲリオン初号機と共にある事を望むような事は無いとは思いますが。また、それを望むようならば、その碇シンジにエヴァンゲリオン初号機が力を貸したかどうかも分かりません。)

綾波レイ :「自らの心で自分自身をイメージ出来れば、誰もが人の形に戻れるわ」

「エヴァンゲリオン」では心の形が物質的身体と強く関連している世界のようなので、その世界ではこう言う事になるのだと思います。心の壁が肉体の境界線を形成してたと言うのであれば、心の形を取り戻せば肉体の境界線を取り戻す事も可能だと。

精神が直接的に物質世界に物理的な影響を及ぼすと言った考えはオカルト的なので姫は取り入れていませんが、魔術理論にしても超能力にしても昔からそのような考え(解釈)は存在していたようです。

碇シンジに語り掛けていると思われる声がここで綾波レイの声から碇ユイと思われる声へと変わります。

碇ユイ :「心配ないわよ。全ての生命には復元しようとする力がある。生きて行こうとする心がある。生きて行こうとさえ思えばどこだって天国になるわ。だって生きているんですもの。幸せになるチャンスはどこにでもあるわ。太陽と月と地球がある限り、大丈夫よ」

生命の生きようとする力と生きていると言う事が持つ「可能」を語っているようです。生きる中での後ろ向きな事には一切触れずに全て前向きな事で纏められています。不幸の中にある人からすれば簡単にはそうは思えない事のように感じられますが、前向きになれた人の背中を押す言葉としては適当かも知れません。

他人が落ち込んでいる時、不安を感じている時に相手がどうなっても構わないと言った態度を露骨に見せる人や表面的には心配しているような顔をして形だけの励ましを見せる人、姫の周りにもそう言う人はいます。(恐らく、姫もその中の1人です。)興味の無い相手、実生活に大きな影響を及ぼさない相手に対して親身になってくれる人はそうはいないのでは無いかと思います。ですが、ここで碇シンジに語り掛けているのは母親です。母親である碇ユイは碇シンジに優しく、希望を持たせようと導いているようでした。碇ユイが碇シンジに幸せを与えると言う事は出来ませんが、碇シンジには幸せになって欲しいと願っているのだと思います。(同じ肉親でも父親である碇ゲンドウにはこう言った面は見られませんでした。)

碇ユイは「太陽と月と地球がある限り、大丈夫よ」と言っていますが、月は無くなっても人類としては何とかなりそうな気がします。(もう一つの太陽(エヴァンゲリオン初号機(12芒の光を放つ太陽))と月(リリス)は既に役目を終えていますので、ここでの太陽と月は単純に天体としての太陽と月だと思います。)

破裂するロンギヌスの槍(レプリカ)

オリジナルのロンギヌス槍から放たれた光を受けて破裂する直前のレプリカのロンギヌスの槍。破裂後はLCL化。背景には満月が見える。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

太陽を戴くエヴァンゲリオン初号機

12枚の羽を広げ、ロンギヌス槍(男根的想像力の象徴、螺旋の男根)を手にし、頭上に太陽を戴くエヴァンゲリオン初号機。固定されていたアンチATフィールドを打ち破り、生命の創造力、活動力の開放を行った。ここでのエヴァンゲリオン初号機(翼の生えた太陽)は男根的創造力であり、生命(生命力、活動力)の象徴だと言える。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

エヴァンゲリオン初号機とロンギヌスの槍(オリジナル)

エヴァンゲリオン初号機とロンギヌス槍(オリジナル)。エヴァンゲリオン初号機は身体で十字架を形成している。ロンギヌスの槍(オリジナル)は無限記号の形をしている。地球からは光の十字架が上昇して来る。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

碇ユイと碇シンジ

綾波レイ :「もういいのね」

碇シンジ :「うん。幸せがどこにあるのか、まだ分からない。だけど、ここにいて、生まれて来てどうだったのかはこれからも考え続ける。だけど、それも当たり前の事に何度も気が付くだけなんだ。自分が自分でいるために」

今までは生きる中での当たり前を当たり前だと思わずに気が付いても目を背けていた碇シンジでしたが、これからは嫌な事、辛い事があったとしても少しは前向きに生きて行けそうです。そこには妥協が混じっているようにも聞こえますが、妥協は悪い事ばかりでは無いと思います。少なくとも生きて行きやすくはなりますし、期待し過ぎて一人で悶え苦しみながら死して行くよりは良いのでは無いかと。

ここでは赤く染まった水の中に碇ユイと碇シンジの姿があり、碇ユイは暗い水(無意識)の底へと沈んで行き、一方の碇シンジは水面へと向かって浮上して水面の上(現実世界、人が個として生きる世界)へと戻っていました。ここでの碇シンジは他者の中に融解していた碇シンジとは違い、個として再構築、凝固された碇シンジです。

碇シンジが水面に顔を出すとそこには地上に落ちた巨大リリスの頭部がありました。碇シンジは地球へと戻ったようです。この巨大リリスの頭部は中心に亀裂が入り、左右に割れていました。

碇シンジが浮上する前、水面の向こうには地球と思しき天体が見えていました。そして、水面から顔を出すとそこは地球だったのですが、碇シンジの後方にあった水面と地球の水面とが繫がっていた...と言う事なのでしょうか。そうだとすると碇シンジが「これがあなたの望んだ世界、そのものよ」の台詞の時点からいた場所は巨大リリスの中と言うよりはイメージの世界だと考えた方が良いのかも(妥当と言えるのかも)知れません。

この場面では碇ユイが望めば碇ユイの肉体的復活も有り得たのでは無いかと思います。ただ、碇ユイは自らエヴァンゲリオン初号機に残る事を選んでいるようなので()、この時点で肉体的復活が可能であったとしても、それを選びはしないと思われますが。

(第25話「Air」で冬月コウゾウが「人は生きて行こうとするところにその存在がある。それが自らエヴァに残った彼女の願いだからな」と言っていました。また、この後の場面からは碇ユイが「人の生きた証」として生き続けようとしている事が分かります。そのためにエヴァの中に残ったようです。)

碇ゲンドウは碇ユイとの再会を望んでいましたが、碇ゲンドウが叶えようとしていたのは碇ユイの肉体的復活による再会では無いと思います。この場面のような状況を作り出して(肉体的復活を望まぬ)碇ユイを(何らかの手段で)浮上させる事が出来れば碇ユイを肉体的に復活させる事は出来たかも知れません。ですが、碇ゲンドウは碇ユイが自ら選んでエヴァンゲリオン初号機の中に残った事を知っているようでしたし、碇ユイに会いたくても碇ユイの望まぬ形でそれを行おうとは思っていないように思えました(※※)。碇ゲンドウの補完計画は実行されずに終わりましたが、人類の補完が発動する前の「欠けた心の補完、不要な身体を捨て...」、「...そして、ユイの下へ行こう」と言った台詞からは、碇ゲンドウが現実の世界に残って碇ユイを現実の世界へと呼び戻すのでは無く、自らが碇ユイの下へと行こうとしていた事が分かります。

(※※碇ゲンドウは自らのシナリオでの補完計画を発動させようとする前に「ユイと再び会うにはこれしか無い」と言っていましたが、これは碇ユイの下へと行くしか方法が無い訳では無く...碇ユイを現実世界へと戻す手段と自らが碇ユイの下へと行く手段の二つがあったものの、碇ユイを現実世界へと戻す事は碇ユイの望むところでは無く、碇ユイが望まない限りは碇ユイを現実世界へと戻す事が無理であるため自らが碇ユイの下へと行くしか方法が無かったか、あるいは、碇ユイが望まなくとも碇ユイを強制的に現実世界へと戻す手段はあったけれど、碇ユイの意思に背く事をしたく無かったためそれを選択肢に入れず、自らが碇ユイの下へと行くしか方法が無いように言った...と言う事も考えられます。(勿論、本当に肉体的な復活の道が残されていなくて、碇ゲンドウから碇ユイの下へと行くしか再会の方法がなかった...と言う可能性もあると思います。))

碇ユイと別れる碇シンジ

碇ユイと別れる碇シンジ。碇シンジが浮上して行く後方には水面がある。碇ユイが沈んで行く後方は底の見えない深い闇になっている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

浮上して行く碇シンジ

碇ユイと別れ、浮上して行く碇シンジ。碇シンジの後方の向こうには地球が見える。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

地球に戻った碇シンジ

地球へと戻って来た碇シンジ。碇シンジの浮上先は地球の水面に繫がっていた。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

回想 : 碇ユイと冬月コウゾウ

冬月コウゾウ :「人が神に似せてエヴァを作る。これが真の目的かね」

碇ユイ :「はい。人はこの星でしか生きられません。でも、エヴァは無限に生きていられます。その中に宿る人の心と共に。例え、50億年経って、この地球も、月も、太陽すらなくしても残りますわ。たった一人でも生きて行けたら、とても寂しいけど、生きて行けるなら」

冬月コウゾウ :「人の生きた証は、永遠に残るか...」

碇ユイの語りかけから碇シンジの「でも、母さんは、母さんはどうするの?」の台詞で回想場面へと入ります。そには過去の冬月コウゾウと碇ユイの姿がありました。碇ユイは碇シンジの質問には直接は答えませんでしたが、回想からすると碇ユイはエヴァと共に永遠に生きて行く事になりそうです。

碇ユイは子供を抱いていましたが、これは赤ん坊時代の碇シンジだと思われます。赤ん坊の碇シンジは両手で碇ユイの顔に触れる仕草を見せていました。

回想の台詞が続く中、途中から映像だけが切り替わります。そこには地球、月、太陽、そして宇宙を漂流するロンギヌスの槍(オリジナル)とエヴァンゲリオン初号機の姿がありました。こちらは現在の状況か少し先の状況では無いかと思われます。

地球は赤く染まり、周囲には細いリングがありました。巨大リリスの首から噴出した血か、もしくは砕けたリリスの卵(黒き月)の破片のどちらかだと思います。恐らく、前者では無いかと。

月は裏側が満月状態であり、そこには巨大リリスの首から噴出して付着した血が見えました。巨大リリスから噴出した血が付着したのは月の裏側だったようです。

太陽はとても小さく感じられました。地球での見た目の大きさから受ける印象で描かれているのかも知れません。

宇宙を漂流するエヴァンゲリオン初号機は身体で十字架を形成していました。また、宇宙を漂流するエヴァンゲリオン初号機の頭部には髪のようなものがありました。それは青色をしていて、綾波レイの髪と同じ色に見えました。この髪のようなものは長さが長くなっていて、こちらの方が短いのよりはリリスらしいと言えると思います。

地球を後にする前のエヴァンゲリオン初号機は石化していましたが、ここでのエヴァンゲリオン初号機は石化状態には無いようです。元の紫色の身体をしていました。

ロンギヌスの槍(オリジナル)は、光の十字架が地球から宇宙へと上がって行く時と同じ、無限記号のような形をしていました。

回想の台詞が終わると共に、碇シンジは「さよなら、母さん」と碇ユイに最後の別れを告げていました。

通常は自我の発達段階で母親からの分化が起こります。母親が与える安全で居心地の良い世界からの別れです。碇シンジは母親を幼い頃に失っているため、母親に守られた世界を経験していませんし、そこからの独立を経験出来ませんでしたが、今回の出来事で退行して行き着いた先で母親と一体になった事により、母親を知り、そこからの心的な別れを経験する事が出来たようです。碇シンジは自分から求めてやって来ましたが、碇ユイが子供を飲み込もうとする母親で無かった事、自立のために優しく背中を押す母親であった事も碇シンジの分化の助けになっていたと思います。

赤く染まった地球

赤く染まった地球。地球の周囲を囲むように赤色をした細い環が見える。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

月と付着した巨大リリスの血

月。裏側が満月の状態。右上には巨大リリスの首から噴出した血が付着している。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

地球に戻った碇シンジ

宇宙を漂流するエヴァンゲリオン初号機とロンギヌスの槍(オリジナル)。エヴァンゲリオン初号機には青色の髪が確認出来る。髪は長くなっている。ロンギヌスの槍は無限記号の形をしているように見える。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

人の生きた証

他者の「霊」は人間が生きた証の中に残ります。人間の創造物や文化などの中、人間がいた事を、生きていた事を感じさせるものの中に。ですが、実際に「霊」が「その中」に残る訳ではありません。生きている人間の心が「その中」に人間の存在を感じる、その感じたものが「霊」であり、人が「その中」に感じ取るだけのものです。どこにあるかと言う事を敢えて言うとしたら、「霊」は生きている人間の心の中にあると言えると思います。(姫の中にある一応の定義です。話を続けるために定義を書きました。)

人類が滅亡した後は「霊(人間がいた事)」を感じる人間がいなくなるので、人類の滅亡と共に地球上の「霊」も消えたかのようになります。しかし、地球に再び知的生命体が生まれたり、他の天体から知的生命体が地球にやって来たりした場合、知的生命体は「霊」を感じます。人間が生きていた事を感じ取る存在が人間が生きていた証に触れたからです。

もし、地球上にある「人の生きた証」が全て、地球が原子にまでバラバラになって宇宙空間に飛散して行ったとでもして、消滅した場合、地球人の「霊」はこの宇宙から完全に消え去ります。元々、人間の生きた証の中に実際に存在していた訳ではありませんが、人間の生きた証が消滅してしまえば「人間がいた事」を誰も感じ取れなくなってしまうためです。

そう言う意味ではエヴァンゲリオン初号機(人間による創造物)が宇宙を彷徨い残り続けるなら、地球人が滅び、地球が原子にまでバラバラになっても、エヴァンゲリオン初号機を見た他の知的生命体(既にいるか、未来に出現するか)は人間(他の知的生命体)の存在を、人間の「霊」を感じ取るだろうと思われ、エヴァンゲリオン初号機が残り続ける限りは人間(地球人)の「霊」は宇宙に残り続けると言える事になると思います。

また、エヴァンゲリオン初号機には無意識に沈んだ碇ユイ(魂がエヴァンゲリオン初号機の中で霊化している)が含まれています。エヴァンゲリオンがあり続ける限り、人の心、碇ユイの霊も残り続ける事になると思います。(碇ユイは人の心まで含めて「人の生きた証」と考えているように感じられるところがあります()。)

(他者が感じる霊(人の生きた証)と言う意味ではエヴァンゲリオン初号機の機体だけで良いと思うのですが、冬月コウゾウと碇ユイの会話からは「人の生きた証」を永遠に残すためには生き続ける必要があるように聞こえます。「人の生きた証」の定義が姫とは違い、そこに「人の心そのもの」が無ければいけないと考えているのかも知れません。また、そうでは無く、「人の生きた証」の定義が姫と同じように「人間が存在していた事を感じられるもの」であって、その上で更に「生きた(心を持った)生命体」を残そうとしているとも考えられます。その場合、空のエヴァンゲリオン初号機でも良いところを、それ以上の残し方を望んだと言う事になります。確かに「生きた(心を持った)生命体」の方がより良いのかも知れません。残す事が可能ならば(そしてここではそれが可能です)。)

エヴァンゲリオン初号機は身体で十字架を形成していましたが、これは人類の生きた証として人類のために自ら永続的な犠牲となった碇ユイの墓でもあるように思いました。(十字架は人類のために自ら犠牲となった(特定の人達のために用意された都合の良い解釈)キリストの象徴でもあります。)

英語タイトル表示 - ONE MORE FINAL: I need you.

ここで英語タイトルを表示した画面が入ります。

英語タイトには「I need you.」とありました。直訳すると「私はあなたを必要とする」になるかと思います。

他者を求め欲する言葉です。他者がいなければ自分が誰かを必要とする事も誰かに必要とされる事もありません。他者がいない世界は「I need you.」を言えない世界だと言えます。それは寂しい世界だと思います。(碇ユイが自ら残った世界です。)

英語タイトル「I need you.」の文字

英語タイトル「I need you.」。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

自-他のある世界への帰還

地上には碇シンジと惣流・アスカ・ラングレーが並んで仰向けになっていました。自と他の差異がある世界への帰還です。

巨大リリスから脱出したエヴァンゲリオン初号機(碇シンジを含む)を対立するもの(I(父、太陽、火、男根)(生命の樹)とH(母、月、水、女陰)(リリス))の結合によって生まれた双子(V(息子、新たな神(エヴァンゲリオン初号機))とH(娘、更新された魂(碇シンジ)))として見る事が出来ますが、そこから離れた碇シンジもまた対立するものの結合によって生まれた双子(新たなルアク(V)と更新された魂(H)を持った肉体)として見る事が可能なのでは無いと思います。また、低い次元では碇シンジを対立するもの結合によって生まれた息子、惣流・アスカ・ラングレーを娘、即ち、「他者を求めた事の客観的で具体的な結果」として見る事も可能かも知れません。(ただ、後者の場合は「惣流・アスカ・ラングレーの生きようとする意志」は肉体を伴った復活が起こった事と余り関係が無くなってしまうように感じられます...。)

この両者が新世界のアダムとイブ(エバ)かと言うとそれは違うように感じます。

惣流・アスカ・ラングレーは死亡していなかったようです()。この世界に肉体を持って戻って来ていました。惣流・アスカ・ラングレーは自己顕示欲、認証欲求が強く、他人に示す自分、自分を示す他人を必要としてたので、(一時は自分を失っていましたが、エヴァンゲリオン弐号機の中で取り戻していましたし、)自-他の関係がある世界に戻って来ても可笑しくは無いと思います。

(今回のサードインパクトでは恐らく死者の魂も補完されたのだと思います。(姫は死者の魂と言う概念は取り入れていません。個の魂は死後に霊化して人の心や生きた証の中に「霊(※※)」として残るものであり、死者がオリジナルの魂を伴って肉体的な復活する事があるかと言うと...これは無理だと思っています。ただ、死者の魂と言うものが存在している設定で、更にその魂が復活を望むなら肉体的復活が可能と言う設定であれば魂を伴った肉体の復活は可能だと思います。アニメの設定がそうなっているとするなら、惣流・アスカ・ラングレーは肉体的な死を迎えていた可能性も無いとは言えなくなります。そして、惣流・アスカ・ラングレーがどこかで死亡していたのだとしたら、生きる意志があれば死者でも復活可能と言う設定により復活したのだと思います。)

(※※ここでの「霊」は、生きている人間の心の中に沈んだ他者であったり、他者の生きた証の中に人間が生きていた事を感じさせるものであったりの事です。他者の中や生きた証の中に実際に存在している訳では無く、自分の心が内的、外的対象に他の人間の存在(存在していた事)を感じる取るだけなのですが、それを感じさせるものを呼ぶ時に姫は「霊」と言う言葉を使っています。ですが、自分の中の他人や人間の生きた証の中にある他者は他者そのものでは無く、他者そのものはどこにもいない(※※※)ので...人の中や生きた証に沈んだ霊から他者そのものを(ここで言えば魂として)取り出す事は難しいように思います。取り出しが可能だとしてもそれは周りの人間が作った他者のイメージであり、他者そのものではありませんし。ですが、ここでは死者の補完があったと考える場合、死者の魂(オリジナル)がどこかに(一つ我侭を言えば他者の中や生きた証の中以外の場所に)存在し続けていると言う設定にして話を進めています。認め難いオカルト思考ではありますが。)

(※※※例えば死者の残したものに魂を感じると言う話がありますが、それは生きている人間が自分の心の中で感じるものであって死者の魂そのものではありません。生きている人間がその死者のイメージを作り出す事はありますし、死者がそのイメージで生者の中に生きる事はありますが、それは死者そのもの(オリジナル)ではありません。これは生者であっても同じです。周りの人間が作る個のイメージは、例えそのイメージで人間や生きた証の中で生きているにしても、その個そのものではありません。)

もし、惣流・アスカ・ラングレーが死亡していて、それがここで復活しているのだとすると、補完前に肉体的死を伴った死を迎えた他の者達、葛城ミサト、赤木リツコも復活が可能だと言う事になります。更にネルフ本部の職員、UNの軍人も復活可能だと思われます。そうなるとどこまで遡って死者の復活が可能なのかが気になるところですが。(もし、過去に遡っての死者の復活が可能ならば加持リョウジの復活も有り得る事になりますし、碇シンジが全一の世界で他者を望んだ時に思い浮かべたような光景も未来の一つとして有り得る事になります。)取り敢えず、今、ここにいるのは碇シンジと惣流・アスカ・ラングレーの2人だけのようです。

ここでの惣流・アスカ・ラングレーはプラグスーツ姿で、左目と右腕に包帯を巻いた状態でした。左目と右腕はエヴァシリーズとの戦いによって大きく負傷した箇所です。

地上に落ちた巨大リリスの顔は右半分だけが残る形になっていました。巨大リリスの頭部は地上落下時に顔の左右の中心から縦に割れていて、前の場面では顔の左半分が下側へと滑り落ちている最中だったのですが、ここでは顔の左半分が全て滑り落ちた後のようです。

陸地に立っている柱には葛城ミサトの十字架が打ち付けられていました。それは釘で確りと固定されていて、簡単には外れないように工夫されていました。これを碇シンジが行ったかどうかは不明です。これは物質世界での確立や固定を象徴しているのか、それとも単なる葛城ミサトの墓標なのか...。

空には星が輝き、月は満月でした。この後の場面では碇シンジがこの月を眺めた後に惣流・アスカ・ラングレーの首を絞めると言う行動に出るのですが、この月は人間の内に狂気を呼び起こさせる月として描かれているのかも知れません。

空が夜空である事やリリスの顔の左半分が落ち終わっている事から時間の経過があったようです。満月である事から考えると満月に変化するだけの時間が過ぎたものと思われ、最低でも「約半月」が過ぎているのでは無いかと思われます。(合理的ではありませんが、日食状態から(地球の自転によって)太陽だけが沈んで地球の裏側へと移動し、一方の月は地上からの見た目の位置が移動せずに(地球の自転に食らい付いて移動するなどして)その場に残っていたと考えるなら「半日後」と言う解釈も生まれます。自然界における天体の動きを無視しています...。)

空には大きな赤い弧が架かっていました。地球の周囲を囲んでいた赤い環だと思われます。人類に訪れた災厄が過ぎた後に空に出現したこの弧は...「約束の虹(契約の印)」...には見えませんでした。

碇シンジの位置から見ると赤い弧は月を横切っていました。

周辺に見える水は赤く染まっていました。塩の柱のようなものは見当たりませんでしたが、セカンドインパクト後の南極の海に酷似しています。

この変わり果てた世界を浄化された世界と呼ぶのかどうかには迷いがあります...。どちらかと言えば聖別の方が当てはまるのでは無いかと...。世界は、一度、水によって浄化されています。「ノアの箱舟」の話で地上を襲った大洪水によってです。その時は人類では選ばれた人間であるノアの家族だけが世界に残りました。次に世界に起こるのは火による聖別です。それは世界の終末に訪れる「最後の審判」です。これによって人類は選ばれた人間だけが天国へと迎えられ、そうで無いものは地獄へと落とされる事になります。今回のサードインパクトはキリスト(救世主)の再臨と共に人類に天国への扉が開かれましたが、人類全体が天国へと導かれたと言う点では「最後の審判」とは大きく異なります。(碇ゲンドウだけが裁かれていましたが...。)ただ、選別こそ行われなかったにしても、これを火による聖別だったと解釈する事も出来ると思います。また、その結末として訪れた「(無意識的では無い)生きる意志を持った者だけが生きる世界(※※※※)」と言うのも、(人類に約束された安らぎは保留されたままですし、終末では無く新たな始まりと言えるのですが、)また、聖別された世界と言えるように思います。

(※※※※無意識的な生きる意志を持った者の復活も含めると殆どの人間が復活する事になりますが、碇ユイが「全ての生命には復元しようとする力がある。生きて行こうとする心がある」と言っている一方で「自らの心で自分自身をイメージ出来れば、誰もが人の形に戻れるわ」とも言っている事からすると、意識的な生きる意志が無ければ、能動的に自分自身をイメージしなければ、少なくともこの段階では人の形には戻れないものと思われます。)

今や、古き神は死に、エヴァンゲリオン初号機は新たな神とはならずに世界を去り、生きる意志を持った者だけが残った...その世界、それは人類の次の段階(は言い過ぎかも知れませんが)、「新しい永劫」だと言えるのでは無いかと思います。今度はそれぞれが神になる時代(それぞれの中に自分自身と言う神を持って生きる時代)かも知れません。

木に打ち付けられた葛城ミサトの十字架

葛城ミサトの十字架が木の柱に確りと打ち付けられて固定されている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

血を帯びた月

月は満月。血のような帯が横切っている。人間の狂気を呼び起こさせる月のようにも見える。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

水辺の碇シンジと惣流・アスカ・ラングレー

水辺に仰向けで並ぶ碇シンジと惣流・アスカ・ラングレー。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

碇シンジと綾波レイ

惣流・アスカ・ラングレーの横で仰向けになっている碇シンジがその状態のまま顔を左側に向けると、惣流・アスカ・ラングレーの身体越しに見える水面の上に綾波レイの姿がありました。綾波レイは水面の上に浮かんで立っていましたが、碇シンジが見つめる中、その姿を消していました。

この場面では第壱話「使徒、襲来」での綾波レイの初登場場面が思い出されます。その時の綾波レイは、碇シンジが視線を向けた先に静かに立っていて、碇シンジが飛び立つ白い鳩に気を取られて目を離した後、再び目を向けると既に消えていたのですが(綾波レイの聖霊的側面の描写に見えました)、碇シンジの視線の先に不意に現れて消えるところは同じです。だた、ここでは碇シンジが見ている中で消えていました。

これが綾波レイとの別れのようです。綾波レイを知る人には自分の中の他者として(心の奥へと沈み霊として)残ると思いますし、全人類の心の奥底には希望として、「人間に共通する誰でも無い人間」として存在し続けるのだとは思いますが、少なくとも客体としての綾波レイはもうどこにもいないと言って良いと思います()。そして、碇シンジの記憶の中でもいずれは「いつかいた誰か」になってしまうのかも知れません。「でも、僕はもう一度会いたいと思った。その時の気持ちは本当だと思うから」の場面のようにヴェールの向こうの存在になるのだと思います。

(綾波レイだけで無く、綾波レイに関係する「もの」まで見ても...巨大リリスは倒壊して動かなくなり、綾波レイと同化していたエヴァシリーズは石化して沈黙、リリスの複製であるエヴァンゲリオン初号機は宇宙の彼方です。)

水面に出現した綾波レイ

水面に現れた綾波レイ。碇シンジが見ている前で姿を消す。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

綾波レイの初登場場面 : 第壱話「使徒、襲来」

第壱話「使徒、襲来」より。この後、鳩が飛び、その間に綾波レイの姿が消える。上図の場面はこの場面との対比になっているようにも見える。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン © GAINAX ]

碇シンジと惣流・アスカ・ラングレー

綾波レイが消えた後、碇シンジは惣流・アスカ・ラングレーの上に跨って乗り、惣流・アスカ・ラングレーの首を両手で絞め始めます。

(巨大リリスはエヴァンゲリオン初号機に左眼を突き破られ(その後はいつの間にか元に戻っていましたが)、崩壊時には頭部(首)と右腕が千切れていました。一方、惣流・アスカ・ラングレーは左眼と右腕に包帯を巻き、首を絞められている状態であり、この両者の間には何か関係があるようにも感じられます。考え過ぎか、気のせいかも知れませんが。)

ここでは全-一の世界(綾波レイが上に乗り、碇シンジが下になっていた時)とは逆に碇シンジが相手の上に乗った状態になっていますし、全-一の世界とは違い両者の境界線ははっきりとした状態です(そのため首を絞める事が出来るのですが)。この辺りは全-一の世界との対比になっているのかも知れません。

碇シンジの上には血を帯びた月が、惣流・アスカ・ラングレーの下には地球があります。ここでの月(碇シンジが眺めていた月、そして今、碇シンジの頭上にある月)は人の狂気の象徴として用いられているようにも見えます。

手。「エヴァンゲリオン」の中では手は心の現われとしてや、意志の出力先として印象的に描かれています。碇シンジの手が印象的に描かれている一つ前の場面を見ると「他者を確認するための手」として綾波レイとの握手に使われたのですが、ここでの碇シンジの手は「他者を殺害するための手」になっていました。どちらも他者があっての「手」であり、自分の意志を相手に伝える手段には変わり無いのですが...。

動機。ここでの他人は母親のような優しい他人、無償の愛を以て接してくれる他人ではありません。自分を傷付けて来る可能性を持った存在です。惣流・アスカ・ラングレーは碇シンジが首を絞めるまで全く動きを見せなかったのですが、この他人は自分を傷つけて来るかも知れない他人であり、それならば他人の恐怖が始まる前に、他人が動き出す前に...と思ったのかも知れません。また、今までの愚かで不甲斐無い自分を知っている他人と言う意味では、新しく歩みだそうとしている時には不都合な他人と言え、それも首を絞める理由にはなり得るのでは無いかと思います。

首を絞められるまで動きを見せなかった惣流・アスカ・ラングレーでしたが、首を絞められると首を絞めている碇シンジの顔に右手を持って行き、碇シンジの左頬に手で触れていました。抵抗する様子は見られませんでした。

碇シンジと碇ユイの別れ際にも碇ユイが同じように右手で碇シンジの左頬に触れていました。回想場面では赤ん坊の碇シンジが母親である碇ユイの頬に手を伸ばして触れていました。これらは「他者を確認するための手」であったり、「自分の存在や気持ちを伝えるための手」であったりするように見えました。ここでの惣流・アスカ・ラングレーの手も、また、心の現われであるように思います。ですが、他の場面でのそれよりは意味するところが分かり難いように感じました。他者の存在を確認したのか、自分の存在や気持ちを伝えたかったのか...相手を確かめているようにも、どこか哀れんでいるようにも見えました。

この場面で描かれている碇シンジの手と惣流・アスカ・ラングレーの手...同じ手であってもそれぞれの心によってその表れが違うと言う対比になっているように思います。

頬を手で触れられた碇シンジは惣流・アスカ・ラングレーの首を絞めていた手の力を緩めます。そして、その惣流・アスカ・ラングレーの腹部の上で身を縮めて呻き泣き始めます。他者との中で生きて行こうと思ったばかりで他者を殺害しようとしていた碇シンジですが、頬に触れられた手で碇ユイとの別れ際を、苦しくとも他者との中で生きて行こうと思った事を思い出したのかも知れません。

惣流・アスカ・ラングレー :「気持ち悪い」

惣流・アスカ・ラングレーは自分の腹部の上で身を縮めて呻き泣く碇シンジに視線を向けて「気持ち悪い」と言う言葉を放ちます。これが2人の間にあった最初の言葉、他者が生まれて最初にあった言葉です。

これがどう言う意図を含んで言われたものなのかは分かりません。それ故、ここからは自分の感覚になりますが、姫が人間に対して感じている事を一言で表すとするなら、やはり、この「気持ち悪い」と言う言葉になるかと思います(惣流・アスカ・ラングレーの言いたかった事がそれかどうかは分かりませんが)。人間は気持ち悪い生き物です。自分も他人も。これは仕方が無い事だとは思っているのですが、ふとした時に蘇る感覚です。他者を認識する事で自分との差異が照らし出され、そこに気持ち悪さを感じるのかも知れません。(姫の場合は自分にも他人にもこれを感じます。)手で触れ、目で見て、他者を自分とは違う存在だと認識し、自分の意思で自分の口から他者に対して放った最初の言葉が「気持ち悪い」と言うのは(惣流・アスカ・ラングレーがどう言う意味でそれを言ったのかは別にして)自と他の関係を、部分的であっても、良く表しているように思います。この「気持ち悪い」は他人がいるからこその言葉であり、補完された世界では無い、他人がいる世界である事を実感させる言葉になっているのでは無いかと思います。

惣流・アスカ・ラングレーの「気持ち悪い」は碇シンジ個人に向けられたものなのか、それとも人間に対してなのか...姫としては碇シンジに向けられていたように感じます。台詞の言い方に冷たく突き放すような感じがありましたので。

触れられる、何かを言われると言う事は他人に自分が認識されていると言う事です。これにより、自分がいて、自分とは違う他人がいると言う事、夢の中の世界とは違う自分だけでは無い他人がいる世界だと言う事を十分に実感出来たのでは無いかと思います()。ここがこれから自分が生きて行かなければならない世界だと言う事と共に。

(現実世界での最初の他人として碇シンジを認識しているのは惣流・アスカ・ラングレーですが、巨大リリスの中で他者と溶け合って行く中での碇シンジの最後の他人となったのも(溶け合って行く中で碇シンジを拒絶したのも)惣流・アスカ・ラングレーでした。惣流・アスカ・ラングレーは碇シンジをきちんと(碇シンジが望む形ではありませんが)他人として扱ってくれているようです。)

新たな始まりとも言える結末としては、葛城ミサトが笑顔で待っていて「おかえりなさい」、「ただいま」と言った辺りで終わっていれば行く末も明るく感じられるのですが、そうで無い辺りが「エヴァンゲリオン」らしいと思いました。まだまだ前途多難と言った感じを受けます。

物語はここで終わります。

惣流・アスカ・ラングレーの首を上に跨り絞める碇シンジ

惣流・アスカ・ラングレーの首を上に跨り絞める碇シンジ。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

惣流・アスカ・ラングレーの首を絞める碇シンジの手

惣流・アスカ・ラングレーの首を絞める碇シンジの手。碇シンジはイメージ世界でも同じ様に惣流・アスカ・ラングレーの首を絞めている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

碇シンジの頬に当てられた惣流・アスカ・ラングレーの手

碇シンジの頬に当てられた惣流・アスカ・ラングレーの手。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

碇シンジの頬に当てられた碇ユイの手

地上へと浮上する前。碇シンジの頬に当てられた碇ユイの手。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

碇シンジに視線を向ける惣流・アスカ・ラングレー

惣流・アスカ・ラングレーの首を絞める事を止めた碇シンジとその碇シンジに視線を向ける惣流・アスカ・ラングレー。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

碇シンジを見下ろす惣流・アスカ・ラングレー

イメージ世界での扼殺される前の惣流・アスカ・ラングレー。同じ様に碇シンジに見下ろすような視線を向けている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

終劇/完

姫は「Air/まごころを、君に」を3種類見たのですが、その内の二つは最後は画面に「終劇()」、後の一つは最後の画面に「完(※※)」の文字がありました。

(旧リリース版の「新世紀エヴァンゲリオン劇場版」(「DEATH(TRUE)2 & REBIRTH」+「Air/まごころを、君に」)に収録されている「まごころを、君に」編と、新リリース版の「新世紀エヴァンゲリオン劇場版」(「DEATH(TRUE)2」+「Air/まごころを、君に」)に収録されている「まごころを、君に」編とでは最後は「終劇」になっています。)

(※※旧リリース版の「新世紀エヴァンゲリオン Volume7」(「TV版」の最後の二話と「劇場版」の二話(から劇場版らしさを取り除いたもの)とが交互に収録されている(「終わる世界」、「Air」、「世界の中心でアイを叫んだけもの」、「まごころを、君に」の順で収録されている))に収録されている「まごころを、君に」編では最後は「完」になっています。)

白背景に「終劇」の文字

旧リリース版の「新世紀エヴァンゲリオン劇場版」、新リリース版の「新世紀エヴァンゲリオン劇場版」の「まごころは、君に」編の最後は白背景に「終劇」となっている。(引用画像は新リリース版「新世紀エヴァンゲリオン劇場版」。)

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

白背景に「完」の文字

旧リリース版の「新世紀エヴァンゲリオン Volume7」の「まごころは、君に」編の最後は白背景に「完」となっている。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

主よ、人の望みの喜びよ(エンディング)

旧リリース版の「新世紀エヴァンゲリオン Volume7」(「TV版」の最後の二話と「劇場版」の二話(から劇場版らしさを取り除いたもの)とが交互に収録されている(「終わる世界」、「Air」、「世界の中心でアイを叫んだけもの」、「まごころを、君に」の順で収録されている))に収録されている「まごころを、君に」編では白背景に「完」の文字が表示された後にエンドロール(スタッフロール)が流れます。エンディングの曲は「主よ、人の望みの喜びよ」になっています。

(旧リリース版の「新世紀エヴァンゲリオン劇場版」(「DEATH(TRUE)2 & REBIRTH」+「Air/まごころを、君に」)に収録されている「まごころを、君に」編、新リリース版の「新世紀エヴァンゲリオン劇場版」(「DEATH(TRUE)2」+「Air/まごころを、君に」)に収録されている「まごころを、君に」編ではエンディングは用意されていませんが、どちらも「Air」編のエンディング(THANATOS -IF I CAN'T BE YOURS-)の中で「まごころを、君に」編に関連する表示が行われているので、ここでは必要無いのかも知れません。ここにエンディングを置かないようにするために「Air」編のエンディングの中で「まごころを、君に」編に関連する表示を前以て行ったとも考えられます。

エンドロール(スタッフロール)

旧リリース版の「新世紀エヴァンゲリオン Volume7」の「まごころを、君に」編にはエンドロール(スタッフロール)が用意されている。エンディングの曲は「主よ、人の望みの喜びよ」。

[ 画像引用元 : 新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」 © 1997 GAINAX / EVA製作委員会 ]

「エヴァンゲリオン」と言う夢の終わり

劇場版を見る前には姫の中に高々と聳え立っていた「エヴァンゲリオン」でしたが、その「エヴァンゲリオン」が立っていた姫の中の場所は劇場版を見終わった後には劇場版での最後の場面のように殆ど何も無い新地のような場所になっていました。

この劇場版ではこれまでに築いて来た「エヴァンゲリオン」の破壊(それまでのものよりも大きな破壊)が行われましたが、その破壊は、それと同時に、人々の中にある(作り手側が人々の中に築いた)「エヴァンゲリオン」の破壊を行うためのもの(行おうとしたもの)でもあったように思います。(破壊の後に残ったのは新地となった舞台、自分と他人、そして、そこに生まれる人の可能性だけです。)

人々は劇場で「エヴァンゲリオン」と言う夢を見、劇場を後にし、現実へと戻って行くのですが...この劇場版は人々が劇場(夢を見る場所)を後にして現実世界へと帰ってた後も見続けようとしていた夢、人々の中の「エヴァンゲリオン」と言う夢を破壊し(終わらせ)、人々を夢から醒めさせようとしているのでは無いかと、そう言った意図が込められているのでは無いかと感じられました。

そうだとするなら人々の中に夢を作った側の人間が自分達の作った夢に夢中になっている人々、夢を見にやって来た人々に対して夢の終わりを与えた事になります。(夢が大好きな人は一つの夢が終われば次の新たな夢、自分にとって都合が良く心地の良い別の夢を探して回るだけなのかも知れませんが...。「どうしてもエヴァンゲリオンで無ければいけない」と言う人以外は...。)

姫は夢は現実への影響ではあっても現実の代替や逃避先になるものでは無いと思っていますし、夢と現実を取り違える事も夢に取り込まれる事も無く現実と向かい合いながら夢と接して行くようにしているので、夢を見終わった後に現実へと戻って自分や世界ときちんと向かい合うのであれば夢を見るのも良い事だと思っています。そのため、夢から醒めるために夢を破壊する必要など無いと思うのですが、世の中には現実世界に夢を持ち込んで混同させてしまう人間もいるのでしょうし、破壊しないと何時までもそれにしがみ付いていると言う人間もいるのでしょう。そう考えると(考え過ぎかも知れませんが)この劇場版では作り手側が「エヴァンゲリオンは終わった。もう、しがみ付くな、引き摺るな」と言っているようにも思えて来ます。また、「エヴァンゲリオン」と言う作品の破壊を通して、「エヴァンゲリオン」での事に止まらず、もっと広い意味で人々に現実と向き合う事を考えさせようとしているのでは無いかとも感じました。それが、碇シンジの死と再生とを(現実を投げ出し、再び現実に目を向けてみようと思うまでを)描いた上で「エヴァンゲリオン」と言う作品そのもの(人々が求めやって来た夢)の破壊だったのでは無いかと思います。(これは特に夢と現実との境が曖昧で双方の重なりが大きい人々、現実と向かい合う事に積極的では無く夢見がちな人々に対してそれを告げているように思います。ただ、そう言った人達からすれば余計なお世話なのかも知れません...夢を見ていたいのでしょうから...。(作品公開前は誰もが、まさか、夢を見る場所(映画館)で夢の終わりを目にし、現実と向き合う事を促されるとは思ってもいなかった事と思いますが、姫としては、その中でも、特に、夢を見ていたい人達の感想が知りたいところです。夢の終わりを見せられて、夢から目を醒ませと言われて何を思ったのか...それが気になります。))

人々の心の中の「エヴァンゲリオン」と言う作品が立っていた場所は破壊によて新地とも言える状態になりました。「エヴァンゲリオン」と言う夢から醒めた人々が、今後、その場所に何を建てるかは自分の自由だと思います。そのまま(碇シンジと惣流・アスカ・ラングレーの2人だけの世界)にしておくのか、何か自分なりの別のものを建てるのか、再び同じようなものを建てようとするのか、可能性は無限にあり、その先は自分次第だと思います。大いなる破壊の後にはそれまでの制限が取り払われた再生の土壌が残されていますので。

伝えたかった事とその先の可能性を残して破壊された「エヴァンゲリオン」、それは寂しくもありますが、人々の中に夢を築き夢中にさせるだけで無く、その夢の終わりを用意し、夢からの開放まで人々を導こうとしたのであれば、それは伝えたかった(と思われる)事の実行だと言えますし()、作り手側の「まごころ」だったのかも知れません。(「エヴァンゲリオン」と言う夢を見続けたかった人間にとっては残酷な優しさかも知れませんが。)

(「エヴァンゲリオン」の中で「夢から目を覚まして現実を生きようと決める碇シンジ」の様を見せておきながら、その作り手側が人々を引き付けて夢中にさせる「エヴァンゲリオン」と言う夢を人々の中に残しておいたのでは示しが付かないと言えると思います。それが現実を拒絶した人間の逃避先となり得るほどの魅力や快楽や都合の良さを持った夢では無いにしても、現実と虚構の狭間が曖昧で現実と夢の混同を起こしやすい人間、現実よりも夢を好み現実と夢の混同を起こしたがっている人間の中にはそれによって現実を浸食されてしまう人間、現実にまでそれを引き入れてしまう人間もいるでしょうし、そう言った夢見がちな人間を「エヴァンゲリオン」と言う(自分達が作った)夢から解放して現実へと帰還させるためには(自分達による)その破壊が必要だったのだと思います。それを行わずに碇シンジを通して碇シンジのような現実よりも夢を好む人々に現実を受け入れて生きる事を伝えても説得力に欠けますので。)

後記 : 「Air/まごころを、君に」(第25話/第26話)

全体的に思っている事の半分も書けずに終わり、文章で物事を伝える事の難しさを改めて感じさせられました。

どちらの記事も(第25話「Air」の記事も第26話「まごころを、君に」の記事も)作品を見ての感想や自分なりの解釈を十分な整理もせずに気ままに織り交ぜながら(ごちゃ混ぜの状態で)書いていますので、全体を通して非常に分かり難く読み難い文章になっているのでは無いかと思います。また、十分な掘り下げが行われていないために分かり難くなっている部分や、説明や言葉が適切でなかったり足りなかったりするために分かり難くなっている部分も多くあるかと思います。

文章内では解釈の行き詰まりを防ぐために自分の考えに反していてもアニメに寄せた考え方を採用しているところがあります。アニメですのでアニメ的な解釈が妥当な場合はあるのですが、それとは別に単なる苦し紛れとしてアニメ的な解釈を持ち出しています。アニメ的な解釈以外に適当なものが見付からない場合には特に...都合の良いように「アニメ」の便利さを利用しています。

キャラクターの気持ちや行動に対しては「姫ならこうなのに」と言った態度が中心になっています。自分との差異を主軸に物事を捉えて行く事には悪い面も付き纏いますが、最も良く分かる比較対象は自分自身であり、姫の考えや感覚を基準にして比較を行うようにしました。(個人で一般を扱う時に起こる錯覚の煩わしさを嫌いました。)個人的な感覚が中心であるため共感は得られない事が多いのでは無いかと思います。

また、理解は出来ても姫が自分自身であったなら受け入れ難いと思われる部分に就いては基本的には容認しない態度を取るようにしました。「理解はするけれど、それではいけない」と言った態度です。実生活での姫は「そうしなければならない」、「そうであってはいけない」と思う事を、自分自身に課しはしても、それを同じように他人に求めるような事は無いのですが、それを文章内にそのまま持ち込むと人物の思考や行動(態度)に対して書く事が殆ど無くなってしまうためです。自分の中の基準を使って相手を理解しようとする一方で相手の都合に合わせた理解(相手が望む通りの理解)を見せる必要は無い(読み取った上で受け入れ難いものに就いては容易には受け入れない)と言った態度はいつもの姫と変わりませんが、ここでは敢えて自分自身の基準を相手にも当て嵌めた形で他者を扱っています。

このサイトでは「エヴァンゲリオン」に関する資料等は一切見ずに映像として描かれている部分だけを対象にして書いています。(あやちゃんから資料等を見て良いと言う許可が下りていないので見ようにも見る事が出来ないのですが。)そのため、公式の設定や一般的妥当な解釈とは大きく異なる独自の解釈が行われている箇所も多くあるのでは無いかと思います。また、解釈の中に出て来るカバラは姫の魔術理論に合わせて改修したものであり、心理学も姫の扱う魔術に適用させるために改修を加えている部分が含まれています。(カバラにしろ心理学にしろ用途によって改修が必要とされる事はあり、特に魔術師のカバラは魔術師によってそれぞれのところが見られます。)ここで使われているのは姫の魔術理論を築くために姫が改修を加えたカバラであり心理学であるため、一般的なカバラや心理学から逸れている部分があります。読む際にはその点での注意が必要だと思います。

また、「生命の樹」では物事が複数のセフィラに照応する事もありますし、縮尺を変えれば照応も変わるのですが、文章内では物事の多面性による照応先の変化や縮尺の違いによる照応先の変化に就いてその都度で触れていない事がほとんどです。そのため、マルクトに照応させていたはずが、ある時はイェソド、ある時はビナーと言ったように...何の前置きも無く照応先が変化している場合も多くあるかと思います。これらにも注意が必要だと思います。

カバラ的解釈では解釈の方向性として部分的に反転させる方法や、全てを反転させる方法もあったと思います。ただ、全体を反転させる考えは保留して、部分部分で反転させた考え方もあると言ったような書き方をしました。その方が解釈が(正しいかどうかでは無く)進みやすかったためです。虚数の実体化のような話を頭の中で考えるのは大変でしたので。

文章内では概ね「解釈の自己満足」が見られると思います。分かった気になって一人で満足している状態です。姫が碇シンジに対して最初に直感したのは「臆病で自分勝手な人間」と言った印象だったのですが、姫も自分勝手な快楽を求めてこの文章を書いているのですから...何と愚かな事かと思います。人間は誰もが多かれ少なかれ自分勝手な部分を必ず持っている(無ければ生きて行けません)とは言っても...本当に恥ずかしい限りです。あやちゃんには「文章の内容が稚拙なだけならまだしも、傲慢で滑稽な様を恥ずかし気も無く自ら晒している辺りが小姫らしくて可愛い()」、「愚の骨頂を擬人化したものが小姫だと言う事を見て取るには十分な内容」などと言われてしまいました。あやちゃんの言葉は姫を表す言葉としては的確なものであり、返す言葉もありません...その通りだと思います。

(あやちゃんからすると姫の知能の働きの鈍さと知識の乏しさ、そしてそれを恥じもせずにいるところは姫の長所だそうです...。知能の低さや知識のなさは自分でも恥ずかしくはあるのですが...。)

最後に。的外れな解釈や纏まりの無い粗悪な解釈を書いてある箇所も多々ある事と思いますが、何かの参考にでもなれば、良くも悪くも少しでも解釈の足しになればと思い(「なるほど」も「それは違う」も解釈を進める材料にはなると思い)書きました。あやちゃんが言うところの「猫並みの脳しか持たない」姫が書いた文章ですので当てにはならないと思いますが、こう言う考え方もあると言った程度の事だと思って頂ければと思います。

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